唯物論者

唯物論の再構築

剰余価値理論(1)

2012-08-17 07:00:47 | 資本論の見直し

 ここでは剰余価値理論における、価値の価格転形を検討する。まず生産価格論の検討に入る前に、剰余価値理論の基礎を為す商品全体の価値構成を先に整理しておく。
 下記図1では、一日の労働で生産した商品が2個あり、その総売上は2万円である。労賃に1万円を想定するなら、商品1個だけが労賃に充当される。

[図1]  1万円 1万円
      必要分 剰余分

この図では商品2個が労賃1万円で生産されたので、一見すると商品1個は5千円分の労働力によって生産できる。もし投下労働価値説が、商品に対象化した労働力を商品価値に扱う理屈として理解されるなら、商品価格は1個1万円ではなく、1個5千円になってしまう。商品2個は、労賃1万円で生産されたからである。もちろん商品価格を一個5千円にすれば、総売上は1万円となり、労賃支払により資本家利潤は生まれない。つまり不労所得は生成しない。正しい投下労働価値説の理解は、このように商品に対象化した労働力を商品価値として扱わない。商品の再生産に必要な労働力を商品価値として扱うのが正しい。なぜなら上記要領の商品生産では、資本家の不労所得の存在が、商品の再生産の条件として現われるからである。したがって上記図1では、商品2個が労賃1万円+不労所得1万円で生産されたので、商品価格は1個5千円ではなく、1個1万円になる。

 もちろん資本家の不労所得を商品再生産の条件として扱うのは、皮肉を入れた戯画的表現である。実際の商品の再生産の条件は、生産手段の存在にほかならない。生産手段とは、労働力が実現する場である。それは必ずしも、道具や機械の形をもって現われる必要も無い。マルクスも、機械を協業が発展したものとして理解している。資本家はこの生産手段の所有者として、資本主義における生来的な所有一般を体現する。それに対して、労働者は無産者として、資本主義における生来的な非所有を体現する。所有が産み出す果実こそが、資本家が労働者から受け取る不労所得である。資本家とは、自らの生まれついての所有によって、他者の労働を無償で手に入れ、他者を貧困の泥沼に落とし入れ、他者を自らの支配の元に屈従させる権利をもち、それを神からの恩寵と信じる人間の名前である。 上記図1の全体を商品価値と理解し、それを剰余価値理論における価値表現で示し、それぞれに対応する労働種類で表示すると、次の図2となる。

[図2]       必要労働 剰余労働
      商品価値 価値実体 剰余価値

上記図2では商品価値の内訳は、大きく価値実体と剰余価値に分かれる。それぞれは、図1の必要分と剰余分に対応している。またそれぞれは、労働者の労働時間全体の二つの構成部分、すなわち労賃対価を生み出す必要労働、および資本家に提供する不払い労働としての剰余労働、に対応する。
 剰余価値理論が俗流経済学の利潤論に対して持つ優位点は、次の3点にまとめられる。ここで言う俗流経済学の利潤論とは、利潤の生成を商取引における差額略取、すなわち不等交換によって説明する理屈を指す。

 (a)一般的な商取引における等価交換の前提
 (b)商取引における利潤源泉の明示
 (c)商品交換規則の可知の承認

(a)俗流経済学の利潤論のように一般的な商取引を不等交換として扱うのは、次の事実に反している。それは、商取引において商品が常に等価物、すなわち貨幣と交換されるという事実である。もちろん市場において同じ商品が、異なる時間に異なる数量の貨幣表現を得る場合もある。しかしその場合でもそれぞれの商品は、異なる大きさの貨幣塊を通じて自らの価値量を単純に表現している。つまり商品と貨幣塊の関係は、常に等価として現われる。商品と交換される貨幣塊の偶発的な大小は、資本家に少々の損得をもたらすかもしれない。しかしそのような貨幣塊の大小をもって資本家利潤を説明するのは、無理である。そのような貨幣塊の大小は、繰り返される商取引が平均化して特定の価格表現に収まるからである。このような等号式を並べたところで左辺と右辺の間に数値の違いは起きない。そもそも利潤の見積りは、商取引の開始前に総売上目標と総費用との差額によって設定するのが通例である。この見積もりの中では、総売上は商品塊の単なる貨幣表現に扱われる。つまりそこでは、交換される貨幣塊と商品塊の等価が、既に前提となっている。大事なのは、商取引の開始前に利潤を見積もるという行為である。そのことが明らかにするのは、商取引の開始前に既に不等交換が完了しているという事実である。ただし商取引が単なる商品の等価物への転換にすぎない以上、利潤生成のための不等交換が商取引より前でのみ可能というのは、むしろ当然の話である。もちろんここで言う商取引の前に完了している不等交換とは、資本家と労働者の間で起きる総生産物価値と労賃対価の不等交換を指している。

(b)もともと商取引における不等交換で利潤生成を説明するのは、資本主義的生産者の商取引にそぐわない。上記で示したように、商取引は等価交換を前提しているからである。そしてこのことが資本主義的生産者の商取引を、封建主義的支配者の商品交換と区別する。この点の無理解により俗流経済学の利潤論は、利潤の源泉を謎のままに終わらせている。このような俗流経済学に対して、利潤の源泉は労働契約場面における不等交換の結果だと明らかにしたのが、剰余価値理論である。もともと経済全体が、商取引における詐欺的強奪により成立するという見解は、それ自体が奇妙な理屈である。奪い合うものをあらかじめ生産しなければ、奪い合うことさえできないからである。このような俗流経済学の見解は、せいぜい一次産業の生産物を他の社会構成員全体が強奪するような重農主義的世界観に終わるしかない。ちなみにマルクスの流通費論は、この重農主義的欠陥の復刻版である。このような俗流経済学の不合理は、限界効用理論をもってしても全く変えることができない。おまけに限界効用理論の説明では、奪い合いの対象は現実的な労働ではなく、効用と呼ばれる抽象的観念である。限界効用理論では、人々は肉や野菜を食べて生きているのではなく、快楽を食べて生きている。

(c)俗流経済学の利潤論に従えば、商取引の全ては不等交換として現われる。ところが恒常的な不等交換は、逆に商品交換規則を不可能にする。言うなれば、商取引の全てを不等交換として扱うのは、商品価値の不在宣言、もしくは商品価値の不可知宣言に等しい。そもそも不等交換とは、等価交換の影にすぎない。等価交換を前提にしてのみ、不等交換を論じられる。だからこそ限界効用理論でさえ、商品のもつ主観的快楽の等価交換を想定している。哲学的不可知論では物自体の認識可能性を拒否したために、不当な認識そのものが謎として現われた。それと同じように、経済学の不可知論でも価値の認識可能性を拒否すれば、不当な商品交換そのものが謎となる。不可知論者は、物体の実在を知るために自ら物体にぶつかるべきである。同じように交換規則の不在を宣言する者も、自ら商品市場で率先して不当な商品交換を経験すべきである。ハイエクの価値不可知論も、生産者が自ら価格設定を立てる現実から見れば、奇怪なのである。
 上記の剰余価値理論の一般モデルが片付けるべき問題は、次の2点である。ただし両方とも剰余価値率の規則性を取り上げた内容であり、実質的に同じことを表現している。

 (1)剰余価値率における恣意の排除
 (2)市場原理に抵抗する硬直した不等交換の根拠

上記の(1)は、剰余価値の上限を問題にしており、(2)は剰余価値の下限を問題にしたものである。

(2012/08/17)(続く)



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