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あまりにも熱いので、少し、長く休ませていただきました。いろいろと、ご心配をおかけしました。また、ぼちぼちとやりたいと思いますので、よろしくお願いいたします。いろいろと疑問点などお寄せいただけると、うれしいです(#^.^#)
7.記紀と日本人の信仰の謎
①日本書紀は藤原氏のための歴史書だった
多くの日本人は日本書紀が天武天皇の命令で作られたので天皇の歴史書だと考えていますが、これは思い込みでした。崩御(686年10月1日)して30年以上たった720年に、権力を握っていた藤原不比等によって完成させられています(注1)。
不比等は天皇の妃だった鸕野讃良(注2)と組んで、その子の草壁皇子を即位させるために、皇位継承権者とみなされていた大津皇子に謀反の濡れ衣を着せて、崩御の二日後(10月3日)に謀殺しました。しかし、草壁は病弱のために即位する前に直ぐに薨御してしまいました(689年)。そこで、草壁の子珂瑠皇子(かるのみこ)の成人(元服)を待って即位させるために、690年1月1日鸕野が持統天皇として即位したとされています。10月には、母親である宗形徳善の娘の尼子娘の身分が低いために即位できないとされた、天武天皇の優秀な長男高市皇子(696年7月10日薨御)を太政大臣にしたとされています。697年、15歳になった珂瑠を即位させ、不比等の娘宮子を文武天皇の妃としました(注3)。
不比等は外戚として権力を振るい、701年に大宝律令を制定しました。唐の律令制度を参考にして七世紀から導入されてきましたが、日本の国情に合致した律令政治の実現を目指して編纂されました。天皇を中心とする、二官八省(神祇官、太政官 - 中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省)の官僚機構によって、従来の豪族の地方支配から中央集権統治制度による国家支配を実現しました。しかし、天皇は中国のように官僚組織を直接統治していないので、この制度により、中央貴族の合議システムが完成して、天皇もその決定に従うことになりましたので、藤原氏にとって都合のよい制度が完成しました。
同時に、藤原氏にとって不都合な日本建国の史実を隠し、宮中祭祀を独占するために、日本神話を創作しました。建国時代に活躍した豪族を中央から排除して藤原氏だけが繁栄する制度を作り上げました。藤原氏は、邪魔者をすべて隠蔽し、謀略で抹殺しています。それらを正当化するための総仕上げが日本書紀の完成だったのです。不比等はそれを見て、安堵して亡くなりました。不比等の子孫たちは謀略に長けていたので藤原氏だけが繁栄し、後の平安時代は藤原氏を除き、誰も平安な世の中ではなかったようです。
竹取物語のかぐや姫の話はよく知られていますが、インチキして姫を手に入れようとした車持皇子は不比等をモデルとする人物でした。最後にイカサマがバレてしまい、穢きこの世から月に帰ったかぐや姫の話は、不比等とその子孫を揶揄する話でした(注4)。
日本書紀が完成しても、藤原氏によって中央から排除された日本建国で活躍した豪族は、氏族の伝承を持っていたので、もしも表に出さなければならない場合は、日本書紀に沿って書かれていることが分かるようにしなければならないのです。藤原氏にとって不都合な内容を表に出さないようにしながら、矛盾することを書かねばならない、涙ぐましい努力の結晶が残っているのです。それが古事記であり、先代旧事本紀であり、万葉集であり、懐風藻などなどなのです。
