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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

陳寿も邪馬台国の位置を知らなかった!(^_-)-☆

2024-04-13 18:54:32 | 古代史
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#いつも勉強させていただいている岡上佑様のいい動画を見つけたので早速コメントしました。よろしければお付き合いください(;^ω^)

【邪馬台国論争】混乱に拍車?後漢書倭伝をぶった斬る!!
岡上佑の古代史研究@YouTube


@YO-high
動画お疲れ様です。
ワイは、後漢書は信頼しております。范曄がわざわざ陳寿とは違う概念で書いたってことが重要かと存じます。

何故信頼してるのかってのは、その時代「倭の五王」の朝貢があったとされてて、劉宋にも「倭人」が行ってて「倭人」から聞いた情報もあるんじゃないかと思ってるからです。
倭人に「魏志倭人伝」を見せて、間違ってる部分を聞いたとしたら、狗奴国が「東」にあるってのも頷けるかなぁと。
あと、「倭國之極南界也」の「奴国」も倭人から聞いた話っぽいと思うんだよなぁ。
まぁ解釈の問題としては「それはそれ」。一つの可能性としては考えておくべきであると考えております。
・・・ワイも「空箱」を贈られそうだなぁ。

で、ワイは後漢書倭伝の最後の部分、「東鯷人」のあたりをもっと深堀して欲しいです。
東鯷人、、、ワイは「倭人」だと思っております。
帯方郡に出向いたのが「倭人」で、会稽郡に出向いたのが「東鯷人」かなぁと。どちらも同じ倭人だけど管轄が違うだけかと。
この部分だけでも「後漢書倭伝」には価値があると思っております。
面白かったです。。


刮目天
YOさん、今晩は!
倭の五王のころですから、倭については陳寿の知らない情報があるはずですので、わたしも全く同じ意見です!

文献史学の方は、先行文献を一次史料として最重要視するようですが、それが事実、つまり考古学や民俗学などの成果と合致するかどうかまで確認しない傾向があるのではないかと疑っています。

少なくとも後漢書倭伝の記述は事実と合致するので正しいと考えていいと思います!

纏向遺跡は間違いなく旧奴国(狗奴国)ですし、卑弥呼がいた邪馬台国は宇佐市安心院町宮ノ原遺跡でしたので魏志倭人伝の文章を書き換えたのです。
(詳細は「邪馬台国は安心院(あじむ)にあった!」参照)



途中の行程記事を書かなかったのも、陳寿が抜き出した帯方郡の報告書のそれがデタラメだからなのです!

この行程記事は本当の倭国王難升米が政治的な理由でデタラメを書いて魏に教えたものだと分かりました!
(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照)

つまり陳寿も邪馬台国の正確な位置は知らなかったのですが、陳寿は伊都国の隣辺りに在ったと想定したのかもしれませんね。

もう一つ、范曄が書いた倭国王帥升も事実だったことが、日本で作られた最古の金石文である室見川銘板が証明していますね!
(詳細は「【わかった!】室見川銘板のなぞ」参照)

【関連記事】
狗奴国の場所から邪馬台国が分かる!(^_-)-☆
多くの皆さんは魏志倭人伝の記述に騙されて狗奴国は熊本にあると思っていますが、狗奴国は纏向遺跡で正解です。
孫栄建氏も「困ったときは范曄に聞け」と「決定版 邪馬台国の全解決」(言視舎2018年)の中で述べておられました。范曄は五世紀の倭の五王の時代の劉宋の人ですから、倭国の正しい情報を入手していたのですよね(^_-)-☆。


孫栄建氏は「春秋の筆法」に長けた陳寿を完全に理解した范曄の判断について、さらに以下のように述べています(同書、p.195)。
二十一世紀の私たちが、史書解読について五世紀の范曄より優れていると錯覚するのは、現代人の愚かな傲りだ。当時には当時の文化的世界があり、その体系があったからだ。
『後漢書』は『魏志』の『筆法』による記述をしっかりと受け止め、応戦しているのだろう。その結果、狗奴国は、女王国の東の海を渡った地方と読み取ったのだろう。『魏志』解読に関する彼我の能力を考えるとき、私は、黙って范曄に従わざる得ない。餅は餅屋なのだ。


【邪馬台国問題】景初二年か景初三年か?
文献史学者の中島信文氏も「『後漢書』「倭伝」は日本古代史には弊害の書」とまで述べて徹底的に范曄後漢書を批判しています(「陳寿『三国志』が語る知られざる驚異の古代日本」(本の研究社)2020、pp.224-259)。しかし、事実に基づく科学的な手法を適用して魏志倭人伝のトリックを見破ることができましたので、范曄後漢書倭伝の記述は正しいと分かりました。

文献史学者が間違った原因は、陳寿ですら邪馬台国の正確な位置を理解していないながら、自らが想像した場所にそれとなく後代の史学者を誘導したのが原因ではないかと思います。それは、陳寿も帯方郡の報告書の中の邪馬台国への行程記事がデタラメだと気づいていたのですが、西晋の創業者の司馬懿が作らせた文章をあからさまに否定するなどできなかったからなのでした。

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