分析は全体から部分を抽出し、綜合は部分から全体を擁立する。しかし最初に現れるのは、所与の直接的客観の具体的全体だけである。部分はその抽象であり、主観が擁立する以前に存在しない。すなわち部分が現れるためには、主観による全体の擁立を要する。そしてこの主観が綜合した全体の他者が部分である。この綜合では、新たに綜合された全体が全体であり、逆に古い全体が部分として擁立される。それは全体としての自然を擁立する代わりに山を部分として擁立し、その山を擁立する代わりに木を部分として擁立し、その木を擁立する代わりに葉を部分として擁立する下向の感性的綜合である。そしてこの分析の末端には、抽象的主観としての物自体が現れる。それゆえにこの感性的綜合は、綜合と区別されて分析として現れた。綜合はこの分析の過程と逆の上向の悟性的綜合である。それは分析に現れた部分を統合して木や山や自然を定義する。この定義が類としての普遍である。そして主観はこの定義に対して再び分析の下向を加える。これにより分析で現れた目的と直接的客観の一致の真は、定義と定理の一致の真に転化する。
[第三巻概念論第三編「理念」第二章「認識」A「真」b「綜合」の概要]
部分分析の全体綜合が類として擁立され、定義と定理の対立に至る論述部位
‐綜合 …分析を客観の制約のもとで統一した現象認識
・定義 …個別の具体的対象から余計な実存を取り除いて実在化した概念の形式的限定。
類として現れた普遍原理。
・分類 …定義の対自に現れる普遍と区別された個別の特殊な綜合。
‐定義に対する分類の普遍的優位
・定義 …複雑な対象の自然認識(個別分析→普遍綜合)
・分類 …単純な対象の論理認識(普遍分析→特殊綜合)
‐自然分類 …偶然な自然における生命の内在的普遍が外化した必然分類
・定理 …定義と分類との一致に論証が必要な個別の対自限定。
‐公理 …論証を他学に任せて不要にした定理
‐第二定義 …定理の部分限定の全体相関として現れる体系的概念
‐証明 …個別と普遍、または定理と概念を一致させる主観的目的の推論。
・形式的証明 …肯定的同一により個別と普遍、定理と概念を一致させる感性的証明。
・独断と懐疑 …個別と普遍の同一に対する経験的独断、およびその独断的否定。
・自由な必然 …形式的必然が持つ独断の否定。静態にある必然を廃棄した自由な主観。
‐実践理念 …理論理念にすぎない認識に対する主観の行為。個別に外化した主観。
個別と普遍、自己と自己自身を統一させる概念の即自対自態としての善。
6)綜合の有限性
分析は存在者の直接的把握として推論の小前提を成す。すなわちその小前提は「Aを分析するとB」である。これに対して綜合は存在者の概念的把握として推論の大前提を成す。すなわちその大前提は「Bを綜合するとC」である。これにより結論は「AはC」となる。分析において無関心に相関していた差異は、綜合において一括りに概念として結合される。ただしその概念は単なる直接的統一であり、まだ対自的に自立する主観的概念ではない。すなわちそれは不特定の共通項において同一な異なる諸経験の単なる統一に留まる。とりあえずその概念が内包する諸形式は、概念の特殊形態である。そして概念が内包する諸客観は、概念の個別形態である。しかしそれは、概念があらかじめ統一した経験的所与であるか、擁立された概念に偶然に一致する経験的所与にすぎない。このような綜合は、さしあたり現象を根拠とした現象認識に留まる。したがってここでも客観の制約は、認識の有限性になっている。
6a)定義Definition
定義Definitionは、個別の具体的対象から余計な実存を取り除いて実在化した概念である。まず定義において直接的客観の主観的表象は、定義の対象となる個別である。これに対して定義はその客観的概念であり、類として現れる普遍的原理である。そしてこの普遍的原理に対し、対象に即応する普遍ではない原理が特殊として現れる。ただしそのような個別の実在に属する具体的内容は、定義ではなく記述Beshreibungにすぎない。個別自体は概念に無関心な直接的客観である。しかしこの特殊と普遍は個別の中に一体で擁立されている。さしあたり定義は次の二点で主観に留まる。
・定義を根拠づける主観的表象
・定義における実存の恣意的取捨選択
ただしこの後者の取捨選択は、次の三点を要請される。
・定義自身の目的による制約
・定義対象の幾何的整合による制約
