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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

幻の九州王朝説がなぜ生まれるのか?(;^ω^)

2025-01-25 20:00:09 | 古代史

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#九州王朝説(きゅうしゅうおうちょうせつ)は、7世紀末まで九州に日本を代表する王朝があり、太宰府(だざいふ)がその首都であったとする説である(wiki「九州王朝説」より)。戦前から学者の間でも主張されていましたが、古田武彦「失われた九州王朝」(朝日文庫 1993)が大人気となり、学者・アマチュアによってこれに派生する様々な仮説が登場しました。しかし、学会で論争となり、安本美典「虚妄の九州王朝」(梓書院 1995)などによって九州王朝説が批判され、現在では古田氏の説を継承する「古田史学の会」などで研究活動が続けられています。

現在の天皇家に繋がる畿内の王朝とは別に九州王朝が存在したかのような【都市伝説】として語られていた動画をまた見つけましたので、今回は何故、このような天才的なアイデアが生まれるのか?について考えてみたいと思います。よろしければ、またお付き合いください(;^ω^)

古代日本史の隠された歴史を中国で発見『隋書倭国伝』に記録されていた…99%の日本人が知らない倭国の真実がヤバすぎる…【都市伝説】
くろの【都市伝説】@YouTube

興味ある話題を有難うございます。シナの正史と日本の正史「日本書紀」に矛盾があることは知られていますが、多くの皆さんは天武天皇が編纂を命じた日本書紀は天皇の歴史書だという思い込みがあるために謎のままなのです。

このような矛盾のある状況が史実として在ったとして、

その矛盾を解決するために九州王朝説が生まれたのでしょう。

しかし、日本書紀が完成した720年は天武天皇が崩御して34年後なのです。当時の権力者は藤原不比等だと知られています。不比等が日本書紀を残す理由は何かを深く考えるべきです。

それは権力を握る上で行った不都合な史実を隠し、歴史を改ざんする必要があったということだと直ぐに考えられます。

その証拠が、魏志倭人伝に登場する倭国女王卑弥呼が日本書紀に現れていないこともその一つです。他にもいくつもありますが、600年のアメノタリシヒコの遣隋使を無視したことも明確な証拠です。日本の歴史を誤魔化す理由がないと思われる隋書に明確に記されているので、日本書紀に信ぴょう性がないことは明白です。

日本書紀よりも先に完成したとされる古事記ですが、九世紀に突然表に出てきたものなのです。正史にその記録もないですし、日本書紀が参照したり、引用した痕跡は見当たりません。おかしいと思いませんか?

事実、つまり考古学や民俗学などの成果と合わない文献は偽書なのです。

逆に事実から推理し、文献に虚構があるのはなぜか、編纂者・著者の意図を推理して仮説が生まれます。その仮説をさらに多くの事実で検証すると蓋然性の高い仮説が生まれます。

古事記は日本書紀が隠した史実をそれとなく暴露する目的の暗号書だったのです。

その暗号を解くことにより仮説がさらに拡張され詳細化できます。

こういう事実に基づく仮説構築の手法はアブダクションと呼ばれる科学的な推論法のひとつです。

これにより、3世紀の日本の建国過程を明らかにし、4・5世紀の空白の世紀と倭の五王の謎も7世紀初頭の二回の遣隋使の謎もすべて解明しました。そしてアメノタリシヒコは二人いたことが分かりました。二人ともヤマトの大王(おおきみ)です。

ですから、九州王朝が幻だったことが明らかになりました。

よろしければ詳細は「【刮目天の古代史】謎の古代史を科学的に解明する(#^.^#)」「【わかった!】アメノタリシヒコの正体!」などをご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)

 

【関連記事】

「倭の五王」は九州王朝の大王ではなかった!(;^ω^)

古事記の崩年干支から空白の150年に隠された二人の天皇と倭の五王の正体も分かりましたし(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その2)(その3)」参照)、アメノタリシヒコが二人いたことも、天武天皇と兄弟にされた天智天皇の系譜も古事記から推理できました(詳細は「【刮目天の古代史】天智天皇の謎?」参照)。不比等が隠したかったことを推理すると古代史の真相が分かってきました。

 

 

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