唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル精神現象学 解題(15a.マルクスの存在論(1))

2017-11-04 08:58:53 | ヘーゲル精神現象学

15a)自由の実体

 意識の存在はヘーゲルにおいて支配力、シェリングにおいて可能性として現れた。可能性との比較で言うと支配力は現実性である。しかし支配力は現実化した可能性でもあり、外化において物態を得た自由だとも言える。したがって支配力と可能性の間にそれほど懸隔は無い。ところが支配力を喪失し、支配されるだけの意識にとって、意識の存在を支配力として理解するのは、意識としての自己を否定することに等しい。その意識の現実感覚では、自らは支配の現実と無関係に実在する。なぜなら自らは可能性だからである。ところが意識の存在を可能性として理解することにも、困難はつきまとう。可能性は意識に固有の存在ではなく、全ての存在者においてなんらかの形で存在するからである。可能性が意識の存在であるなら、可能性の遍在は次のことに帰結する。すなわち、意識は全ての存在者の内になんらかの形で存在する、と言うことである。逆に言えばそれは、可能性を有する全ての存在者は意識として実在すると言うことである。この存在論が彷彿とさせるのは、存在を延長と叡智の結合体として理解したスピノザ汎神論である。シェリングは、その結合の組み合わせを現実性と可能性に変えただけである。ちなみに両者ともに、叡智や可能性の純正体を想定していない。スピノザにおいて叡智の純正体が非存在になるのは、それが延長を持たず、自然界に実在しないからある。同じことはシェリングの場合にも該当する。現実性を持たない可能性の純正体とは、文字通りに非現実の空虚な抽象である。ここでの可能性が現実性を必要とする構図は、自由が何かしらの制約を前提にすることと同じことである。そうではない自由は、自由であるかどうかも不明な非現実の可能性に留まる。それゆえに可能性は、自らの現実的な基体を必要とする。その基体は可能性の根拠であり、自由を根拠づける存在であり、自由の実体として現れる。一方で意識の存在として自由が現れたのに、その自由にも存在が求められると言うのは、不合理である。なぜなら自由は規定されることから自由でなければ、自由ではないからである。そこで自由の存在は無になるべきとなる。それゆえに意識は、意識としての自己を否定し、真の自由に至る。このときに意識は純粋可能性となる。しかし自由が単なる無になるなら、シェリングが理解したような可能性としての自由は存立せず、意識も存立しない。それゆえに純粋可能性は、自らの実体を自由でも意識でもない形態で保持すべきである。それは非実在の抽象ではなく、意識を芽吹く種子であり、自由を根拠づける現実的具体である。すなわち自由の実体は、物態において存在すべきである。


15b)可能性としての使用価値

 物はヘーゲル弁証法の始まりにおいて、随意にならない実在として登場した。したがって物は意識の抑圧者であり、見方を変えれば意識の支配者であった。意識がそのような支配に対抗するためには、自らが支配力として立ち現れる必要がある。それゆえにヘーゲルにおいて意識の存在は支配力であり、支配力こそが自由であった。その支配力が目指す自らの最終形は、自ら対立した当の相手であり、かつ意識の抑圧者として現れた物の姿である。一方でヘーゲルが示した支配力に対してシェリングは、意識の存在を可能性として示す。その可能性としての意識の存在は、既に実現している自由としての支配力と違い、まだ実現していない自由である。その自由はもともと全ての存在者の内に可能性として存在するものであり、可能性であるがゆえに、むしろ自由でも意識でもない物の姿をして現れる。すなわち可能性の純粋な姿は、自己を持たず自由と無縁な物から始まる。物が有する可能性は、何かに成る可能性であり、植物の種子や鶏の卵のように自らが自律してその可能性を実現する場合もあれば、ほかの存在者が栄養分や住処のように利用してその可能性を実現する場合もある。いずれにおいても利用される物の属性は、利用する者にとってその物の使用価値である。ただしそこでの物の属性の利用には、意識の能動が関与するとは限らず、偶然にその属性が効果を発揮して、それが意識の能動にまで転化することも多い。またおそらく意識の能動自身の起源も、そのようなものである。利用される物の属性は、物それ自身の属性であるより、その物に関わる各種存在者にとっての使用価値である。したがって使用価値の形式も、その物に関わる存在者の種類ほどに多種に存在する。例えばユウカリの葉は多くの動物にとって毒であるが、コアラにとって栄養分である。つまりコアラとコアラ以外でユウカリの使用価値は異なる。また蓼食う虫も好き好きと言う事で、使用価値は存在者の種だけでなく、個別の存在者ごとに形式性を得ているし、さらに場所や時間に応じて使用価値は無効にもなるし、その価値の大きさも変わる。ただしそれらの多種多様は、使用価値の無形式を表現しているわけではない。例えば家や服などの言葉は、家や服などの使用価値に形式があるのを前提にしている。もし物の使用価値に形式が無ければ、家や服などの言葉は成立できない。或る人が椅子の作成を別の誰かに依頼し、その誰かが椅子を作成できるのは、椅子の使用価値が形式を得て存在し、それが椅子と言う言葉として存在するからである。具体的に言えば、家や服や椅子の使用価値は、雨風や寒さや疲労の克服であり、それらを屈服させる支配力である。ただしそれらの使用価値は、家や服や椅子の物態の上ではまだ実現していない支配力であり、可能性として現れるだけである。使用価値が現実の支配力として現れ、自らの使用価値を発揮するのは、使用者が物を使用する時である。つまり可能性としてあった使用価値は、使用者が効用を行使する時にようやく現実性へと変化する。すなわち物の使用価値が実在として現れるのは、使用される時である。