・対象の各特性の類と特殊への区別
上記最後の各特性の類と特殊の区別は、さらに特性間の相関と分離すべき連関の無い要素の見極めを要する。さしあたりの定義が根拠にするのは、対象の限定存在だけである。そこに現れる多者の共通特性または持続的特性は、やはり経験的普遍の枠内にある。ところが対象の本質限定を可能にするのは、結局この演繹だけである。この制約は往々にして、対象の第三者的特徴Merkmalにすぎない直接的特性を、対象の本質限定と誤認させる。そのためにこの演繹に対してさらに、対象の具体的性状を観念の単純な抽象的要素に還元する分析が要請される。この要請が分析に対して与えるのは、次の二点を示す必要である。
・自らの分析が具体的対象を限定する特性の保存と統一であること
・この分析自らも観念の単純な抽象的要素を根拠にすること
6b)概念と現実の乖離
定義の概念的純化がもたらすのは、概念自身と現実の間の乖離と区別である。それが表現するのは、現実の概念離れであり、概念の現実離れである。当然ながらそれは定義にとって、自ら根拠にした直接的限定存在からの乖離となる。それは定義を無根拠にし、概念の形式的限定へと引き下げる。ただしこのことは、定義が直接的限定存在を根拠にした結果にすぎない。なぜならもともと直接的限定存在は、必然と無関係な証明不要の偶然だからである。定義が自らを即自的偶然の叙述に留める以上、それはそのまま定義に対自的必然の叙述を断念させる。それだからこそ定義は、概念の形式的限定に押し留まらざるを得ない。一方で根拠の即自的偶然がもたらす定義の無根拠は、定義の根拠を媒介に移す。それは即自的偶然を限定する他者であり、定義に対立することで自らを現す別の定義である。ただしそれは自らが定義として現れる悪無限を避けるのであれば、普遍としての定義に対して自らをその特殊として表わさざるを得ない。その特殊な定義は、定義を根拠づけた個別の対自態であり、分類である。
7)分類
具体としての個別に対し、普遍はその抽象として現れる。さしあたりその差異を事物と観念の差異として捉えるなら、個別は外化した普遍であり、普遍は個別の表象である。ただし普遍は個別を前提し、その前提が含む区別に対して擁立された同一である。しかしそのように個別を普遍に推移した後から言えば、個別はそれ自身一つの普遍である。すなわち抽象的観念の普遍に対し、個別は具体的事物の普遍である。そしてそのように個別から普遍に推移した綜合認識が、先に現れた定義である。
これと同様に、より無限定な抽象としての普遍に対し、特殊はより限定された具体として現れる。ただし特殊は普遍を前提し、その前提が含む同一に対して擁立された区別である。しかしそのように普遍を特殊に推移した後から言えば、普遍はそれ自身一つの特殊である。すなわちより少数で単発な特殊の抽象に対し、より多数で持続した特殊な抽象が普遍である。そのように普遍から特殊に推移した綜合認識は、分類として現れる。
7a)自然認識と論理認識
定義は、既知の特殊を未知の普遍に綜合する。これに対して分類は、既知の普遍を未知の特殊に綜合する。綜合が既知の未知体系への結合なら、綜合に該当するのは定義よりむしろ分類である。同様に体系と体系的認識を基礎づけるのも、定義ではなく分類である。このことは自然認識と論理認識にも該当する。自然認識は、既知の複雑な要素分析により未知の単純な要素を擁立する。論理認識は、既知の単純な要素綜合により未知の複雑な要素を擁立する。自然認識が分析であるのに対し、論理認識は綜合として現れる。しかし始まりの認識には、対象の単純性が要求される。そして諸学の認識と学習も、単純な対象から始められる。これと同じ事情は、実験における対象と条件の単純化要請としても現れる。これらの必要が示すのは、自然認識に対する論理認識の普遍性であり、具体認識に対する普遍認識の優位である。ちなみに色が主観に属すのか、主観と客観の中間に属すのか、客観に属すのかの問題も、作用因として主観と客観を除外するなら、色は主観と客観の両者に対して無関心な中間層に属すべきである。当然ながらこれと同様の要請は、色だけでなく熱や音などの全ての特性に対しても行われる。もちろんこの要請が帰結するのは、時間と空間の二次元に留まらない複次元で構成された具体的対象の概念把握である。
7b)偶然な分類