江戸時代まで、多くの文化人や庶民まで、伊勢神宮の祭神が女神ではなく男神で正体は三輪山のヘビだと知っていました。謡曲「三輪」に「思へば伊勢と三輪の神、一体分身の御事今更なにと磐座や・・」とあります。
しかし、明治になって記紀に基づく国史の国民教育をしたので、戦後の日本人も何となく日本の歴史だと思っています。最近では戦前の皇国史観をそのまま受け入れる風潮もありますが、考古学や民俗学の成果を無視しています。
実は、京都にある天皇家の菩提寺泉涌寺では天智天皇と、飛んで光仁天皇(天智の孫、桓武天皇の父)より後の天皇を祀っていますが、明治になるまで女性天皇は誰一人祀られていませんでした(関裕二「持統天皇 血塗られた皇祖神」(ワニ文庫)2016、p.243)。明治になって江戸時代の二人の女性天皇の肖像画を作り、仏事に掲げるようになったとのことです。
つまり、女神アマテラスも、すべての女性天皇も不比等の創作だったのです(注5)。
光仁天皇から歴代天皇は奴(ナーガ=龍蛇神)国第19代王天照大神尊ニギハヤヒ大王の男系男子です。ニギハヤヒ大王は、奴国宮廷楽師師升らのクーデターで殺された第18代王スサノヲの弟で、イタケル王子と一緒に奴国を脱出し、ムナカタ海人族の支援を受けて吉備を平定し、奴国を再興して、ヤマト王権の基礎を築いた人物です。倉敷市楯築王墓の被葬者と推理しています。
未婚の皇女は奈良時代から南北朝まで伊勢神宮と加茂神社の斎王制度がありました。神の妻なのです。男性の天皇とは役割が異なるということで、女性差別ではないのです。詳しくは「日本は女系天皇の国なのか?」または関裕二「持統天皇 血塗られた皇祖神」を参照ください。
不比等が藤原氏の繁栄のために行った歴史改ざんの総仕上げが日本書紀の完成でした。史実を神話の中に閉じ込めて、改ざんしてしまいました。具体的には以下の内容が判明しています。
1)天地開闢神話:いつまでも日本国という国号が中国から認めてもらえないので、十世紀の東大寺の僧奝然(ちょうねん)が派遣されました。宋の太宗に献上した日本の「王年代紀」(宋史)には初代王天御中主として23代の王が筑紫日向宮に居住し、最後の王の四男神武天皇が大和州橿原宮に遷ったと記されています。日本が古の倭の奴国(ナーガ、龍蛇神国)だったことを告白して、その後の中国の正史「新唐書」から日本国とされるようになりました。
2)高天原神話:奴国の歴史を改ざんし、中臣氏及び藤原氏の祖神(おやがみ)として天児屋命(あめのこやねのみこと)を登場させて、天岩戸隠れした女神アマテラスを誘い出すために活躍させました。第18代奴国王スサノヲを宮廷楽師師升らが殺して、倭国を乗っ取った史実を隠しました。
3)大国主の国譲り:纏向遺跡の旧(狗)奴国が大国主と台与の倭国を倒して、日本を建国したことを隠すために、国譲り神話を創作し、藤原氏の祖神タケミガズチとフツヌシに活躍させました。
4)天孫降臨と日向三代:鵜野讃良の孫文武天皇を即位させ、不比等の娘宮子を妃とさせることを正当化するために創作しました。
5)日本建国:神武東征神話を創作し、藤原氏の遠祖天種子命にウサツヒメを娶らせていますが、ヒメは女王台与でした。吉備で奴国を再興した天照大神尊ニギハヤヒ大王の子孫の尾張王建稲種命と卑弥弓呼王(物部氏の祖崇神天皇)が日本を建国した実在人物です。藤原氏の氏神タケミカズチとフツヌシのモデルでした。崇神天皇から応神天皇即位までの約400年の記紀の内容は三世紀後半の出来事だったのです。この時代のすべての天皇は同時代人でしたし、仲哀天皇とその祖父の景行天皇は、本当は親子でしたから、呆れ返ります"(-""-)"
記紀神話は日本人のアイデンティティではなかったのです!
