14a)物・自己意識・他者意識
認識は存在によって支えられている。存在が対象を支えるからこそ、意識は対象を捉え得る。存在には物と意識の2形態があり、さらに意識には自己と他者の2形態がある。存在の最初の姿は、直接知の実在である。そしてその実在において直接知は物として現れる。ヘーゲルにおいて物が実在であるのは、物が持つ力のおかげである。物はその力をもって意識を支配する。支配されることにおいて意識は、自らが虚実としての意識であるのを自覚する。一方で同じ理屈において意識は、自らも力であるのを知る。その力は肉体を支配する。そして支配することにおいて、意識は自らの実在を自覚する。物と意識の実在を比較すると、物の実在が意識の受動において現れるのに対し、意識の実在は意識の能動において現れる。しかし物でも意識でも、存在者は他者を支配することで自らを他者に対して実在たらしめている。さらに同じように他者の意識は実在である。それは物と同様にその力をもって自己意識を支配する。そして支配することにおいて他者意識は他者たり得ている。また支配されることにおいて、自己意識は自らが自己であるのを知る。ただし意識の実在は、自己意識であろうと他者意識であろうと、意識が自ら力を行使することにより発現する。意識は物態に無いので、力の行使が無ければ虚実のままに留まるしかなく、実在たり得ない。つまり意識の実在とは、意識の純粋可能性にある。すなわち意識の存在は自由に存する。なお自己意識は力の行使により一旦自らの実在を自覚すれば、その後の自己意識は直観において自らの実在を確認し得る。それに対して他者意識は、物の媒介を経て自己意識に現れるしかない。このために独我論は、他者意識を物と同列に扱う。ところが物を通じて現れるとは言え、他者意識は常に自己意識に対して自律する背後的実体である。この他者意識の自律が物の自律と異なるのは、他者意識が自己意識と同等の自己否定の運動を現すことにある。自己否定は他者意識が自らの虚実において力を行使する純粋可能性であるのを示す。要するにそれは他者意識が自己原因であり、自由であるのを示す。それゆえに独我論が自己意識を物と区別し、その区別の根拠として意識の自由を示すと、独我論は同時に他者意識の実在を承認せざるを得ない。この困難は独我論に対し、他者意識もろともに自己意識の自律を否定する機械的唯物論か、他者意識と自己意識の双方の自律を認める独我論の廃棄かの選択を迫る。しかし自己意識の自律は、自己意識にとって自明の事実である。それゆえに自己意識は独我論を廃棄する。
14b)支配の正当性
ヘーゲルにおいて意識の実在性は、その持つ力にある。すなわちそれは、物に対する支配力にある。それは少なくとも肉体に対する支配力として現れる。したがってヘーゲルは、デカルト式に思惟に意識の実在性を見い出すことをしない。なぜならヘーゲルは意識の自立を、対象の否定による自己純化として理解するからである。すなわちヘーゲルの考える始まりの意識は、対象への志向の姿にあり、意識は思惟として自立していない。意識の思惟としての自立は、対象による否定を通じた自己否定を必要とする。最初に実在として意識に現れるのは、意識ではなく物である。意識の実在性が支配力にあるなら、意識は主語でなければならない。そして述語を支配することにおいて意識は実在する。一方で述語の実在は、主語の実在を支えるために消失する。その消失は、述語の無力がもたらす必然である。ただしこの述語の自己否定に妥当性を与えるのは、主語の正当性である。もし主語に正当性が無ければ、主語の支配にも正当性は無い。そのような主語は実在を失い、代わりに述語が主語へと昇格する。もし述語が主語の正当性を回復するなら、その主語は一般者の資格を得て実在となる。そうでなければ、他の異なる述語が新たな主語へと昇格すべきである。ヘーゲルにおいて自己に主語としての特権は無い。主語の資格が無ければ自己は自ら主語であることを否定する。ちなみに最終的に特権的な正当性を得るであろうとヘーゲルが考える主語は、歴史的理性としての絶対知である。絶対知は支配の正当性において実在であり、実在であるがゆえにその確立に至る意識の運動は、それ自体が存在論として現れる。ただしヘーゲルにおける主人と奴隷の対立は、融和により解決されており、既に革命は成就している。