特殊は普遍を前提し、その前提が含む同一に対して区別される。しかしさしあたり特殊が自らの区別の根拠にするのは、対象の限定存在だけである。そしてその対象の限定存在は、概念に無関心な直接的客観にすぎない。このことは普遍に対する特殊の区別を、概念に無関心な差異に転じる。ところがそのような差異は種の区別に無関係であり、原理的同一の欠けた反対対立に留まる。しかし種を区別するのは、原理的同一のある矛盾対立である。そしてそのような種の上位に選言が類を擁立する。それゆえにその反対対立にすぎない差異に対して原理的同一を見出すなら、選言は種の上位に最初の類と異なる類を擁立することになる。このような概念に無関心な普遍と特殊の区別、または類と種の区別は、分類一般を恣意的偶然な区別に変える。ただしその恣意的偶然に見える区別でも、あらかじめ理性の本能が概念に適合させている場合もある。それは歯や爪による動物分類、または花弁などの生殖部位による植物分類などが該当する。往々にしてその偶然は、動植物の外面に現れた第三者的特徴と中心的生命活動との原理的同一がもたらした必然である。
8)定理
定義は対象の単一限定であり、分類は他の諸限定に対する対象の相関限定である。このような定義と分類の綜合は、そのような外面的客観の取り込みに留まる。したがってその内容も、そのような外面的客観を指摘するだけに留まる。一方で普遍の前提として現れた個別は、定義と分類を媒介にして自己と対自し、自己の諸限定と相関する。この個別における対自限定と諸限定との相関は、定義や分類と区別される定理である。そして区別される限り、まだ定理は定義や分類と一致していない。定理が限定するのは、概念ではなく実在である。したがって定理において概念は実在に推移する。この推移は概念と実在の統一であり、理念の発現である。ところが定理が定義や分類と一致しないのなら、その実在への推移は概念と実在の統一でもなければ、理念の発現でもない。それゆえに定理は、自らと定義や分類の一致を論証する必要を持つ。
8a)公理
定義は直接的客観を直接的根拠にした対象の即自限定であり、定理は直接的客観を媒介的根拠にした対象の対自限定である。もっと単純に両者を区別するなら、定義は恣意的主観であり、定理はその対自客観である。一方で対象が持つ諸限定は、それぞれ定義と定理に分別されるべきである。ところが定義にしても、自らを対象の即自限定とするために主観が媒介した客観である。この事情は定義を定理にし、やはり定義と定理の区別を消失させる。これに対してユークリッド幾何学は、平行線の定理から他の幾何学的諸定理を証明し、平行線の定理を公理として証明不要にした。ところが平行線の公理は、平行線の概念から導出される。そして平行線の概念は、幾何学の外部から導入される。したがって公理は他の諸定理に優先されて証明を要するにせよ、やはり定理にすぎない。このような定理と概念の差異は、定理の限定が部分的であるのに対し、概念の限定がその全体であることに従う。すなわち定理が実在諸限定の不完全な相関限定であるのに対し、概念は実在の完全な全内容の関係限定である。そしてこのような概念の命題は、そのまま定義である。ただしこの定義の概念は、直接的客観を根拠にした直接的概念ではなく、自らの実在的区別を展開した全体相関として現れる。この実在相関は、最初の定義と区別されて実在する第二定義である。
8b)第二定義
ユークリッド幾何学は、最初に感性的所与を近縁の類と種差により定義し、定義が含む直接的諸限定により定理を限定、そして一方の定理から他方の定理を限定する。それは感性的な三角形の分析とその綜合による三角形の定義の擁立であり、それに基づく合同と相似の定理と証明である。そしてこれらの限定の後に定理の相関限定が現れる。直角三角形の各辺の相関がピタゴラスの定理に示されると、各辺の相関が方程式として初めて現れる。さらにユークリッドは、これを原理として直角三角形以外の各辺の相関限定、自己同等な正方形と自己不等な長方形の相関限定などに進展する。これらの綜合命題の進展では、普遍限定が個別の統一した実在相関に遷移する。ただし他の学問における普遍の個別具体化は、既存の素材に普遍を適用するだけに留まる。このような事情が、個別における実在相関に対して、定義の普遍限定との一致証明を促す。しかし個別の実在は相互に無関心に存立する。それゆえにそれらは第二定義の相関を持つにせよ、その相関も定義の普遍限定における直接的統一と異なったものとなる。
