唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル大論理学 概念論 解題(3.独断と媒介(2)目的論的価値)

2022-11-05 23:04:12 | ヘーゲル大論理学概念論

2)美

 目的観の根底に拡がるのは、事物ではなく事物の価値であり、端的に言えば事物の快である。その一つ一つの快は、個別の主観が個々の事物に対して刹那的に擁立した恣意的独断である。そしてその独断の無根拠についての自覚が、物体と観念の二方向に根拠の遡及を促す。物体への根拠遡及は、快の物理的根拠を明らかにする点で有意である。しかし快の独断は純粋な独断である。それゆえに物理の根拠遡及は、物体がなぜ快なのかを外面的に説明するだけに留まる。そしてその同じ事情が快の観念的根拠の遡及を、最初から頓挫させる。それゆえにその観念的根拠の遡及は、原因遡及ではなく、結果の推論へと進む。むしろ快の物理的根拠の分析は、このときにその推論の手段として有効になる。ただしそれもあくまでも快を実現する手段に留まる。このような事情が根拠としての快を、原因ではなく目的にする。しかし快は刹那的目的であり、必ずしも結果的に快とならない。結果的に快とならない刹那的快は、その目的と矛盾する。それゆえに刹那的快に留まる快は虚偽的である。ただしそれは虚偽的なだけであり、快が現れる限りで刹那的快もそれなりに真である。しかし刹那的快の目的が刹那的快自身の実現に留まることは、やはり個別の主観を失望させる。特に刹那的快が結果的により大きな不快を実現するなら、個別の主観は刹那的快に嫌悪を感じる。このときに刹那的快は、個別の主観においてそもそも快であるのをやめる。一方で快が目的の実現のために現れることは、快を目的に憑依させる。もともと快は目的となる事物の属性ではない。すなわち事物に価値は無い。しかし快が目的に憑依することで、事物に価値が生じる。このときにあたかも事物の属性の如く、事物に快が付加する。端的に言えばその快および価値は、事物の美である。


3)善

 恣意的な美の独断は、直接的な感性的快に始まるが、それだけに留まらない。独断的快を事物に憑依させることができるなら、事物の数ほどに美は可能である。快的を基準にして美を捉えれば、かたづいた部屋に美を感じるであろうし、秩序だった文章や数式に美を感じることもできる。ただしそもそも美は独断なので、逆に汚れた部屋や粗雑な文面にでも美は可能である。またむしろ雑然がもたらす余裕は、やはり美である。さしあたり特定の美が多くの主観に共有されるなら、それだけその美は数量において普遍的となる。さらにこの快の恣意的な事物への憑依は、運動や行為、および事物の効果や個人の資質に対しても可能である。しかしそれらは直接的な事物と違う。その差異を埋めるのは、それらがもたらす結果の快、および結果の事物である。ここでも快は、あたかもそれらの運動や行為、および事物の効果や個人の資質の属性の如く、それらの非事物に付加する。ただしその快は美でありながら、美の刹那的快と異なる。まずその美は直接に主観が事物に憑依させる美ではない。それは非事物がもたらす結果を媒介にして、主観が非事物に憑依させる美である。しかもその美は、結果を媒介にした美でありながら、結果を媒介する美になっている。なお非事物がもたらす結果を目的とするなら、媒介としての非事物は手段にすぎない。したがってそれが現す美は、手段の美である。そしてそのような非事物の美が善である。一方で結果を媒介にして非事物に憑依する善は、結果を媒介する事物にも憑依する。そして手段として現れるのも、もっぱら結果を媒介する非事物ではなく、結果を媒介する事物である。それゆえに手段の美も、それらの事物に現れる。この事物における手段の美も、やはり善である。ただし非事物の善と違い、事物の善は「善い」ではなく、ただ単に「良い」に留まる。ちなみにここで述べた善は、単純に直接美と区別された媒介美だけを指す。この媒介は実際には非事物にだけ該当するのでなく、行動主体の他者一般に該当する。そしてそれは、むしろ行動主体の同類である同じ人間の他者に該当する。