日本人の神話は中国神話の中に隠されていますから、本当に目からウロコですよ。
このシリーズの中で詳しく説明する予定です。
(注1)wiki「日本書紀」によると、日本書紀は720年(養老4年5月)に完成したと八世紀末に完成した「続日本紀」に伝えられている。
(注2)鸕野讚良(うののさらら)は天智天皇の娘で天武天皇の姪にあたる。天武天皇の皇后とされ、持統天皇(じとうてんのう、645年〈大化元年〉 - 703年1月13日〈大宝2年12月22日〉)は、日本の第41代天皇(在位:690年2月14日〈持統天皇4年1月1日〉 - 697年8月22日〈持統天皇11年8月1日〉)として即位したことにされているが、日本書紀のフェイク。和風諡号が高天原広野姫天皇とされ、女神アマテラスのモデル。伊勢神宮内宮(皇大神宮)は続日本紀によれば、文武天皇二年(698年)十二月二十九日に多気大神宮(現在の滝原宮)から現在の五十鈴川の川上の宇治に遷されたとあり、宇治では地元の豪族が川のカミを祀っていた場所だったそうです。
(注3)草壁皇子と阿陪皇女(元明天皇)の子、文武天皇(683年ー707年、在位:697年8月22日〈15才〉- 707年7月18日〈25才〉で天孫降臨のニニギノミコトのモデル。
wiki「藤原宮子」によれば、生年不詳 -、天平勝宝6年7月19日〈754年8月11日〉崩御。文武天皇の夫人。藤原不比等の長女。母は賀茂比売。異母妹で聖武天皇の皇后光明皇后とは、義理の親子関係にも当たる。史上初めて生前に正一位に叙された人物であると同時に、史上初めて女性で正一位に叙された人物でもあり、文武天皇は皇后を置かず、宮子は皇后でも皇太后でもなかったが、史上初の太皇太后となった。
(注4)竹取物語は九世紀末から十世紀初頭に成立したとされていますが、作者も諸説あり、はっきりしていません。
かぐや姫に求婚した5人の公達は、石作皇子(いしつくりのみこ)、車(庫)持皇子(くらもちのみこ)、右大臣阿倍御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂ですが、江戸時代の国学者加納諸平によれば、すべて実在の人物がモデルと判明しています。右大臣阿倍御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂の三人は本名そのままです。まじめにかぐや姫の指示どおり行動し、酷い目に合い、結局宝物を得ることができませんでした。後の二人はインチキして、姫を騙まそうとしました。多治比嶋をモデルとする石作皇子は姫にすぐに見破られてしまいます。恥ずかしい言い訳の歌を残しています。最後の車持皇子が、一番の悪党でした。東方海上にあるという「蓬萊の玉の枝」を取ってくるようにいわれるが、彼は出航せず、綾部内麻呂ら職人たちにそれらしきものを作らせ、帰航を偽装してこれをかぐや姫に献上した。竹取翁は本物だと思い込み、寝床の支度まで始めるが、職人たちが玉作りの報酬をもらっていないと訴え出たために偽物と判明、かぐや姫はただちにこれを返品し、職人たちには褒美を与えた。車持皇子は職人たちを逆恨みし、血が出るほどお仕置きしたという。
不比等の母は車持国子の娘与志古娘とあり、車持皇子のモデルとされたと考えられます。
竹取物語は10世紀の『大和物語』、『うつほ物語』や11世紀の『栄花物語』、『狭衣物語』、また、『源氏物語』に「絵は巨勢相覧、手は紀貫之書けり」と言及されていることから、遅くとも10世紀半ばまでに成立したと考えられている。とあります。
(注5)高市皇子の長男長屋王は、「官位は正二位・左大臣。 皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原四兄弟の陰謀といわれる長屋王の変で自殺した。」(wiki「長屋王」より)とありますが、同wikiの以下の長屋親王説にあるとおり、長屋王は親王宣下を受けているので、高市皇子が天皇に即位していたと考えられます。ということは持統天皇も即位していないことを意味します。高市皇子が即位して長屋王を皇太子にしようとしたので、不比等らは天皇を暗殺したと推理しています。日本書紀や続日本紀も藤原氏にとって不都合な史実を隠すために編纂されたものです。
【発見!】仁徳天皇の怖い秘密?(;一_一)?