15c)現実性としての交換価値

 マルクスの「資本論」の冒頭は商品価値論であるが、その商品価値論はそのまま存在論に転用可能な内容を含んでいる。なぜなら商品価値が体現するのは、商品使用者の特定の自由であり、商品は物態にある自由の実体だとみなされるからである。マルクスにおいて商品価値は、一方で使用者にとっての使用価値、他方で生産者にとっての交換価値として現れる。ただしマルクスにおいて使用価値と交換価値は、同じ商品価値でも異なる種類の商品価値である。使用価値は商品の効用であり、交換価値は他商品との交換比だからである。交換価値が表現する交換比とは、要するに価格である。そしてマルクスはその交換比の度量単位を労働力として理解した。マルクスの商品価値論を理解する上で、使用価値と交換価値の区別は重要である。しかしその区別に執心すぎると、逆に両者の相関が見えなくなってしまう。とりあえず注意すべきなのは、商品生産者にとって、商品価格が商品の交換価値であり、同時にそれが商品の使用価値になっていると言うことである。それゆえに使用者向けの商品効用は、生産者の興味から外れたものとも言える。同様に商品使用者にとってすれば、商品効用が商品の使用価値であり、同時にそれが商品の交換価値だと言うことである。それゆえに生産者向けの商品価格は使用者の興味から外れたものとも言える。生産者にとって商品価格が商品の使用価値として現れるのは、生産者が商品交換に商品の効用を見い出すからである。もちろんそれは、生産者がその商品交換を媒介にして、自らの生活実現をするためである。それは使用者にとっての商品の効用が直接的な快適さであるのと比べると、交換価値を媒介にした間接的な快適さになっている。ただし生産者にとっての商品効用は、その媒介的な判り難さの反面、生産者の生活実現で一元化した判り易さを得ている。それは貨幣転化の可能性、すなわち金儲けの可能性へと一般化されるからである。ただしその商品効用は、商品交換の前ではまだ実現しておらず、可能性として現れるだけである。したがってその商品効用の実現は、生産者における商品交換の実現に等しい。使用者における使用価値は、使用者が効用を行使する時にようやく現実性へと変化した。その使用価値の現実転化の事情は、生産者においても変わらない。ここでも可能性としてあった使用価値は、使用者が効用を行使する時にようやく現実性へと変化する。すなわち物の使用価値が実在として現れるのは、やはり使用される時である。ただし生産者にとって、商品の使用価値は商品交換を通じた交換価値の実現なので、可能性としてあったのは交換価値であり、使用者が効用を行使する時にようやく現実性へと変化するのも交換価値である。すなわち商品の交換価値が実在として現れるのは、商品交換される時である。生産者にとって商品効用としての交換価値は、商品交換される前は可能性に留まる。しかし交換価値自身は、生産者にとって商品生産完了時点で既に実現している。なぜなら交換価値は、商品生産のために投下した生産者の労働力量だからである。それは商品の過去の実在性であり、未来の実在性としての使用価値と異なる。すなわち交換価値の持つ実在性は、商品の現実性である。一方で使用価値の持つ実在性は、商品の可能性であった。両者の実在性の差異は、現実性と可能性、または過去と未来の価値的差異となっている。


