現象学としての実存主義において認識の進展は、弁証法とは反対に、発達ではなく派生として現われる。言い換えれば、認識の系統的進化は世俗的退化とみなされる。それは、本来という表現を低次の原初形態とみなさずに、あるがままの純粋形態と理解するような頑ななまでの直観主義でもある。
ヘーゲルは論理学の出発点に存在を置き、そこから全てのカテゴリーの導出を説明しようとした。これに対する実存主義の批判は、的を得たものである。「存在と無」でサルトルが示したように、ヘーゲルは出発点の存在に素知らぬ顔で無を導入しており、その無の起源を説明していないためである。そもそもヘーゲルが出発点に置いた存在と無は、いずれも単なる記号にすぎない。生気を失った弁証法は、いかなる理由で本質の導出を目指すのか? その肝心の動因についてヘーゲルは、納得に足る説明をしていない。
ヘーゲルに対しハイデガーでは、論理の出発点に置かれるべき存在は、単なる記号のような抽象ではない。存在とは、意識が自らの全てをかけて取り組むべきアプリオリな対象であると同時に、意識自らである。そして無も、世界の外として現象する具体である。ところがこの存在は、自らのうちで充実するほどに、逆に弁証法的深化を受け付けない。というのは、存在は世界内存在であり、世界の他在から切り離されているためである。つまりハイデガーにおいて存在と無は、自己完結している。そのような存在を分節化する努力は、全て存在の抽象化にしかならない。結果的に存在の明示化は、もっぱら頽落として、もしくはせいぜい派生として現象する。存在了解内容の明示化は、最初から頓挫しているわけである。しかも出発点が完成形である以上、人間に対する性悪説をたてない限り、ハイデガーにおける派生は、その動因を持ち得ない。筆者にとってそれは、ヘーゲル弁証法の場合と負けず劣らず、納得の行かない説明である。
ハイデガーは、世界を道具的連関とみなし、空間をその単なる派生態として扱う。なぜならハイデガーにおいて、弁証法的深化は発展ではなく、本分を忘れた頽落だからである。つまり意識における空間概念の登場は、認識の系統的進化の成果などではない。同様にハイデガーは、脱自構造を時間性と呼び、時間をその単なる派生態として扱う。そしてその時間性構造、すなわち本来性を到来させ得るような自己投企を、存在の意味だと解釈した。サルトルの場合だとさらに時間性は、事実性と可能と目的の構造体として示されるようになるが、そこに内容的に差異は無い。いずれにせよ意識における時間概念の登場は、認識の系統的進化の成果とみなされることはない。
一方で空間は、道具的連関の極限に登場するものであり、道具性を喪失などしていない。空間は優れた意味で道具的であり、しかもその均一性こそが人間行動の精度を向上させている。そのことを認めるなら今度は、気分に応じて伸び縮みする本来的時間も、逆に時間性構造の単なる不完全体として現れるべきである。そのことが示すのは、ハイデガーにおける派生が、意識の系統的進化を逆さに評価したものだということである。マルクスはヘーゲルの理屈が逆立ちしていると指摘した。同じ指摘はハイデガーに対しても有効なのである。
ちなみに空間概念についてハイデガーは、「存在と時間」の後半で数学的投企という譲歩を行う。しかしその譲歩は、均一空間を本来的空間の対極に扱った彼の最初の論調と、真っ向から対立したものとなっている。
ヘーゲルに対し共産主義は、社会的生産力、つまり人間の生活を弁証法の動因として措定した。そのことにより共産主義は、人間生活の実現、端的に言うなら人間そのものを実現する運動として弁証法を理解したわけである。しかし共産主義のこの理解は、人類史の説明に有効な一方で、哲学が問題とする認識論、もしくは存在論においてヘーゲル的理解を超えていない。このことは、第二次大戦後に流行した主体性を巡る論議を生む隠れた原因となっている。主体性論争は直接には、スターリン主義の超克という戦後共産主義の急務の課題として生まれた。その基調は、全体主義に埋没した共産主義と人間との整合性回復の論理的模索である。ただし結果的に主体性論争の挑戦は、ことごとく失敗した。もっぱら主体性論争は、共産主義と実存主義の折衷を目指しただけだったからである。ちなみにそのような見通しの立たない折衷の主導的な役割を果したのが、革命的共産主義を装った実存主義者サルトルである。 実存主義は、頽落の対極にいる実存、つまり本来的人間を、精神鍛錬を経た聖人のごとく自らを意のままにする超人として描き、それをもって人間とは何かという問いに答えようとした。人間存在の本質は自由である。しかし実存主義が描いた自由とは、意識の自由にすぎない。それは現実の自由ではない。また自由は、そのように窮屈で立派なものである必要などない。主体性論争が登場した当時も、論議が過熱するほどに主体性論者は自らを不自由にし、ひいては主体性を喪失する矛盾に陥った。しかし唯物論者は、そのような観念論議に付き合う必要は無い。ただ単に自由であることが、人間の条件である。そして人間の主体性にしても、この単純な自由が前提となっている。つまり人間の主体性は、精神鍛錬ではなく、自由を可能にするような食料・衣服・居住空間・社会関係の存在を条件とする。意識の自由は、その条件が成立した後に登場する擬制にすぎない。スターリン主義は、実際にはその全ての対極にある。主体性論者は、スターリン主義を単なる政治的異常体として、単に共産主義ではないことを告発するだけで良かったのである。つまり主体性の理屈を持ち出す必要は、最初から無かったのである。
ちなみに存在論とは、唯物論そのものである。事実性・可能・価値は、いずれも意識の属性ではない。それらは、意識の対象となる物体の属性である。
(2011/11/12)
実存主義
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