日本書紀を国史と思われている方には申し訳ありませんが、藤原氏に都合の良い歴史ですから、真実ではありません。何が史実かは、藤原氏が隠した都合の悪い話を見つけると分かってきます(^_-)-☆
ここまでお付き合い、ありがとうございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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①日本書紀は藤原氏のための歴史書だった
多くの日本人は日本書紀が天武天皇の命令で作られたので天皇の歴史書だと考えていますが、これは思い込みでした。崩御(686年10月1日)して30年以上たった720年に、権力を握っていた藤原不比等によって完成させられています(注1)。
不比等は天皇の妃だった鸕野讃良(注2)と組んで、その子の草壁皇子を即位させるために、皇位継承権者とみなされていた大津皇子に謀反の濡れ衣を着せて、崩御の二日後(10月3日)に謀殺しました。しかし、草壁は病弱のために即位する前に直ぐに薨御してしまいました(689年)。そこで、草壁の子珂瑠皇子(かるのみこ)の成人(元服)を待って即位させるために、690年1月1日鸕野が持統天皇として即位したとされています。10月には、母親である宗形徳善の娘の尼子娘の身分が低いために即位できないとされた、天武天皇の優秀な長男高市皇子(696年7月10日薨御)を太政大臣にしたとされています。697年、15歳になった珂瑠を即位させ、不比等の娘宮子を文武天皇の妃としました(注3)。
不比等は外戚として権力を振るい、701年に大宝律令を制定しました。唐の律令制度を参考にして七世紀から導入されてきましたが、日本の国情に合致した律令政治の実現を目指して編纂されました。天皇を中心とする、二官八省(神祇官、太政官 - 中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省)の官僚機構によって、従来の豪族の地方支配から中央集権統治制度による国家支配を実現しました。しかし、天皇は中国のように官僚組織を直接統治していないので、この制度により、中央貴族の合議システムが完成して、天皇もその決定に従うことになりましたので、藤原氏にとって都合のよい制度が完成しました。
同時に、藤原氏にとって不都合な日本建国の史実を隠し、宮中祭祀を独占するために、日本神話を創作しました。建国時代に活躍した豪族を中央から排除して藤原氏だけが繁栄する制度を作り上げました。藤原氏は、邪魔者をすべて隠蔽し、謀略で抹殺しています。それらを正当化するための総仕上げが日本書紀の完成だったのです。不比等はそれを見て、安堵して亡くなりました。不比等の子孫たちは謀略に長けていたので藤原氏だけが繁栄し、後の平安時代は藤原氏を除き、誰も平安な世の中ではなかったようです。
竹取物語のかぐや姫の話はよく知られていますが、インチキして姫を手に入れようとした車持皇子は不比等をモデルとする人物でした。最後にイカサマがバレてしまい、穢きこの世から月に帰ったかぐや姫の話は、不比等とその子孫を揶揄する話でした(注4)。
日本書紀が完成しても、藤原氏によって中央から排除された日本建国で活躍した豪族は、氏族の伝承を持っていたので、もしも表に出さなければならない場合は、日本書紀に沿って書かれていることが分かるようにしなければならないのです。藤原氏にとって不都合な内容を表に出さないようにしながら、矛盾することを書かねばならない、涙ぐましい努力の結晶が残っているのです。それが古事記であり、先代旧事本紀であり、万葉集であり、懐風藻などなどなのです。
