13a)ヘーゲル以後の哲学の開始地点
ヘーゲルにおける認識論は、生命体における自己と対象の結合として始まり、観察者による対象の概念化を経由して、実践者における目的の実現に最終形を見い出した。そこでの認識対象は仕事が目指す目標であり、認識の実現は仕事の完遂に等しい。したがってそこで要求される対象認識も、カント式の糞真面目な無限認識では無い。そこでの有限認識は、仕事の完遂において目的を実現するなら、既に無限認識である。またそうであるからこそ、認識は有意かつ可能である。ヘーゲルの目論見は、カントにおける意識と物自体を分断する不可知論の克服であり、その結論に現れた道徳と幸福の分断の克服にあった。そしてヘーゲルはカント式の物自体概念を廃棄し、代わりに事自体を立てて不可知論を克服する。なるほど見事に意識は事の実現において対象に到達し、幸福を得るようになった。しかしヘーゲルによるこの不可知論の解決には、いくつかの疑問点がある。正体の無い物自体を排除し、事自体を立てることで対象認識が可能になったと言うのは、いわゆるゴールポストの移動である。到達可能なゴールを用意し、そのゴールに到達したところで、それを果たして認識の実現と呼んでも良いのか? もちろんゴールポストを無限の彼方に立てたカントもひどいものである。そのためにカントでは、対象に到達せんとする意志そのものがゴールポストになっている。もちろんその思いみなしは、単なるゴールポストのすり替えである。しかもそのすり換えられたゴールポスト自体が、常に全開放の到達実現状態にある。それに比べればヘーゲルにおける物自体の排除と事自体の擁立は、ゴールポストの位置を一貫させた点で、カント式のすり替えの欺瞞から免れている。ヘーゲルにおける事自体のゴールポストとしての正当性は、事自体が持つ一般性が支えている。ヘーゲルは認識を意識一般に承認された無私の仕事として扱う。事自体とはその仕事が目指す目的である。仕事の完遂は意識一般が承認するものであり、仕事はその承認において目的に到達する。すなわち認識は意識一般の要求を満たすなら、対象へと到達し得る。しかしここで再びゴールポストの擁立に対する疑問は繰り返されなければならない。それはゴールポストの承認を意識一般に求める考え方に対する疑問、または意識一般の定立の仕方に対する疑問であり、あるいはそもそも承認を意識に求める考え方に対する疑問である。
13b)実存主義および現象学の台頭
そもそも最初に認識対象が不可知であるなら、そもそも仕事の目的が成立しない。したがって認識の始まりにおいて、仕事は不可知論を拒否する。ところが認識の実現が仕事の完遂を待たなければならないとすれば、仕事の始まりにおいて目指すべき目標が成立しない。物を食べるためには、やはり物はあらかじめ見えているべきだからである。つまりそこには、認識の前提に認識が現れる困難がある。ドイツ観念論はこの困難を、先行する認識と実現すべき認識の二つの認識を切り分けることで解消を試みた。フィヒテが行ったその切り分けでは、先行する認識を無限者による認識に扱い、実現すべき有限者による認識と区別している。しかしこれだけでは、無限者の認識がどのようにして有限者に共有され得るのか不明である。そこでシェリングは、無限者に包括された有限者が、美的直観において無限者の認識を得るのだと考えた。カントが切り離した無限者と有限者は、カント・フィヒテ・シェリングの三者を経て行く中でどんどんと距離を縮めて一体化に進む。しかし単純な無限者と有限者のスピノザ式一体化に至ってしまえば、無限者と有限者を切り離したカントの前提が無意味化する。それゆえにヘーゲルにおいて無限者は、シェリングの目指すスピノザ式自然神ではなく、意識一般としての精神として示された。ヘーゲルにおいてそれは、一旦フィヒテに立ち戻り、外化した無限者として宗教教団を擁立することである。なぜなら教団とは、自己否定した無私の意識一般であり、すなわち理性だからである。とは言え、実際にはヘーゲルから見ても宗教教団は必ずしも理性的存在者ではない。そこでヘーゲルはそれらを精神の直接態だとみなし、対自態としての歴史的理性を国家に見出すに至る。