3.1)物理因果と美

 物理因果は先行する物体が原因となって、後続する物体を結果にする。そこでの結果の物体は、単純に原因の物体の変様である。ただし人間は物理を必然としつつも、なぜそれが必然なのかを知らない。それゆえにその変様は、物体にとって必然なだけである。逆に物体の外部に立つ行動主体にとって、物理は偶然である。もっと単純に言えば、物理は人間にとって偶然である。この機械論に対して目的論因果は、後続する結果を原因にする。その因果において結果は自己実現である。その原因となる目的は結果決定の独断であり、結果の快はその実現である。したがってその実現は目的に従う行動主体にとって常に必然である。しかもその必然は、必然を説明する独断の可視化により、行動主体の他者にとっても必然となり得る。この物理因果と目的論因果の両因果に対して、美の因果はどちらでもある。例えば美の因果は、花を原因として、その見た目の美や芳香の快を結果にする。さしあたり人間にとってその因果は、偶然な物理因果である。実際に見た目が悪く悪臭を放つだけの花もある。また花の見た目の美や芳香は、おそらく花の自由な独断の結果ではなく、自然淘汰の賜物である。したがって花にとっても、その因果は偶然な物理因果である。ところが花の見た目や芳香は、花自身の類的存在を維持する行為であり、手段である。美しい花はそれらを通じて自らの種族を存続させる。その種族維持戦略は、最初は虫に対していたとしても、今では人間に向いている。このような花の美は、花にとって既に偶然ではない。このときに花に与えられたお仕着せの独断は、花自身が選んだ独断になる。すなわち花は自ら他者に対する見た目の美や芳香を選ぶ。またそうしなければその花の種族は生き残れない。そしてその花の独断は、同じ一つの偶然を、人間にとっての偶然と花にとっての必然に分離する。それは花の対他存在において、人間にとっての物理因果と花にとっての目的論因果の分離である。


3.2)自然の目的論因果

 実際には上記における花の対他的偶然と対自的必然の分離は、そのまま見た目が悪く悪臭が放つだけの花にも該当する。その花は人間に対する美を必要としないだけであり、悪臭は人間ではなく虫の興味を引くためである。そのように捉えるなら全ての生物の対他的姿態に、対他的偶然と対自的必然の分離が該当する。木の葉に自らを似せた虫や毒を持つ魚や蛇、ライオンのたてがみや孔雀の羽根は他者から見れば偶然である。しかしその対他的姿態の形成は、その生物にとって必然である。むしろその人間の理解を超えた不思議な姿態の形成こそが、単なる偶然を超えたその生物固有の独断を表現する。そして翻ってその人間の理解を拒む特定の存在者の傾向一般を、その存在者の固有の独断と捉えるのも可能である。このときに対他的偶然と対自的必然の分離は、生物一般に留まらずにさらに自然一般に現れてくる。そこでは受動的であることでさえ、その存在者の独断である。このスピノザ汎神論は、エピクロス式に偶然を物体の自由として扱い、それを個々の物体の独断の所作にする。そこでの自然法則は個々の物体が遵守する法となり、物体世界において物体自身が定めた義務となる。この独断に彩られた物理世界の把握は、仏教式観念論の究極の姿にかぶる。そして人間は自然の一部でもある。そのように自然因果の必然を人間の必然として受け入れる場合、自然因果の必然は人間の偶然にも及ぶ。この場合に無法則で恣意的な美にも、法則と必然が成立する。当然ながらその美の法則と必然は、物理に従う。すなわちこのときに自然の美は、人間の美にもなる。したがってカントの美に対する見解に反し、美にも法則と必然が存在することになる。ところがそれは、自然自身にとっての必然を超えない。そしてその必然は、自然の他者である人間にとって相変わらず偶然である。そして自然を人間の対立物に扱う限り、自然の美は人間の美とならない。しかも人間の自由は、自らの私的快に対立する自然の必然を凌駕する。このときの人間は自然の一部ではない。それゆえに美の因果は、背景に自然の必然を負いながら、やはり最終的に人間の恣意的独断に従う。


3.3)二つの必然の機械論

 物理因果と目的論因果の二つの必然は、一方を必然と捉えると、他方を偶然とするような異なる因果である。物理を必然と捉えるなら、目的論因果は恣意的自由であり、目的論因果を必然と捉えるなら、物理因果は無目的な偶然連鎖である。そしてもっぱら必然は、物理因果の側にあると捉えられている。しかし物理因果の必然は、物体にとっての必然にすぎない。同様に目的論因果の必然は行動主体にとっての必然にすぎない。行動主体の他者にとって行動主体の必然は不明であり、偶然として現れる。それゆえに物体の他者にすぎない人間にとって、物体の必然は偶然である。同様に人間の他者にすぎない物体にとって、人間の必然は偶然である。要するに行動主体の必然は、行動主体の他者にとって偶然である。つまり物体であるか人間であるかに関わらず、誰にとっても他者の独断は恣意的偶然である。その独断の必然は、他者に尋ねてみないと判らない。そして人間は物体と会話をできないので、勝手にその運動を偶然として捉える。このことは人間が物体の行動目的を知り得ないだけなのを言い表す。このように考えると物理因果と目的論因果に差異は無い。差異があると考えるのは、人間の自己都合である。それゆえに物理因果と目的論因果の差異は、人間以外の因果と人間の因果としてのみ区別される。そしてこの差異を端的に言うと、私以外の物理因果と私の目的論因果の差異である。


