人間存在の本質は自由である。逆の言い方に換えると、自由ではない人間は人の形をした物体か、人の皮をかぶった単なる動物である。この自由についての命題はデカルト以後の近代哲学で、隠された反体制の呪文として語り継がれ、民主主義の実現を待ってようやく陽光の下で声高に語るのが可能となった言葉である。
自由とは、動作主体の動作が可能である状態、および動作主体の動作に対する制約が無い状態を指す。例えば、動作主体が車輪を有している状態、および移動方向に障害物が無い状態が、動作主体の移動の自由を示す。
しかし動作主体が生物であれば、動作主体が動作する前提として、少なくとも動作主体の生存を保証しなければいけない。そして動作主体の動作に対する制約も、少なくとも動作主体の生存を不可能にする制約であってはならない。つまり生物における自由は、生体の動作が可能である状態、および生体の動作に対する制約が無い状態を前提する。
さらに動作主体が人間であれば、動作主体が動作する前提として、少なくとも動作主体の人間的生活を保証しなければいけない。そして動作主体の動きに対する制約も、少なくとも動作主体の人間的生活を不可能にする制約であってはならない。つまり人間における自由は、人間的生活が可能である状態、および人間的生活に対する制約が無い状態を前提する。
したがって人間にとっての自由を論ずる場合、生活に対する経済的制約が問題になる。単なる物理的制約は天災として現れるが、経済的制約とは人災として現れるためである。つまり人間的自由の実現を目指すなら、まず経済的制約の廃絶を目指す必要がある。そして誕生したのが共産主義である。
ただし人類最初の共産主義革命であったロシア革命は、人間的自由の実現に失敗し、ロシアに収容所国家を産み出した。その失敗の原因分析は、別の記事で扱う。ここでは、人間的自由についての唯物論的理解をまとめることに限定する。
哲学的伝統の中で自由の前提として登場するのは、存在の対極となる無である。無は自由の前提条件である。動作主体には動作対象が必要なのだが、動作対象の存在は逆に動作主体を制約する。例えば動作主体がいずれかの方向への移動を行う場合、それらの方向に多様な属性をもつ存在者があれば、動作主体の移動は、それらの存在者の属性に制約を受けてしまう。東に狼が待っており、西に羊が待っていれば、そのことが動作主体の東西方向への移動を決定してしまうのである。そこに動作主体の自由は存在しない。一般にラプラスの悪魔と言われるのは、およそ世界には存在だけが存在して無は存在せず、人間的自由を不可能と宣言した論理を指す。
無の存在可能性を哲学的に解決したのは、実存主義である。ハイデガーは時間経過による自己喪失で発生するカテゴリー限界、言い換えれば現瞬間の世界の背景に無の存在を指摘し、サルトルは存在者の全属性を剥ぎ取った内奥に無の存在を指摘した。このことを唯物論的に言い表せば、宇宙の外側に無が広がっており、動作主体の完全な無所有が無として現象することとなる。宇宙の限界の外側に存在者が存在するなら、それは宇宙の限界の定義に反するし、無に属性を見出せるなら、それは無の定義に反する。
以上のようにして、既存の哲学は自由の存在可能性を説明し、唯物論もその成果を享受できるのが示された。しかし上記の説明が示したのは、自由の論理的な存在可能性であり、せいぜい動作主体にとって物理的制約からの自由が可能なのを、最小限枠で説明しただけである。つまり人間的自由の問題からかけ離れたスコラでしかない。
唯物論として注意すべきは、ハイデガーが露天掘りで取り出した無に対し、サルトルの指摘した無が、動作主体により分泌された無だということである。現象学的還元としての無化は、意識の思い込みで実現されるからである。しかしそれだからと言って、無化が物理的に動作主体から属性を剥ぎ取る行為として現れても、効果にそれほど大差を期待できない。せいぜいそのような物理的無化は、動作主体を破壊するだけであり、動作主体を概念的に死滅させる力を持たない。言い換えるなら、現象学的還元としての無化は、動作主体の有効性を無化する力を持たない。つまりそれは動作主体が好き勝手に動作対象を無に扱うような、単なる観念的ゴマカシに容易に転化する無である。
基本的に観念論では、意識が任意に無を分泌し、あたかも世界を創造できるかのように扱う。観念論とは、意識を世界の出発点に扱う理論だからである。したがって観念論における意識は、物理的制約をはじめ、全ての制約を無にみなす絶対的自由を手にしている。そしてこの観点から観念論、とくに宗教界は、経済的制約を問題にする唯物論を世俗的思想にみなす。人はパンのみに生きるに非ず。しかしパンが無ければ、人間は人になる資格も得られない。
人間存在の本質は自由である。しかし人間的生活が実現した場合にだけ、自由は可能である。貧者は、自らの生活維持に生活の全てを捧げるしかできない。貧者にとって自由とは、生活維持行動の間に偶発的に訪れる無意味な間隙にすぎない。ハイデガーは、人間が機械人形のレベルに落ち込むのを堕落とみなした。しかし貧者は、当人の意思にかかわらず、機械人形のレベルに堕落させられている。貧者との比較で見れば、富者はその生活の全てが自由であり、富者だけが人間として、世界のうちに具現している。
なお唯物論が示すべき無は、上記の記載に既に含まれている。
生活維持行動に固着させられている人間は、ただの機械人形であり、対象への固着を通じて物質と一体化した状態である。そこに無が入り込む余地は無い。全ての行動に自由は存在せず、自由な行動をとる動作主体には死が襲いかかる。無とは、そのような生活維持行動から遊離した時間である。わざわざ宇宙の果てまで無を捜しに行かずとも、または自己催眠により制約を無化しなくとも、身近に具体的な姿で無は存在し、自由も存在可能な形に示されているわけである。
一方でただ単に生活維持行動から解放されている状態は、空虚な自由にすぎない。人間の取り得る行動は、次の二者択一である。この空虚を維持するか、それとも再び対象への固着を始めるか、である。どのみち人間は、空虚を埋めるために対象への固着を再開するしかない。ただし生活維持行動の場合、人間は余儀なく対象への固着をさせられていたのに対し、生活維持行動から解放されている場合、人間は自ら望んで対象に固着する。ここに及んで人間的自由は、その単なる可能態を脱し、現実態に転化する。
ちなみに人間的自由が単なる空虚から脱皮する条件は、物財の私的所有である。共産主義は私的所有の全廃をスローガンにしているが、クソまじめに私的所有を全廃すると現実態の自由も同時に消滅する。せいぜい可能態の自由だけが残るであろうが、それは文無しの自由と同じである。
(2010/12/06初稿 2014/10/12改訂)