しかし精神が個別意識から離れ、教団や国家として個人の前に君臨すると言うのはおかしな話である。ヘーゲルはスピノザを評して、意識を非存在に扱うことで意識を憤慨させたと述べている。ところがヘーゲルもまた、精神を非個人に扱うことで個人を憤慨させている。ヘーゲルに対抗して精神を個人意識に限定したのはキェルケゴールであるが、認識論における意識一般の排除はフッサールの現象学として現れた。そしてハイデガーは実存主義と現象学を癒合し、シェリングをも蘇らせた。認識論における意識一般の排除はそのまま客観の排除として進行し、現象学では主観において認識を語るのが哲学の本来の姿だと考えられるようになった。ちなみに現象学における哲学上の仮想敵はヘーゲルではない。現象学が台頭した哲学世界においてヘーゲルは既に死んだ犬になっていたからである。現象学の実際の敵は唯物論である。現象学にとって唯物論は客観を装う世俗であり、意識一般を装う偽りの真であった。
13c)各思想における認識の実現判定
ヘーゲルにおいて認識の実現は、仕事の完遂であり、仕事の完遂とは目的の実現であった。しかしそこでの幸福の実現をそのまま認識の実現と考えるためには、目的がそもそも認識でなければならない。そうでなければ意識が満足したので仕事が完遂されたのだと扱うような、意識の勘違いが容認されてしまう。つまり認識の実現は対象把握の実現であり、幸福の実現ではない。もちろん対象把握の実現は、おそらく幸福を実現する。しかし両者の相関は意識の恣意的偶然に委ねられている。したがって対象把握の実現は、必ずしも幸福を実現しない。そもそもいちいち物が見えていることで意識は幸福にならない。端的に言えば、認識の実現と幸福の実現は無関係である。実はヘーゲル自らも両者の無関係を認めているのだが、ヘーゲルはその是認をカントに対して向けているだけで、自らに対して向けていない。すなわちカントに対しては、認識の実現と幸福の拒否は無関係であると言い、自らに対してだと、認識の実現は幸福の実現だと言う。このレトリックはヘーゲルにおけるカント不可知論克服の切り札なので、レトリックの否定はカント不可知論復活に繋がりそうに見える。意識は仕事の完遂を幸福の実現を通じて知り得たのに関わらず、幸福の実現は仕事の完遂判定に対して無力だからである。しかしこれによる不可知論復活への心配は不要である。なぜならヘーゲルは、仕事の完遂判定を意識一般に委ねただけであり、もともと仕事の完遂判定は個別意識が自ら行っているからである。実存主義および現象学もまた、仕事の完遂判定を個別意識に委ねようとする。それが仕事の完遂判定の本来の姿だからである。そしてそれはそれで一つの解決策である。実際に個別意識は自ら認識の実現を判定し、いちいちそれについて意識一般の顔色を窺ったりしない。ただしそれは、ヘーゲルの思惑からすれば人間における理性の後退である。もともとの個人意識における認識の自己確認は、直観に過ぎず認識ではないし、情念に過ぎず理性ではない。ヘーゲルがわざわざ自己否定的理性を外化し、認識の実現を理性に対して確認させようとしたのは、個人意識が自らの思い込みを脱すべきだと彼が考えたからである。その考え方は、カントの場合では幸福の拒否に帰結し、現象学の場合では判断停止の方法論として結実している。それに対してヘーゲルは、独断の排除を独断する個人に委ねるのは筋違いだと考える。だからこそ自己否定的理性の外化および意識一般の形成を必然だとみなした。一方でヘーゲルは、自己意識が自己否定的理性として外化したものとして教団や国家に先んじて、物質を挙げている。物質は物理的諸属性の結合体であり、教団や国家のような精神ではない。しかしそれは物の塊りであるがゆえに、個別意識でも意識一般でもない。そのような物質は、精神と区別されるので最初から無私である。それなら認識の実現を確認する役割は、意識一般でもなく個別意識でもなく、物質が受け持つのも可能だと言うことである。そこでむしろ物質がその役割を果たすのが筋ではないのかとの考え方、すなわち唯物論が登場する。
13d)ヘーゲルの唯物論的転倒
