唯物論者

唯物論の再構築

論理と矛盾

2012-05-12 17:00:20 | 弁証法

 哲学とは、数学や物理学などの形而下学に対して言う形而上学である。この形而上学とは、形而下学全般の論理を説明する知の体系である。つまり哲学とは、論理学でなければならない。そしてこの論理学の論理は、自らを包括する論理そのものでなければいけない。そうでなければ、形而上学の論理を説明するために、さらなる上位クラスの知の体系が必要となるからである。自らを包括する論理概念のこの自家撞着の構図は、同じく自らを包括する存在概念の構図に似ている。存在概念も、その説明のために自らの概念を使用しなければならないからである。ただし存在概念における自家撞着の困難は、ハイデガーが示したように、困難ではない。存在概念に登場する存在は、自らが説明する存在に等しいからである。しかし存在概念に比べれば、論理の抱える困難は、困難とさえ現われない。なぜなら自らを否定する論理は、最初から論理とみなされないためである。言い換えれば、論理は自己否定を許さないのである。

 論理の自己否定は、一般に矛盾とみなされている。ところがヘーゲル弁証法では、論理体系の変転を説明する上で、矛盾が論理体系の崩壊と構築の原因となっている。つまり矛盾があるがために過去の体系は崩壊し、矛盾を解決するがために新しい体系は産み出される。しかし一般に因果律において矛盾は、結果に対する原因とみなされていない。論理体系の変転も、ただ単にその論理体系が間違っていただけとみなされている。例えば食事という行為も、食事を欲する人の意識、さらには食事を必要とする空腹という事実を原因とするだけである。一見すると空腹は直接に食事を要求しており、空腹の内に矛盾を見出すのは困難に見える。ところが一方で肉体にとって空腹は、自らの生存を脅かす問題事象である。そしてヘーゲル弁証法から見た問題事象とは、すなわち矛盾である。空腹とは、肉体が依存してきた既存の生存維持の理屈の破綻であり、その矛盾の露呈にほかならないのである。
 一方で食事は、空腹という矛盾に対する最も単直な回避方法である。それは、既存の生存維持の理屈への単純復帰だけをもたらす。食事は既存の生存維持の理屈を復活させ、新たな空腹が再びその理屈の矛盾を露呈させる。つまり空腹と食事の相関は、無限循環を為しており、しかも一種の悪無限となっている。ただし今ではこの悪無限は、それ自身が生存維持の新しい理屈となっている。この新しい理屈では、空腹は単なる食事の合図に化しており、もう矛盾として現われてこない。
 ちなみに肉体は空腹に対して、直線的に食事を目指す以外にも、様々な回避方法を選ぶことができる。例えば、寝て空腹を誤魔化したり、新たな食料確保の方途を探ったり、空腹を発現させない方途を目指したり、または身内の一員だけでも救済して自滅したりなどである。そして現実の生物進化は、それら数多くの回避方法を実現してきた。とはいえいずれの回避方法も、最終的に食事の実現で終わる必要がある。空腹として露呈した矛盾は、その空腹という事実から逃れることはできないからである。

 食事は、空腹を原因とする一方で、満腹を結果とする。したがって空腹の理念とは、自らを否定し満腹に転じるものである。ヘーゲル弁証法で考えるなら、空腹は自らを古い理念として否定し、満腹という新しい理念の現実化を目指すものである。だからこそ満腹すべき肉体の理念に対し、空腹する肉体の現実そのものが矛盾となる。ただしこの見方では、食事という行為の原因は、空腹という事実の側に無く、満腹という理念の側にある。ヘーゲル弁証法での意識は、空腹としての自己の否定を通じて、目的論的に満腹という理念の現実化を目指すものなのである。ところがこの説明は、空腹から満腹への因果に対して有効なだけで、満腹から空腹への因果に対して有効なものではない。空腹の場合と同じ説明を維持するなら、満腹を現実化した意識は、今度は満腹としての自己の否定を通じて、空腹の現実化を目指さなければいけないからである。つまりヘーゲル弁証法における意識は、空腹と満腹の対立する理念を抱えた錯乱した実体となっている。
 本来なら、空腹が矛盾であるのは、満腹が空腹を産むことにある。なぜなら満腹は食料の欠如を産み、それが空腹として意識に反映するからである。ところがもっぱら食料の欠如は、並存する異なる主体が食料を食い尽くしたために発生する。もちろん食料の欠如は、過去の自分がそれを食い尽くしたために発生したのかもしれない。いずれにせよ空腹は、現在の自分にとって自らと異なる実体との対立を反映したものにすぎない。つまり空腹は、現実世界にいる異なる主体の間の矛盾なのである。ヘーゲル弁証法の奇怪さは、現実世界にいる異なる主体の間の矛盾を、意識内部の異なる理念の間の矛盾に置き換えることにある。満腹は現在の自分がもたらすのに対し、空腹は現在の自分と異なる他者がもたらす。しかし現実世界でこのように整合している因果も、意識の中では因果の整合性を失う。実際に錯乱しているのは意識の論理ではなく、現実世界の方なのである。現実世界に付き合って、意識までが一緒に錯乱する必要は無い。ヘーゲルは、論理の進化を説明した一方で、結果的に自らの論理を破綻させている。