これはヘーゲルが革命を思想史の通過点として過去のものにし、先に結論としての融和を定立せんがためである。これに対して革命はまだ成就していないとマルクス/エンゲルスは憤激する。奴隷は富を支配者に吸い取られて非実在と化した。ところがいまだに奴隷は、主人の実在の前で物として扱われている。そこにはキェルケゴールと同様の、一般者に対する個別者の憤激がある。ただしヘーゲルは革命の必然を納得しており、その上で融和が革命の後に起こると考えている。見方を変えて言えば、ヘーゲルは革命後を見据えて存在論の結論を用意している。一方でマルクス/エンゲルスは、ヘーゲル弁証法の動因を現実世界に求め、それを唯物弁証法に変えることで革命の必然を説明する。またそれだからこそ共産主義は必然的に唯物論となった。共産主義では、現実世界の歴史それ自体が弁証法である。したがってヘーゲルにおいて支配の正当性を巡る意識の運動が存在論として現れたように、共産主義では支配の正当性を巡る階級闘争それ自体が存在論になっている。当然その存在論のあるべき結論は、意識における融和ではなく、共産主義社会の実現そのものである。それが言い表すことは、真の実在がいまだ世界に無いことであり、それをもたらすのが共産主義革命だと言うことである。このような共産主義の登場は思想世界に激震を起こし、思想史どころか世界史を塗り替えてしまった。
14c)ヘーゲル存在論の見直し
ヘーゲル存在論に対する反発は、二つの形態で現れた。一つ目の形態は、共産主義の反発として先に示したものである。それは、支配されるだけの無産者が非実在として現れることに対する憤激であった。二つ目の形態は、本質に対する現実存在の憤激である。その憤激は、一般者の前に個別者が非実在として現れることに対する実存主義の反発である。その実存主義の始祖はキェルケゴールである。しかしキェルケゴールは、実在を抽象的一般者ではなく、具体的個別者として現すだけである。その実在性規定は、単に具体的現実であることを超えていない。その捉え方は、資本家の独裁を打倒して労働者の独裁を実現しようとした共産主義と同様に、非現実な他者による支配を現実存在する自己の支配に変えようとするだけである。つまりヘーゲル存在論の枠組みは、実際にはキェルケゴールにおいても変わっていない。共産主義でも実存主義でも現実存在の反逆を基礎づけているのは、結局ヘーゲルの場合と同様に、支配の不当性である。ただし実はキェルケゴール以前に、ヘーゲル存在論の枠組みはシェリングによって見直されている。もともとシェリングは悪の自由論において、悪を人間的自由の一つの発現形態として認め、悪の実在をヘーゲル式の支配力ではなく人間的自由から説明していた。その説明をそのまま存在論として理解すれば、実在は支配力だけではなく、自由からも基礎づけられる。もちろんヘーゲル存在論でも自由は、行使されるなら支配力であり、その限りで実在である。しかし既に見たように、その自由は行使されなければ、無に留まる。それに対してシェリングは支配力と自由を、それぞれ現実性と可能性として理解して、存在を構造体として見直す。すなわち自由は実在し、意識は実在することとなった。そしてさらに現実性と可能性を過去と未来に読み替え、独自の時間論にまで存在論を組み替えた。ただしシェリングはヘーゲルの威光に隠れてしまい、その存在論はシェリング没後に忘れ去られた。一方で共産主義が席捲した現実世界では、マルクス/エンゲルスの想定と異なる事態が待っていた。融和を忘れた革命の進行により共産主義が自滅したからである。共産主義の自滅の兆候は、ロシア革命直後から既に現れており、その自滅の兆候に対して様々な解釈が行われた。その一つに国家による個人的自由の剥奪が含まれている。なるほど共産主義は、ヘーゲルの国家主義に対して憤慨した。ところが自ら国家となったロシア共産主義は、同じ国家主義を維持し、最悪の全体主義社会を実現した。結果的に非実在に過ぎなかった無産者は、ロシア共産主義のもとで、以前にも増して非実在となった。そこに浮上した問題の一つが、ヘーゲル存在論における自由の実在性の欠落である。もちろんヘーゲル存在論でも自由は語られ、自由は支配力として実在性を構成する。しかしその自由は支配者の自由であり、支配者だけが実在する。それに対抗する存在論は、被支配者の自由について語らねばならず、自由を単に意識の存在として語らず、存在の構造から説明すべきだと考えられた。かくして共産主義における個人の実在の問題は、広く意識一般における個別意識の実在性を巡る存在問題に置き換えられた。
