観念論は唯物論に対して、物質が意識を規定するなら、意識は自由を失うと主張し、憤慨する。一方で機械的唯物論も、同じ理由で意識の独立性を錯覚とみなす。ただし機械的唯物論は一種の諦念を持って、この物質の支配を受け入れている。見方を変えると両者の違いは、自然の支配に抵抗する西洋的感性と自然との共生を図る東洋的感性の違いのようにも見える。この二者の論理の対立構図は、「純粋理性批判」の先験的弁証論において、カントが超越論と経験論の各定立命題として示した対立構図と実質的に同じである。これに対してサルトルは自己性の復路構造をもって、世界が意識を規定しても、意識の自由が失われないのを示した。しかしサルトルがそこで示した状況概念は、あらかじめ意識の規定的優位を前提にしており、それをもって意識の自由が失われないのを示しただけである。そのようなやり方は、物質に対する自由の優位という結末を、こっそりと最初に仕組んだだけの手品だとも言い得る。ただしサルトルを含めて現象学は、もともと観念論を自称している。したがって彼にすれば、物質に対する自由の優位の説明が持つ自家撞着は、責められる筋合いの無い話かもしれない。一方で、意識の自由を保持するために、最初にネタを仕込む観念論と違い、始まりにおける物質に対する自由の劣位が、どのようにして物質に対する自由の優位に帰結したかを示す必要が、唯物論の側に存在する。
前の記事(人間6:無化と無効化)で筆者は、実存主義における無化概念を唯物論的無効化に置き換えることにより、その唯物論の困難を解消したつもりである。しかし物質が意識を規定しても、意識の自由が失われないとすれば、素直にそれは、物質が意識を規定し得ないことに帰結するのだけではないかという疑問が残る。実際に筆者の説明は、せいぜい意識の発生における物質の規定的優位を示しただけに留まり、一旦成立した意識の自由に規則性を見出すことを放棄している。なぜなら自由に規則性を見出すのは形容矛盾であり、ひとまずそれを放棄するのが妥当だからである。そのことを念頭にしてさらに自由に規則性を問うなら、その問いかけは、自由の成立条件に関わる規則に限定されるべきとなる。しかしそもそも自由とはいかなるものかを考えるために、自由と因果の相関を整理しておく必要がある。
自由に対して規則性を見出そうとする欲求は、例えばカント倫理学やフロイトの精神分析学、または経済学における限界効用理論のような形で現れてきた。サルトルもまた「存在と無」において、精神分析学に対して多大な興味を向けており、実存主義において精神分析学の再構築を志向した。しかしサルトルの状況概念とは、未来の目的を目指す意識が、過去の事実を自らの内に再構築し、現在の動因へと仕立て上げた後づけの動機である。極端な場合にそれは、意識が自己都合ででっち上げた虚偽的過去として現れる。もちろん虚偽であろうとも、一度対象化された過去は、それ自身が事実性としての現実の過去となって意識に現れる。しかしそのことは、虚偽を真理に変えるものではない。しかも状況概念では、でっち上げた虚偽的過去を信奉する者は、でっち上げた当人だけである。言葉の上で見る限り、この状況概念の理屈には、フロイト流の無意識が登場しない。しかしその理屈では、意識が一方で虚偽的過去をでっち上げており、他方で自らその虚偽を事実として信じ込んでいる。もちろん虚偽を刷り込む意識と虚偽を刷り込まれる意識の両方は、一つの意識の中に共存しなければいけない。当然ながら、意識がこのでっち上げた虚偽を信じ込むためには、虚偽を刷り込んだ側の意識が、意識の表面から消えていなければいけない。もちろんそれでも、消失したはずの意識は、意識として無であるにも関わらず、まるで呪いのように意識を動機づける。明らかにこの呪いのような意識は、フロイト流の無意識である。虚偽的過去をでっち上げ、その虚偽を信じ込む意識構造には、必ず無意識が顔を見せるわけである。無意識とは虚実であり、物質ではなく観念である。つまり無意識が意識を規定するその理屈は、観念が意識を規定する観念論にほかならない。サルトルは、意識構造の特徴として、好んで自己欺瞞を取り上げる。ところが自己欺瞞とは、実は無意識の存在を前提にした言葉である。このことは、無意識の理屈を非難するサルトルにとって、不愉快な指摘のはずである。そこでサルトルは、意識の行為選択を過去から切り離し、そこに時間的断絶を持ち込んだ。このような過去と現在の間の断絶は、行為から動機を奪い取り、意識から過去を消去した。しかし理由の無い選択や動機の無い行為によって人間を解釈する試みは、自らはしごを外して高所に上ることを目指すのと同じである。サルトルの言う実存主義的精神分析は、その目論見の正当性に対して、その実態が伴なっていない。サルトルは、動因を未来の目的から後づけする状況概念を放棄し、素直に一般的な因果律へと舞い戻るべきとなる。しかし結局彼は、未来の目的から動因を説明するのをやめて、過去の事実から動機を説明しようとはしなかった。
カントは、過去の事実が意識を規定するような考え方を、意識の自由に対立する見解にみなした。彼においてそのような見解は、意識を因果の支配下に置き、意識の自由を錯覚に扱う誤謬であり、すなわち唯物論である。しかし過去の喪失は、意識を自由にしない。逆に過去を喪失した意識は偶然に支配されるだけであり、そのことは意識が自由であることを無意味にする。因果から遊離した自由とは、単なる物理的偶然にすぎないからである。それは物体の自由にすぎず、エピクロスの言う自由であり、意識の自由ではない。せいぜいそのような無差別な自由は人間を、直面する情報に対し反射的な結果出力を行う機械人形、または目先の直観で行動を決める動物へと成り下げるだけである。