 既に述べたように、論理は自己否定を許さない。すなわち論理は矛盾を許容しない。したがって空腹が満腹を産むのは単なる因果であり、そこに自己否定の理屈を見出すべきではない。また空腹は、矛盾の露呈として扱われ得るにしても、それ自身は矛盾ではない。空腹とは、物体と同様に、一つの所与にすぎないからである。言うなれば空腹は、肉体の状態計測機能が示す単なる下限値として、現実世界に現われる物理的存在者なのである。空腹が矛盾の露呈として現れるのは、空腹の解消が空腹の解消として現われない場合に限られている。具体的に言うとそれは、空腹を抱える自己と共に、空腹を分かち合う自己の他者が対立して現われる場合を指す。例えばそれは、かつて世界に蔓延し、現在でも後遺症を残している植民地政策が直面した矛盾として現われている。
 植民者にとって先住民は単なる異物であり、植民者は先住民の駆逐に疑問を持たない。先住民の空腹は植民者の興味の対象外であり、先住民の空腹が植民者の満腹として現われても、植民者にとってそれは矛盾ではなかった。植民者は、素直に空腹の解消を目指していれば良かったのである。この段階での植民者の論理は、矛盾無く首尾一貫としていた。ところが植民者が先住民を、単なる異物ではなく、同じ人間として見るようになると、先住民の空腹が植民者の満腹となったという事実は、突如として植民者にとって矛盾として現われる。植民者は、今では自らの空腹の解消に疑問を感じるようになる。この段階で植民者の論理は、自ら破綻へと向かうことになる。
 ヘーゲル弁証法に従えば、矛盾により古い植民者の論理は崩壊し、矛盾を解決するために新しい論理、つまり人間の論理が産み出される。しかし先住民からすれば、このヘーゲル弁証法の説明は、合理的装いをした噴飯ものの理屈である。なぜならその理屈は単なる弁解にすぎず、自らの誤りまでを肯定する傲慢な強者の思想だからである。簡単に言えば、植民者の論理はもともと破綻しており、その破綻の説明に弁証法を持ち出す必要も無い。それは、最初から人間の論理では無かったのである。
 植民者の論理矛盾は、意識が現実世界にいる異なる主体の間の矛盾を、意識内部の異なる理念の間の矛盾に置き換えることから始まった。言い換えれば、植民者の論理矛盾は、植民者と先住民の対立を自らの内に取り込み、先住民の権利承認を企てることから始まった。しかし論理は、自己否定を許さないものである。ここで植民者は、先住民の権利拒否に再び執着するなら、自らの論理から矛盾を消失させることもできる。もちろんそれは、先住民の殲滅に進むか、矛盾直視からの逃避であり、せいぜい問題を先延ばすだけに過ぎない。そのような形で矛盾を消失させても、代わりに植民者は人間の資格をさらに失うだけである。したがって植民者が人間である限り、先住民の権利承認を避けることはできない。ただし先住民の権利承認により植民者の論理が完全に崩壊するなら、代わって登場する人間の論理において、その論理矛盾も消失することになる。

 現代では一般的に空腹は、個人的問題ではあっても、矛盾ではない。しかしマルクスは、敢えて人間に関する全ての問題を社会的背景に全て還元した。人間を社会的諸関係の総和と扱うことにより、人間に関する諸事情を全て社会的問題にし、空腹を個人的問題ではなく、社会的問題に変えたのである。この観点の変更は、マルクス以前にホッブスやロック、ルソーらが示した人間の自然権や自由権のさらなる徹底にほかならない。彼らが示した思想、すなわち支配される側に人間の尊厳を見出す思想は、封建体制による人間支配の論理に矛盾をもたらし、最終的に共和制の成立を実現させた。同様に個人的問題に社会矛盾を見出す思想は、資本主義的所有を是認する論理に矛盾をもたらし、社会主義の成立を促すことになった。
 マルクスは8時間労働制の実現を訴えたが、現実世界は既にそれを実現している。またマルクスが相手にした原初の資本主義は、少なくとも現代先進国では、かつての悪魔的姿をそのまま体現することが不可能となっている。しかし現代の先進国でも、資本主義的所有は消滅したわけではない。しかも相変わらず日米の非社会民主主義型資本主義では、個人的問題に社会矛盾を見出すのを、誰しもが単なる個人の甘えとみなしている。例えば子供が真っ当な大人に育たなかったのは、単なる親の怠慢であり、または本人の自堕落だと誰しもが信じている。例え観察者が労働者であっても、悪の萌芽の中に資本主義的所有がもたらした影を見ていない。この問題の解決方法は、生物進化の歴史と同様に、退行も含めて無限の選択肢として存在可能である。実際に現実世界は、資本主義的所有の矛盾に対して数多くの選択肢を用意してきた。「共産党宣言」でマルクスの提示した共産主義革命の理屈も、それらの選択肢の一つだとも言える。ただし共産主義革命理論が他の選択肢に対して持っている特異性は、それが矛盾の完全消滅を目指した点にある。もちろんマルクスが提示した理屈は既に空論と化しているが、共産主義者はその未来予測が外れたことに失望する必要は無い。むしろ未来予測がそのまま的中する方が異常なのである。マルクスは科学者であり、預言者ではないからである。共産主義の真性は、共産主義革命の実現によって検証されるわけではない。共産主義の真性は、労働者の生涯賃金が労働力の再生産に必要な額を超えることができないという事実の有無によって検証されるものである。
(2012/05/12)


    弁証法      ・・・ 弁証法の安売り
            ・・・ 弁証法の逆立ち
            ・・・ 弁証法の逆立ち(2)
            ・・・ 唯物弁証法
            ・・・ 階級闘争理論
            ・・・ 定立と反定立
            ・・・ 論理と矛盾
            ・・・ 論理の超出
            ・・・ 質的弁証法
            ・・・ 量的弁証法
            ・・・ 否定の否定
            ・・・ 矛盾の止揚(1)
            ・・・ 矛盾の止揚(2)

唯物論者:記事一覧