14d)哲学の迷走
実存主義の台頭は、共産主義の席捲に対する反発や恐怖、そして共産主義の現実に対する失望を背景にしている。サルトルがハイデガーによるシェリング存在論の復興を利用し、反逆する個人の革命を惹起したのは、実存主義が共産主義の影であることを彼自身が自覚したからである。当然ながらその実存主義は、共産主義に対して行動主体の資格を問う思想として期待された。そこでサルトルが示したのは、自由は可能性として存在に貼り付いていることである。それだからこそ意識の自己否定は、意識を非実在にできない。しかし逆にこの自己否定の不能は自己客観化を排除し、自己意識を意識一般と理性に対抗させる。このような実存主義がもたらす革命論は、労働者革命論と必然的に異なるものとなる。それは抑圧者に対する非抑圧者の反逆であり、一般者に対する個別者の反逆であり、絶対自由を目指す無政府主義の革命論であった。この実存主義が示した存在論は、無方向の自由において意識の実在を確立させようとする現代のストア主義である。実存主義によるシェリング存在論の復興は、その存在論の優位点を示しただけであり、その問題点の所在を明らかにしていない。実存主義の無方向な反逆と没落は、その必然的な結末になっている。 認識論の時代の終焉と存在論の時代の到来を宣言したのはハイデガーである。ところが存在論が共産主義と実存主義の二極で展開される一方で、その両者の狭間で思想世界からむしろ存在への興味が消失して行った。この存在論の衰退は、共産主義の登場の裏側で、現象学や論理実証主義などのカント超越論の復刻として既に始まっていたものである。そこでの先験理論の再構築は、実体判定を停止して存在論を牽制し、または存在論を無意味なものと扱い、実体を括弧に入れて現象認識に執着する。それらは、諸カテゴリーの起源への遡及を放棄した一覧表式悟性であり、あるいはむしろサルトルがみなしたように、カントを標榜した現象論である。それゆえにそこにはカントやヒュームの抱えた同じ問題が累積している。ただしそれらの哲学は、ドイツ観念論の系譜のように超越の実現に立ち向かうことをしない。あるいは超越の必要さえ感じていない。それらの哲学は、一般者としての宗教や国家から離れ、個別意識における純粋論理の構築に終始するからである。それらの哲学が見出す理性は、実体遡及を放棄し、認識形式の充実に満足した理性である。もちろんその理性は、ヘーゲルにおける歴史的理性ではないし、カント式の自己否定する観察理性でさえもない。その理性は、物自体の定立と廃棄を意識の運動として理解するのを拒否し、最初から現象論を立てて直観からピストルの玉のように客観を撃ち出す。(2017/10/23)
ヘーゲル精神現象学 解題
1)デカルト的自己知としての対自存在
2)生命体としての対自存在
3)自立した思惟としての対自存在
4)対自における外化
5)物質の外化
6)善の外化
7)事自体の外化
8)観念の外化
9)国家と富
10)宗教と絶対知
11)ヘーゲルの認識論
12)ヘーゲルの存在論
13)ヘーゲル以後の認識論
14)ヘーゲル以後の存在論
15a)マルクスの存在論(1)
15b)マルクスの存在論(2)
15c)マルクスの存在論(3)
15d)マルクスの存在論(4)
16a)幸福の哲学(1)
16b)幸福の哲学(2)
17)絶対知と矛盾集合
ヘーゲル精神現象学 要約
A章 ・・・ 意識
B章 ・・・ 自己意識
C章 A節 a項 ・・・ 観察理性
b/c項 ・・・ 観察的心理学・人相術/頭蓋骨論
B節 ・・・ 実践理性
C節 ・・・ 事自体
D章 A節 ・・・ 人倫としての精神
B節 a項 ・・・ 自己疎外的精神としての教養
b項 ・・・ 啓蒙と絶対的自由
C節 a/b項 ・・・ 道徳的世界観
c項 ・・・ 良心
E章 A/B節 ・・・ 宗教(汎神論・芸術)
C節 ・・・ 宗教(キリスト教)
F章 ・・・ 絶対知
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