江戸時代まで、多くの文化人や庶民まで、伊勢神宮の祭神が女神ではなく男神で正体は三輪山のヘビだと知っていました。謡曲「三輪」に「思へば伊勢と三輪の神、一体分身の御事今更なにと磐座や・・」とあります。
しかし、明治になって記紀に基づく国史の国民教育をしたので、戦後の日本人も何となく日本の歴史だと思っています。最近では戦前の皇国史観をそのまま受け入れる風潮もありますが、考古学や民俗学の成果を無視しています。
実は、京都にある天皇家の菩提寺泉涌寺では天智天皇と、飛んで光仁天皇(天智の孫、桓武天皇の父)より後の天皇を祀っていますが、明治になるまで女性天皇は誰一人祀られていませんでした(関裕二「持統天皇 血塗られた皇祖神」(ワニ文庫)2016、p.243)。明治になって江戸時代の二人の女性天皇の肖像画を作り、仏事に掲げるようになったとのことです。
つまり、女神アマテラスも、すべての女性天皇も不比等の創作だったのです(注5)。
光仁天皇から歴代天皇は奴(ナーガ=龍蛇神)国第19代王天照大神尊ニギハヤヒ大王の男系男子です。ニギハヤヒ大王は、奴国宮廷楽師師升らのクーデターで殺された第18代王スサノヲの弟で、イタケル王子と一緒に奴国を脱出し、ムナカタ海人族の支援を受けて吉備を平定し、奴国を再興して、ヤマト王権の基礎を築いた人物です。倉敷市楯築王墓の被葬者と推理しています。
未婚の皇女は奈良時代から南北朝まで伊勢神宮と加茂神社の斎王制度がありました。神の妻なのです。男性の天皇とは役割が異なるということで、女性差別ではないのです。詳しくは「日本は女系天皇の国なのか?」または関裕二「持統天皇 血塗られた皇祖神」を参照ください。
不比等が藤原氏の繁栄のために行った歴史改ざんの総仕上げが日本書紀の完成でした。史実を神話の中に閉じ込めて、改ざんしてしまいました。具体的には以下の内容が判明しています。
1)天地開闢神話:いつまでも日本国という国号が中国から認めてもらえないので、十世紀の東大寺の僧奝然(ちょうねん)が派遣されました。宋の太宗に献上した日本の「王年代紀」(宋史)には初代王天御中主として23代の王が筑紫日向宮に居住し、最後の王の四男神武天皇が大和州橿原宮に遷ったと記されています。日本が古の倭の奴国(ナーガ、龍蛇神国)だったことを告白して、その後の中国の正史「新唐書」から日本国とされるようになりました。
2)高天原神話:奴国の歴史を改ざんし、中臣氏及び藤原氏の祖神(おやがみ)として天児屋命(あめのこやねのみこと)を登場させて、天岩戸隠れした女神アマテラスを誘い出すために活躍させました。第18代奴国王スサノヲを宮廷楽師師升らが殺して、倭国を乗っ取った史実を隠しました。
3)大国主の国譲り:纏向遺跡の旧(狗)奴国が大国主と台与の倭国を倒して、日本を建国したことを隠すために、国譲り神話を創作し、藤原氏の祖神タケミガズチとフツヌシに活躍させました。
4)天孫降臨と日向三代:鵜野讃良の孫文武天皇を即位させ、不比等の娘宮子を妃とさせることを正当化するために創作しました。
5)日本建国:神武東征神話を創作し、藤原氏の遠祖天種子命にウサツヒメを娶らせていますが、ヒメは女王台与でした。吉備で奴国を再興した天照大神尊ニギハヤヒ大王の子孫の尾張王建稲種命と卑弥弓呼王(物部氏の祖崇神天皇)が日本を建国した実在人物です。藤原氏の氏神タケミカズチとフツヌシのモデルでした。崇神天皇から応神天皇即位までの約400年の記紀の内容は三世紀後半の出来事だったのです。この時代のすべての天皇は同時代人でしたし、仲哀天皇とその祖父の景行天皇は、本当は親子でしたから、呆れ返ります"(-""-)"
記紀神話は日本人のアイデンティティではなかったのです!