一方でカントは、物理を意識の表象だけに成立する秩序として考えている。この考えは、物自体における物理的原因を、意識の支配者名簿から除外する。ただし表象における心理的原因すなわち動機は、相変わらずに意識の支配者として現れる。しかし物理的原因から区別された動機とは、意識の過去にすぎず、意識そのものである。意識の自由は因果の支配下に置かれたままなのだが、その因果を意識の過去が支配する。結果的に、意識は自らに規定されるだけとなる。意識は自己原因として絶対的自由を得ており、意識の自由も錯覚ではなくなる。このようなカントの発想は、意識の自由を確保する見事な考え方のように見える。しかしこのカントの発想では、逆に意識の不自由がどこにも存在しなくなる。この結末は、有限的意識を神に変えるだけであり、明らかに不合理である。そのために意識の自由は、意識自らの過去に支配される形で、むしろ自らの自由を失うという妙な不合理に落ち着く。意識は過去から自らを解放するのに失敗しており、やはり前進は無かったわけである。結果的に物理的原因であろうと、心理的原因であろうと、過去による意識の支配は変わらなかったのである。
実はカントの考えとは違い、過去の事実が意識を規定することは、なんら意識の自由を阻害しない。意識にとって自らの自由は、常に自らの行為選択における動機の私的固有性を条件にして、意識自らが自らのあり方を決めることだからである。むしろ動機の存在は、意識の自由において前提となっている。動機なしに意識の自由は存在しないわけである。またここで言う意識にとっての動機の私的固有性とは、動機内容が体現する自らの経験を指している。したがって動機内容の合理的正当性や倫理的正当性は、ここでは問題外となる。つまり動機が誤情報であったり、他者への攻撃欲求だとしても、その虚偽性や否性は意識の自由を阻害しない。先のカントへの論及では、意識の自由の条件は、過去と現在の間の因果的断絶として現れた。そこでの過去と現在の対立は、本質と実存、即自と対自の対立とも表現できる。場合によりその対立は、意識と物質、必然と偶然、または真理と虚偽、善と悪の対立として現れるかもしれない。しかしその対立では、繰り返すように、両者の合理的正当性や倫理的正当性は問題外である。したがって例えば必ずしも過去が真理として、現在が虚偽として現れず、過去が虚偽として、現在が真理として現れることもある。注目すべき点は、一つの意識の中に過去と現在の異なる二つの意識が登場し、互いに対立し合いながら、それぞれが自らを真理とみなし、相手を虚偽に貶めることである。ところが意識は、自らの過去を真理とみなし、自らの現在をそれに従わせる。そのような意識の独断は、意識が自己固有の本質を過去に持つことに由来しており、現在の超出未完了がその独断を後押しする。このために意識は、自らの経験に根差す動機だけを動機として許容し、そうではない動機を強制された動機とみなして嫌悪する。
意識の過去は、意識のあったところのものであり、意識における私的経験である。それは意識の自己固有の本質として、意識の自由の経験的真実として現れる。ただし経験の私的固有性は、繰り返すように、その表す内容の真偽や善悪を保障しない。もしかしたらその意識の私的経験は、合理に照らせば虚偽であり、倫理に照らせば悪かもしれない。しかしこの私的経験は、意識の行為選択において、動機の真性を構成する。逆に虚偽的動機を構成するのは、私的ではない経験である。それは単に他人の経験かもしれないし、世俗的経験かもしれないし、一般的経験なのかもしれない。とにかくそれは、意識にとって、自らの経験の外部に現れた経験である。とは言えその私的ではない経験は、その私的ではない点において既に一般性を帯びる。だからこそそれは、意識に対してあたかも善や真理のごとく現れる。しかしその一般的経験も、繰り返すように、実は合理に照らせば虚偽であり、倫理に照らせば悪であるかもしれない。この一般的経験は、意識の自由の虚偽として現れ、意識の自己固有の本質と競合する形で、意識の実存を占拠する。それは、意識の私的経験ではなく、意識のあったところのものではない他人の経験であり、意識の虚偽的過去である。
この説明は、過去と現在の対立を私的経験と一般的経験の対立に類比させる点で、ハイデガーの頽落理論を肯定しそうに見える。しかし次の二点でそれは、頽落理論を肯定しない。第一に私的経験と一般的経験のどちらが意識の実存を占拠するかは、不定である。一般的経験が実存を占拠するという傾向的事実は、それ自身が私的経験に根差している。第二に動機の真性は、繰り返すように、経験内容の合理的正当性や倫理的正当性を保障しない。それは、経験内容の合理的正当性や倫理的正当性が、動機の真性を保障することの勘違いである。そもそも意識の私的経験と一般的経験の両方は、ともに虚偽である可能性までがある。
虚偽的動機であろうとも動機は動機であり、それは意識の現在を規定する。ただし動機の真性だけが、自由の真性を規定する。したがって虚偽的動機がもたらす意識の現在は、いかにそれが後光に包まれていようと、結局のところ意識にとって不自由な現在でしかない。意識にとって自由は、あくまでも動機が動機として真性をもつ場合、すなわち動機が私的経験に根差した動機として現われた場合に限られる。当然のことだが、暴力的強制により意識が納得せずに行為選択をするなら、それは意識の私的経験に根差した動機とならない。このときに意識は不自由を感じるが、そもそも意識はそのような動機を、動機とさえも認知せず、心理的原因ではなしに単なる物理的原因に扱うかもしれない。動機が物理的原因であるなら、意識はその原因に対しても、その原因に対して屈服する自らに対しても、怒りを感じなくて済むためである。
(2012/12/24)
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