刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

【国宝】臼杵石仏の謎?(*^-^*)

2022-01-06 20:39:31 | 古代史
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前回ご紹介した狗古智卑狗の霊ラインに嵌りっぱなしです。他のことが出来ないので何とかしないといけないのですが(´ω`*)
いや今回も、また大発見ですから、霊ラインから逃げられない運命かも知れません(*^-^*)

表題の臼杵石仏ですが、大分県を代表するもので、最初に国宝に指定された有名な磨崖仏群ですね(是非、このページの写真をご覧ください)。「古園石仏大日如来像に代表される国宝臼杵石仏(磨崖仏)は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて彫刻されたと言われています。誰がどのような目的で造営したのか、はっきりとしたことは分かっておらず、今もなお多くの謎に包まれています。」とあります。何で大分県にこんなにも多いのか?阿蘇山や由布岳などがあるので火山活動で夥しい数の岩石が産まれましたから、素材には困らない!と言っても、多くの労力をかけて何で石仏を作らなければならないのか?ということでしょう。

その謎を解くヒントを、またまたYouTubeの動画で発見しました。



豊後大野市にある標高589mの稲積山の山頂に、例の南西方向と北東方向に一直線に並んだ列石が配置されています。

豊後大野市と言えば、「日本書紀」の景行天皇の土蜘蛛との戦いで激戦となった舞台です。景行天皇は実は、父タラシナカツヒコ(記紀では景行天皇の孫の仲哀天皇と誤魔化しています)を大国主に殺され、仇討のために九州遠征した狗奴国側の有力者の尾張王オオタラシヒコオシロワケです。土蜘蛛というのは大国主の倭国軍のことです。尾張王はここで打猿らに散々痛めつけられて、命からがら佐伯市の海部郡宮浦まで逃げて、宮崎県西都市の川床遺跡で多数の戦死した仲間を弔い、纏向の狗奴国王の援軍を高屋宮で二年くらい待ったようです(「【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その2)」参照)。

稲積山は宇佐市にもある秀麗な山で新羅からの渡来系倭人辛嶋氏が卑弥呼を原八幡神として祀っていた山と推理していますから、豊後大野市のこの稲積山も最初、卑弥呼と関係があるのかと思いましたが、違ったようです(「卑弥呼を不比等から護った人物?」参照)。日本中に同じ名前の稲積山はいくつかあるようです。収穫した稲束を干したようなきれいな形からその名が付いたのでしょうか?

ここの稲積山は日本最大と言われる稲積水中鍾乳洞がある場所で地底探検のスポットでした。付近には高さ22mという大分県一の高さの黄金色の昇龍大観音像が立っています。また、作り物ですが、巨大な龍の口から霊泉がわき出ている神秘的な場所です。奴国(龍蛇神ナーガ国)の大王(龍王)に因む場所ですよ。七福神(男神六柱はすべて大国主の分身)も不動堂(不動尊は大国主の荒御魂つまり荒神の本地仏)もありますので、奴国大王の末裔大国主久々遅彦と関係のある場所のようです(「本当は怖い七福神の謎」「なんで出雲に大元神社がないの?」参照、)。

Hirokun TVさんはこの動画の最後の方で、南西方向にある祖母山(そぼやま、南西よりも少し西約10kmの標高1756mの山)のさらにずっと、ずっと向こうの南アフリカの「フェルヌークパン」というミステリーサークルの場所まで誘導していただきました。

しかし、この稲積山の南西は、天孫降臨や天岩戸神話で有名な高千穂町の方角です。ということは、新たな霊ラインか?と、国土地理院のツールで調べました。

南西方向にはニニギノミコトの降臨地の槵觸(くしふる)神社の真上を通過しています。アマテラス女神の孫ニニギノミコトの天孫降臨の神話の元ネタは第四代奴国王天彌聞尊(あめのににぎのみこと)が祖父で第二代奴国王天村雲尊(あめのむらくものみこと)から剣・玉・鏡を受けて吉武高木遺跡から須玖岡本遺跡に王宮を遷し、那珂・比恵遺跡に列島内の産物の交易センターを作ることを命じられた故事から「日本書紀」で創作されたものと推理しています(「【検証21】天孫降臨と草薙剣の謎?」参照)。そして、その手前の、猿田彦、つまり大国主を祭神とする荒立神社の真上もしっかり通過していました。

さて、本題の臼杵石仏の話ですが、稲積山の南西方向の真反対の北東方向にあることが分かりました。
そうすると、さらに北東方向に何があるのか?

お!

なんと!

まさか?

臼杵石仏は大日如来像に代表されますから、前回見たように北東方向は弥勒菩薩なのです(「【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その2)」参照)。

そうですよ!弥勒菩薩は大国主狗古智卑狗(久々遅彦)の本地仏です(「卑弥呼を不比等から護った人物?」参照)。

久々遅命(あるいは久々智神)を祀る豊岡市の久々比神社の真上を通過しているじゃないですか!