日本人の神話は中国神話の中に隠されていますから、本当に目からウロコですよ。
このシリーズの中で詳しく説明する予定です。
(注1)wiki「日本書紀」によると、日本書紀は720年(養老4年5月)に完成したと八世紀末に完成した「続日本紀」に伝えられている。
(注2)鸕野讚良(うののさらら)は天智天皇の娘で天武天皇の姪にあたる。天武天皇の皇后とされ、持統天皇(じとうてんのう、645年〈大化元年〉 - 703年1月13日〈大宝2年12月22日〉)は、日本の第41代天皇(在位:690年2月14日〈持統天皇4年1月1日〉 - 697年8月22日〈持統天皇11年8月1日〉)として即位したことにされているが、日本書紀のフェイク。和風諡号が高天原広野姫天皇とされ、女神アマテラスのモデル。伊勢神宮内宮(皇大神宮)は続日本紀によれば、文武天皇二年(698年)十二月二十九日に多気大神宮(現在の滝原宮)から現在の五十鈴川の川上の宇治に遷されたとあり、宇治では地元の豪族が川のカミを祀っていた場所だったそうです。
(注3)草壁皇子と阿陪皇女(元明天皇)の子、文武天皇(683年ー707年、在位:697年8月22日〈15才〉- 707年7月18日〈25才〉で天孫降臨のニニギノミコトのモデル。
wiki「藤原宮子」によれば、生年不詳 -、天平勝宝6年7月19日〈754年8月11日〉崩御。文武天皇の夫人。藤原不比等の長女。母は賀茂比売。異母妹で聖武天皇の皇后光明皇后とは、義理の親子関係にも当たる。史上初めて生前に正一位に叙された人物であると同時に、史上初めて女性で正一位に叙された人物でもあり、文武天皇は皇后を置かず、宮子は皇后でも皇太后でもなかったが、史上初の太皇太后となった。
(注4)竹取物語は九世紀末から十世紀初頭に成立したとされていますが、作者も諸説あり、はっきりしていません。
かぐや姫に求婚した5人の公達は、石作皇子(いしつくりのみこ)、車(庫)持皇子(くらもちのみこ)、右大臣阿倍御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂ですが、江戸時代の国学者加納諸平によれば、すべて実在の人物がモデルと判明しています。右大臣阿倍御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂の三人は本名そのままです。まじめにかぐや姫の指示どおり行動し、酷い目に合い、結局宝物を得ることができませんでした。後の二人はインチキして、姫を騙まそうとしました。多治比嶋をモデルとする石作皇子は姫にすぐに見破られてしまいます。恥ずかしい言い訳の歌を残しています。最後の車持皇子が、一番の悪党でした。東方海上にあるという「蓬萊の玉の枝」を取ってくるようにいわれるが、彼は出航せず、綾部内麻呂ら職人たちにそれらしきものを作らせ、帰航を偽装してこれをかぐや姫に献上した。竹取翁は本物だと思い込み、寝床の支度まで始めるが、職人たちが玉作りの報酬をもらっていないと訴え出たために偽物と判明、かぐや姫はただちにこれを返品し、職人たちには褒美を与えた。車持皇子は職人たちを逆恨みし、血が出るほどお仕置きしたという。
不比等の母は車持国子の娘与志古娘とあり、車持皇子のモデルとされたと考えられます。
竹取物語は10世紀の『大和物語』、『うつほ物語』や11世紀の『栄花物語』、『狭衣物語』、また、『源氏物語』に「絵は巨勢相覧、手は紀貫之書けり」と言及されていることから、遅くとも10世紀半ばまでに成立したと考えられている。とあります。
(注5)高市皇子の長男長屋王は、「官位は正二位・左大臣。 皇親勢力の巨頭として政界の重鎮となったが、対立する藤原四兄弟の陰謀といわれる長屋王の変で自殺した。」(wiki「長屋王」より)とありますが、同wikiの以下の長屋親王説にあるとおり、長屋王は親王宣下を受けているので、高市皇子が天皇に即位していたと考えられます。ということは持統天皇も即位していないことを意味します。高市皇子が即位して長屋王を皇太子にしようとしたので、不比等らは天皇を暗殺したと推理しています。日本書紀や続日本紀も藤原氏にとって不都合な史実を隠すために編纂されたものです。
【発見!】仁徳天皇の怖い秘密?(;一_一)?
日本書紀を国史と思われている方には申し訳ありませんが、藤原氏に都合の良い歴史ですから、真実ではありません。何が史実かは、藤原氏が隠した都合の悪い話を見つけると分かってきます(^_-)-☆
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