15d)可能性と現実性の相互転換

 商品の使用価値は使用において価値を実現する可能性であり、交換価値は生産において確定する現実性である。ただし両者ともにその使用前の単なる物態では可能性に留まり、使用を通じて現実性となる。それゆえに少しややこしくなるが、使用前の使用価値は商品の可能性のさらなる可能性であり、使用時の使用価値はその可能性の現実化となる。そして商品交換前の交換価値は商品の現実性の可能性であり、商品交換後の交換価値はその現実性のさらなる現実化となる。すなわち物としての肉は、食される前ではその使用価値が可能性に留まり、食されることにおいてその使用価値を現実性に転化する。同様に商品としての肉は、貨幣交換される前ではその交換価値が可能性に留まり、貨幣交換されることにおいてその交換価値を現実性に転化する。ただしこのややこしさは、これだけでは済まない。それと言うのも、商品交換の局面で見ると、生産者が現実化した交換価値は、使用者において可能性に留まる使用価値に等しく、使用者において現実化した使用価値は、生産者において可能性に留まる交換価値に等しいからである。そこでの可能性と現実性の現れ方の逆転は、使用者と生産者が互いに商品交換の対極にあることの必然的結末である。しかもその商品交換を商品価値の等価にこだわって見直すと、次の表現が正しいことに気づく。その正しい表現とは、「生産者が現実化した交換価値は、使用者において可能性に留まる使用価値と等しくなる“べき”であり、使用者において現実化した使用価値は、生産者において可能性に留まる交換価値と等しくなる“べき” である。」である。上述文章で商品交換における交換価値と使用価値が、なぜ等価ではなく、等価となるべきの義務表現になるのかと言えば、生産者における交換価値と使用者における使用価値の不等価は、生産者か使用者のどちらかの損失ないしは過剰利益を意味するからである。すなわちそれは、交換価値に不足する使用価値を使用者が得たのか、あるいは使用価値に不足する交換価値を生産者が得たのか、のいずれかであり、あるいは使用価値を超える余剰の交換価値を生産者が得たのか、あるいは交換価値を超える余剰の使用価値を使用者が得たのか、のいずれかである。もし交換価値と使用価値の不等価がどちらかの損失を意味するなら、その不正常な状態の持続は、生産者か使用者のどちらかの死滅に帰結する。それゆえに不等価が可能なのは、生産者か使用者のどちらかの過剰利益だけである。もちろんこのことが暗喩するのは、王侯貴族や資本家の剰余価値搾取である。ただしここで先に理解すべきなのは、使用価値と交換価値の“等価”についてである。なぜなら使用価値と交換価値は、その区別において異なる種類の商品価値だったからである。そのことは、商品効用と価格の“等価”がいかにして可能なのかを理解しなければ、マルクス商品価値論を理解できないと言うことを示している。なぜならマルクスもまた、貨幣発生の必然性を使用価値と交換価値の矛盾において述べているからである。
(2017/11/04)


ヘーゲル精神現象学 解題
  1)デカルト的自己知としての対自存在
  2)生命体としての対自存在
  3)自立した思惟としての対自存在
  4)対自における外化
  5)物質の外化
  6)善の外化
  7)事自体の外化
  8)観念の外化
  9)国家と富
  10)宗教と絶対知
  11)ヘーゲルの認識論
  12)ヘーゲルの存在論
  13)ヘーゲル以後の認識論
  14)ヘーゲル以後の存在論
  15a)マルクスの存在論(1)
  15b)マルクスの存在論(2)
  15c)マルクスの存在論(3)
  15d)マルクスの存在論(4)
  16a)幸福の哲学(1)
  16b)幸福の哲学(2)
  17)絶対知と矛盾集合

ヘーゲル精神現象学 要約
  A章         ・・・ 意識
  B章         ・・・ 自己意識
  C章 A節 a項   ・・・ 観察理性
        b/c項 ・・・ 観察的心理学・人相術/頭蓋骨論
      B節      ・・・ 実践理性
      C節      ・・・ 事自体
  D章 A節      ・・・ 人倫としての精神
      B節 a項  ・・・ 自己疎外的精神としての教養
         b項  ・・・ 啓蒙と絶対的自由
      C節 a/b項 ・・・ 道徳的世界観
         c項  ・・・ 良心
  E章 A/B節    ・・・ 宗教(汎神論・芸術)
      C節      ・・・ 宗教(キリスト教)
  F章         ・・・ 絶対知

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