3.4)必然の化合と善の因果

 さしあたり行動主体にとって自らの目的論は、無目的に見える他者の因果に対し、唯一の必然である。その必然を支えるのは、目的の独断である。無目的に見える他者の必然が必然でなく現れるのも、他者における独断の不可視に従う。しかしこの同じ事情が、他者の必然を必然たらしめる。独断の不可視は、他者との何らかの意思疎通において抑制される。またそれゆえに他者の独断を理解する人間は、他者の必然も理解する。そしてその意思疎通は、必ずしも言語を必要としない。他者における全ての現れは、既に他者の独断の表れだからである。それゆえに人間は、言語の通じない異国人の行動の必然を理解できるし、人間以外の動物の行動の必然も理解できる。そしてさらに言えば人間は、動物以外の物体の動きも理解できる。あるいはむしろ独断の表れの単純さから言えば、人間にとって物体や動物を理解する方が、よほど同類の人間の独断を理解するより簡単である。そしてこのことが、必然を物理因果の側に措く理由になっている。ちなみにここでの他者理解の全ては、感性の直接知ではなく、全て推論である。とは言え意思疎通の確定から言えば、やはり人間にとって同じ言語を交わせる同類が、意思疎通の確定が最も単純な相手であるのに変わらない。そしてその意思疎通に応じて、人間は同類の他者に対し、他者一般のよそよそしい物理因果の蓋然の代わりに、自己の目的論因果の完全な必然を適用する。さしあたり同類の独断が私的快の実現を目指すなら、その目的論因果は美の因果に留まる。そしてそうでなく類的快の実現を目指すなら、その目的論因果は善の因果である。


3.5)目的論因果と善

 他者の必然と自己の必然の癒合における必然の自他共有は、人間同士の類的因果を実現する以前に、既に人間と物体、さらに物体同士の必然の癒合として現れる。人間同士の癒合から擬人的に推論するなら、それらの癒合も癒合の有利が双方に働くので癒合が成立し、そうでなければ双方は癒合せずに逆に反発して遊離する。さしあたり人間同士の癒合において、両者が共有する目的論因果は善である。そして人間と物体、あるいは物体同士の癒合において両者が共有する目的論因果は、善でなく良である。ただしこの良も、癒合の双方から見れば善である。そこにある違いは、人間同士の相関と人間以外の相関の差異だけである。そしてそれらの因果はいずれも、相手を媒介にして双方の目的を実現する目的論である。したがって善の因果も、手段を通じて快を実現する美の因果である。このときに手段の実現を快と区別し、目的を実現する手段の美を美と区別するなら、手段に現れる美は純粋に善または良である。その手段としての人や事物の美は美の同類であるが、直接美ではないし、感性において美しい必要も無い。ただし手段もまた目的になる。この場合にその手段の善および良も、やはり美となる。そこでの手段の善および良は、もっぱら美と区別されない。一方で目的を実現した後の手段は、既に目的ではない。このときに手段に対して美を見出すのは、困難である。もし手段の美が永久に続こうとするなら、その手段は金を産む鵞鳥である必要を持つ。その金を産む鵞鳥の特質は、手段として目的を実現する効力の永続である。そのような特質は、永続的な自然の運動にも見られるが、多くは高等生物が持つ特質であり、もっぱら人間の特質である。そしてこのことが事物と人の善を、それぞれ良と善に区別する。

(2022/11/06) 続く⇒ヘーゲル的真の瓦解 前の記事⇒媒介的真の弁証法


ヘーゲル大論理学 概念論 解題
  1.存在論・本質論・概念論の各章の対応
    (1)第一章 即自的質
    (2)第二章 対自的量
    (3)第三章 復帰した質
  2.民主主義の哲学的規定
    (1)独断と対話
    (2)カント不可知論と弁証法
  3.独断と媒介
    (1)媒介的真の弁証法
    (2)目的論的価値
    (3)ヘーゲル的真の瓦解
    (4)唯物論の反撃
    (5)自由の生成

ヘーゲル大論理学 概念論 要約  ・・・ 概念論の論理展開全体 第一篇 主観性 第二篇 客観性 第三篇 理念
  冒頭部位   前半    ・・・ 本質論第三篇の概括

         後半    ・・・ 概念論の必然性
  1編 主観性 1章A・B ・・・ 普遍概念・特殊概念
           B注・C・・・ 特殊概念注釈・具体
         2章A   ・・・ 限定存在の判断
           B   ・・・ 反省の判断
           C   ・・・ 無条件判断
           D   ・・・ 概念の判断
         3章A   ・・・ 限定存在の推論
           B   ・・・ 反省の推論
           C   ・・・ 必然の推論
  2編 客観性 1章    ・・・ 機械観
         2章    ・・・ 化合観
         3章    ・・・ 目的観
  3編 理念  1章    ・・・ 生命
         2章Aa  ・・・ 分析
         2章Ab  ・・・ 綜合
         2章B   ・・・ 
         3章    ・・・ 絶対理念


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