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古事記は何でも知っていた?( ^)o(^ )

2025-01-31 16:50:53 | 古代史

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【古事記一新】第三十一話・古事記に投馬國が載っている件

北行古事記一新ちゃんねる@YouTube

とても面白く拝見させていただきました(#^.^#)
確かに、古事記に崇神天皇を御眞木入日子印恵命とあるのは、卑弥呼が金印を賜ったのは崇神天皇の時代だと示唆していますね。古事記を書いたのは多人長ですが、彼は至る所で史実のヒントを残してくれていました。古事記の崩年干支は空白の世紀と倭の五王の謎を解くカギでした(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その2)(その3)」参照)。

みなさん驚かれると思いますが、記紀は天皇の歴史書ではありませんよ。日本書紀は編纂を命じたのは天武天皇ですが、崩御34年後の720年に完成させたときの権力者は藤原不比等ですから。その後の藤原氏の栄華の基礎を築いた人物なのです。日本書紀は権力の正統性を主張する勝者の歴史書です。3世紀までの建国時代の史実は神話を創って隠し、人代も相当歴史改ざんを行っていたのが、事実、つまり考古学や民俗学などの成果から分かりました。

一方先に完成したとされる古事記は9世紀の学者多人長が日本書紀の講えんの講師をしたときに突然表に出してきたものなのです。正史に古事記の記録もないですし、日本書紀が古事記を引用したり、参照した痕跡もないのです。日本書紀が隠した史実を先ほどのとおり、それとなく暴露する目的の暗号書だったのです。いくつも見られる古史古伝というのも古事記と同じ目的でしょう。

では古事記が何故、推古天皇で終わっているかですが、天武天皇の後に即位したとする持統天皇が皇后から即位したというあり得ないウソを誤魔化すための前例なので、これも真っ赤な嘘だから、それ以上書けなかったのですよ(*´Д`)

隋書倭国伝にあるとおり当時の大王(オオキミ、天皇)はアメノタリシヒコなのですから、どちらを信じますか?

天皇(大王)が皇統の万世一系の男系男子というのは、天皇のルーツを考えれば当然だからです。天皇のルーツはシナの三皇神話の筆頭の天皇伏羲です。魏略逸文にある「倭人は太伯の後裔」と考えられていた証拠が倉敷市楯築王墓の神社のご神体亀石という弧帯文石です(詳細は「【大発見!】天皇家のルーツの証拠!」参照)。

そして600年に倭国王の政治理念を語った人物と607年に聖徳太子の手紙とされるものを煬帝に送った人物は別人で、ふたりのタリシヒコが存在したことが分かりました(詳細は「【刮目天の古代史】天智天皇の謎?」参照)。兄と弟の政治理念は、日本建国の過程を調べて分かりました。

新唐書・宋史に書かれた王年代紀にヒントがあります。「日本は古の倭の奴国」です。先ほどの太伯の後裔、つまり天御中主が紀元前473年に滅んだ呉の王族ですが、半島南部を経由して、紀元前4世紀初頭に福岡市早良平野に遷都したのです。吉武・高木遺跡に初期三代の奴国王と妃・王族の墓が発見されています。皆さんは記紀を天皇の歴史書だと信じているので、気が付かないのです(詳細は「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。

隋書倭国伝に見られる兄は、第18代奴国王素戔嗚尊で、記紀神話の暴れん坊の神で高天原を追放されたことになっています。奴国宮廷楽師の師升らが反乱を起こし、スサノヲを拷問して殺して倭国を奪ったことが古事記にありますよ。金印の在りかを白状させるために拷問したのです。しかし、スサノヲの部下がいち早く持ち去り、逃げる途中で志賀島に寄って土の中に埋めたのです。江戸時代になって百姓が発見した本物ですよ。それで107年に160名ものスサノヲの部下らを奴隷として後漢に献上して倭国王に認められたのです。この事件が原因で倭国大乱が起こり、卑弥呼が登場し、最終的に日本が建国されます(詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。

クーデターを逃れたのが王子イタケルですが、出雲王となり、その三代の子孫(八束命・日高彦・高野御子)が縄文海人ムナカタ族を束ねる王となって倭国大乱から日本建国で大活躍したのです。記紀では日向三代の神話にしています(詳細は「【刮目天の古代史】出雲・丹後王国の謎!」参照)。

そしてスサノヲの弟も逃げて、裏切り者の吉備の勢力を討って、奴国を再興します。さきほどの楯築王墓の被葬者で、19代王天照大神尊、先代旧事本紀の天照国照彦天火明櫛玉饒速日命ニギハヤヒ大王です。

 

 

日本書紀はこの史実を吉備津彦(イサセリヒコ)の鬼退治で誤魔化していますが、平安時代の貞観期の前あたりから地殻変動が活発になり、地震・津波・火山噴火が頻発して治安が悪化したので、備中国吉備津神社吉備津彦命と淡路国一宮伊弉諾尊に皇族に与える特別な神階「品位(ほんい)」を差し上げて祈っているので、吉備津彦が皇祖神ニギハヤヒ大王と分かりました。

神武天皇は本当の初代ヤマトの祭祀王応神天皇の史実を誤魔化すために創作した虚像ですが、ニギハヤヒ大王の子孫の崇神天皇が、大国主高野御子(記紀の武内宿禰)・女王台与(記紀の神功皇后)を討って日本を統一したのです。ところが、ある事情でふたりの子応神天皇(大田田根子)を呼び寄せて両親の鎮魂祭祀を行わせ、狗奴国(纏向遺跡)を邪馬台国の後継国にしたので、ヤマトと呼ぶことにしたのです。

しかし、応神天皇崩御後にスサノヲ・大国主系豪族とニギハヤヒ系豪族の権力争いが繰り返し起こり、ようやく天智天皇の孫の光仁天皇・桓武天皇になって両者の争いが終了して、今上天皇までニギハヤヒ大王の系統が続いていることを突き止めました。

女帝が存在しないことは天皇家の菩提寺泉涌寺で歴代天皇を仏式で祀っていますが、明治になるまで江戸時代の二人の女性天皇は天皇として祀られていないことが分かりました。架空の女帝持統天皇を創作したので、二人の前例(推古天皇と皇極・斉明天皇)と、その後の女帝も藤原氏によって創作されていたという重要なことが分かりました(#^.^#)

長い話になって申し訳ありませんでした(^^;)


あ、日本書紀の神功皇后紀に卑弥呼や台与の記事が注記されてますが、高市皇子の長男長屋王が政権を握った時代に書き入れたと推理しています。書き忘れましたが、天武天皇崩御後に高市皇子が即位していたのです。長屋王の広大な屋敷跡から出土した木簡に長屋親王とありますので分かりました。ですから持統天皇は存在しないのです(^_-)-☆
日本書紀や続日本紀などが天皇の歴史書だと信じていると誤魔化されますね(#^.^#)

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