基本的に物には認識の実現や仕事の完遂を積極的に確認するような能動性は無い。なぜなら物は実現した認識そのものであり、完遂した仕事そのものだからである。それゆえに物に対して認識の実現や仕事の完遂を窺うのは、一種失礼な話でさえある。ただしこのような物に対して認識の実現を確認させ、その答えを得るための技術論は別途必要である。またその技術の確立と言う仕事そのものが、同じ手法をとってその完遂を確認されなければならない。それらの作業が目指すのは、認識の実現、または仕事の完遂を意識の代わりに行う方法論であり、さらに言えばそれを行う道具作りである。その道具とは簡単に言えば、認識確認機械とも言うべき物体である。この認識確認機械は、自己意識が自ら持つ仕事の完遂判定の疎外体であり、仕事の完遂判定を物体化したものである。さしあたりそのような技術が可能かどうかを別にして唯物論に従えば、認識の実現も仕事の成否も、全て道具を通じて当の認識対象が答えてくれることになる。すなわち認識の実現も仕事の成否も、認識確認機械が操作一つで確認してくれる。そこでは仕事の完遂判定をするための意識一般の出番は無く、個別意識における仕事の完遂判定も形式的である。言い方を変えれば、その機械は神や国家であり、代わりに本来の神も引退しており国家も死滅している。一方でそのように形而上学的問題を形而下的技術が回答することに対し、当然のことながら異議が生まれる。認識確認機械を設計するのは人間であり、意識ではないのか? すなわち実際に認識の実現や仕事の成否を行っているのは人間であり、意識ではないのか? この見方に対する唯物論の考えは違う。認識確認機械は、人間に代行して認識対象に到達し、その答えを人間に戻すだけである。人は望遠鏡を通して星を眺める。そこで人の目に見えた星は、望遠鏡を作った意識が生み出した幻覚ではない。また望遠鏡の制作者の意識も、そのようなことを望んでいない。一旦物質として定立された対象は、既に実体として承認されており、以後の認識は同じ物体を認識対象として捉える。ことさらに意識は、カント式にその実体の先にある無限認識を要求などしない。またヘーゲル式に認識の実現において幸福を実現する必要も無い。なぜなら認識は既に実体に到達しているからである。目的因に認識対象を見い出そうとするヘーゲルの認識論は、作用因に認識対象を見い出す本来の認識論に正されなければならない。ちなみに道具が理想とする認識の姿は、認識対象の直接的な意識への結合である。ヘーゲルにおいてその本来の姿は、対象を自らの血と肉にする食餌行動である。もちろん人間は、天空の星を自らの血と肉にするわけに行かない。しかしその知識を自らの生活の糧にする方法は心得ている。したがって唯物論的認識は、認識をその始まりの姿に返している。そこに現れる認識の姿は、意識の直接知において思い込まれた対象の姿を否定し、媒介を通じて物体化した対象を意識に結合する運動である。そのことが表現するのは、この唯物論的認識がヘーゲル認識論のあるべき最終形だと言うことである。(2017/10/08)
ヘーゲル精神現象学 解題
1)デカルト的自己知としての対自存在
2)生命体としての対自存在
3)自立した思惟としての対自存在
4)対自における外化
5)物質の外化
6)善の外化
7)事自体の外化
8)観念の外化
9)国家と富
10)宗教と絶対知
11)ヘーゲルの認識論
12)ヘーゲルの存在論
13)ヘーゲル以後の認識論
14)ヘーゲル以後の存在論
15a)マルクスの存在論(1)
15b)マルクスの存在論(2)
15c)マルクスの存在論(3)
15d)マルクスの存在論(4)
16a)幸福の哲学(1)
16b)幸福の哲学(2)
17)絶対知と矛盾集合
ヘーゲル精神現象学 要約
A章 ・・・ 意識
B章 ・・・ 自己意識
C章 A節 a項 ・・・ 観察理性
b/c項 ・・・ 観察的心理学・人相術/頭蓋骨論
B節 ・・・ 実践理性
C節 ・・・ 事自体
D章 A節 ・・・ 人倫としての精神
B節 a項 ・・・ 自己疎外的精神としての教養
b項 ・・・ 啓蒙と絶対的自由
C節 a/b項 ・・・ 道徳的世界観
c項 ・・・ 良心
E章 A/B節 ・・・ 宗教(汎神論・芸術)
C節 ・・・ 宗教(キリスト教)
F章 ・・・ 絶対知