歴代の狗古智卑狗(久々遅彦)の王宮と推理した場所でした。

例の大国主狗古智卑狗の霊ラインがもひとつ引けましたね(「【謹賀新年】狗古智卑狗の霊ライン?」参照)

これで全て謎は解けました。

臼杵石仏は大国主久々遅彦を祀るために作られたのです。さらに、日本建国で多くの人々の血が流れましたので、亡くなった全ての人々を代表する大国主大神を祀ることで、その祟りを抑えてもらうことが目的でしょう。そのために大日如来の他にも沢山の石仏(磨崖仏)が作られたのでしょう。

日本列島には数多くの火山があります。噴火や大地震や津波などの天変地異などのあらゆる災害は、すべて日本建国時代に亡くなった人々が鬼神となって、その怨霊が引き起こすと信じられていたようです。ですから神社仏閣などで丁重に鬼神の霊魂を慰め、自分や大切な人がみな幸せに生きていることを感謝し、ご加護を祈る習慣が日本人には古代から伝わっているのです。

今年も良い一年であることをお祈りいたします。合掌


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【検証24】狗古智卑狗の墓発見!(その3)狗古智卑狗の霊ライン?(@_@)

2022-01-01 00:00:01 | 古代史
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タイトルを変更しました(^_-)-☆

明けましておめでとうございます。
旧年中はお付き合いいただき、有難う御座いました。
本年もどうぞよろしくお願い致します。
                 令和四年 元旦


お陰様で、昨年は駆け込みで大発見をすることができました。前回述べました通り、先代狗古智卑狗が発する霊的なエネルギーを吸収するために米神山中腹の月の神谷の陽石が、先代が活躍し最期を遂げたと考えられる場所に向けられていたことは、当時の人々の霊的なものへの信仰を理解する上で、とても重要な発見だったと思います。

大国主が米神山に登り、およそ80kmも離れた南西方向の茶臼塚古墳に向けて陽石を置いています(二地点を結べば南西よりも6度だけ西側)。しかし、前方の高い山が邪魔をして、とても目視して目的の方角へ向けて陽石を設置することは出来ませんので、恐らくは目印となる山々を見て、頭の中で地図を描いていたのではないかと考えてしまいます。しかし、標高1052mの八方ヶ岳の真後ろに茶臼塚古墳があると、現代人は地図から分かりますが、その近くにも同じような千mクラスの山が並んでおり、近代的な測量技術のない当時の人がどうやって八方ヶ岳を見つけたのか考えさせられます。山頂の狼煙によって位置を知ったのでしょうか?



いずれにしても、このような作業を当時の人々が神と対話しながら行っている情景を考えると、適切な言葉が浮かびませんが、現代科学では説明しきれない人間の心の奥深いところに神霊を感じる何かが存在しているようです。

前回にも述べましたが、二世紀末から三世紀の先代狗古智卑狗と大国主の時代から六百年以上も後の平安時代の人々は、曼荼羅を意識して狗古智卑狗の本地仏であった弥勒菩薩が悟りをひらき大日如来となって納められた石祠を茶臼塚古墳の墳頂に配置し、大日如来の垂迹神である天照皇大神を祀る御宇田神宮を創建して、弥勒菩薩を北東に配置する形にしています。大日如来を本尊とする神宮寺が他に存在しているのかも知れませんが、石仏が神宮寺に代わるものなのかも知れません。(2022.1.1 自転車くまさんのコメントを受けて赤字のとおり修正しました。)

当時の人々が「日本書紀」で抹殺された先代狗古智卑狗と大国主の事績を、史実として正しく理解していた証拠だと思います。

また、山鹿市・菊池市・玉名市などの周辺や米神山の周辺は当然、先代狗古智卑狗や大国主が活発に活動した領域だと考えていますので、ゆかりの神社などは他の場所と比べれば、かなり多く存在しているようです。しかし、当時の人々は現代人よりも敏感に直線的な霊的なエネルギーの流れを感じて、ほぼ直線状にゆかりの神社仏閣も配置しているようです。


(左クリックで地図が閲覧できます)

刮目天は卑弥呼の霊ラインと同様に、これを狗古智卑狗の霊ラインと呼ぶことにしました(注1)。その他にも狗古智卑狗の子である大国主や先祖である奴国大王スサノヲの墓と考えている葦嶽山ピラミッドなどの神霊スポットとの間に霊ラインを引いています。ライン上にどのような神霊スポットが出現するのかを調べる作業はとても楽しいので、時を忘れて没頭してしまいます。よろしければ、一緒にお楽しみください。新年早々、オカルトっぽい話でしたが、今年も古代史の謎解きにお付き合いください(*^▽^*)

(注1)「【衝撃】卑弥呼の霊が不比等のウソを暴く?」参照。

このようなレイライン(ley line)の存在は科学的に解明することは今のところ不可能のようですが、レイラインを引くことはできます。そして偶然レイラインを形作っているとも考えることはできますが、米神山の陽石によって方角が規定されているのも事実ですから、偶然と片づけるわけには行かない気がしています。

聖なるライン(wiki「レイライン」より引用)
1969年に岸俊男は、日本の藤原京遺跡のメインストリートである朱雀大路の延長線上に、檜隈前大内陵、菖蒲池古墳、中尾山古墳が存在することを指摘した[8]。1972年に発見された高松塚古墳の壁画をもとに直木孝次郎がそれぞれの古墳の被葬者を推測したところ、マスコミはその直線を「聖なるライン」と名付けて報じて世間の注目を集めたが「聖なるライン」説の意義は学術的には評価されなかった[8]。その後、藤堂かほるが藤原京大極殿の真北に天智天皇陵があることから、その造営時期を文武天皇の時代とする説を発表したところ、猪熊兼勝がそれを承けて「聖なるライン」説に大極殿、天智天皇陵、高松塚古墳、キトラ古墳を加えた、新しい「聖なるライン」説を提唱した。猪熊によれば、それらの遺跡は、すべて東経135度48分19-29秒の範囲にあり、誤差は10秒以内に収まることから「聖なるライン」は意識的に作られたものであり、計画したのは天武天皇だと主張している[8]。

小澤毅は新しい「聖なるライン」説について、天智天皇陵からキトラ古墳までは南北2キロメートル弱しかなく、正確に揃えるつもりならばもっと精度を出すことも可能であったはずだが、この範囲で10秒(この地域では約255メートル)は誤差としては大きすぎ、意図して並べたとは考えられないと述べている[8]。


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