8c)証明
個別における実在相関と定義の普遍限定、または定理と概念が異なる以上、両者を一致させるのは綜合である。この綜合は両者の一致の推論であり、その証明である。ここでの推論と証明が一体となって擁立するのは、個別における実在相関と定義の普遍限定の一致である。言い換えればそれらが証明するのは、個別の普遍に対する資格であり、定理の概念に対する資格である。例えばその証明は、具体的な椅子に対して椅子の概念との一致を問う。そしてそれは、具体的な椅子に対して椅子としての資格を問うことである。この場合に両者の一致または不一致は、具体的な椅子の試用が実現する。ちなみに推論は証明の前提として擁立されるだけであり、実際に推論が証明に先行すると限らない。たまたま試行したら、それが証明になるだけである。この場合だと推論は後から擁立される。したがって両者の中間辞は、個別と普遍の双方に対して第三者となる媒介である。ただしそれは両者の他者でありながら両者の双方でもある。それは個別にとって普遍な特殊であり、普遍にとって個別な特殊である。ここでの証明は個別と普遍から遊離した偶然な恣意であり、主観的目的として現れる。
8ca)形式的証明
推論にしても証明にしても、個別と普遍の内面的統一を両者の外面から擁立するだけである。しかも証明における個別と普遍の統一は、両者の肯定的同一に基づく。したがってその推論は形式的である。それは定義と分類が対象の指摘に留まるのと同じである。幾何学の場合、定理と概念の一致証明は作図が行う。しかし作図による定理と概念の一致証明は没概念である。つまりその証明に脳味噌は要らない。それは石で殴って石の実在を証明する感性の証明である。逆に幾何学は、むしろ具体的な石に殴られることで自らの石の抽象性に突き当たる。幾何学は量的同等と通約可能により成立するので、質的不等と通約不能に対応していない。その限界に現れるのは、個別と普遍の肯定的同一ではなく、両者の否定的同一である。そこで自らの石の抽象性に突き当たった幾何学は、質的不等の同等化と通約に進む。しかしその対処がもっぱら進む手法は、反省規定の先行擁立である。その手法では、後で個別が証明する反省規定が先に擁立される。その同語反復は、例えば稲妻を電気として擁立し、それから稲妻を電気として説明する物理学に現れる。ただしそれは経験の是認であり、また用意された経験への言い訳である。しかしこのような経験への従属は、むしろ理論の根底を隠蔽する。その経験論は、一方で経験への疑問を無視する独断論に進み、他方で経験への疑問に閉じ籠る懐疑論に進む。
8cb)独断と懐疑の廃棄
形式的証明の独断論は、ドイツにおいてライブニッツ=ヴォルフの分析的宿命論に結実する。そしてこの独断論に対抗する懐疑論は、カント不可知論と二律背反の弁証論として現れた。しかしカント不可知論は主観の限界を是認し、その是認の主観に疑いを持たない。ここでの主観は必然に縛られる。カントの場合、この必然の枠から出られない自由が対極の不可知論を必然にする。一方でカントと違い、ヤコービの疑念は主観が限界を持つことに向かう。そしてその疑念が主観を必然の呪縛から解放する。他方で形式的証明を根拠づけるのは、この主観に対する必然の呪縛である。したがって主観をその呪縛から解放すれば、哲学は概念に対する形式的証明も否定する。この必然からの解放がもたらすのは、自由な主観と自由な概念である。
9)実践理念
綜合は概念を同一と実在、普遍と特殊、さらに相関と依存の両面から捉える。ただしその理論理念は、抽象的に捉えられた単なる必然である。したがってそれはまだ自己限定する自由な実在ではない。言い換えればそれは、自己を実在する自己自身と統一する概念の即自対自態ではない。理念の自己認識はこのような抽象的自己把握ではないし、その認識の証明も概念が概念自身と成ることで果たされる。それゆえに概念の内的必然は、対自を通じて自由な概念の実存へと推移する。その概念の即自対自態は、主観としての概念が外化した個別である。それは実践理念であり、主観の行為である。ただしさしあたりその理念の即自態は主観に留まる。それは自己自身により自己を客観として実現する衝動である。そしてその概念の対自態は目的である。それは主観が自己として実現すべき自己自身である。それゆえに理論理念が普遍として客観的現実と対立したのに対し、実践理念は個別の実存として客観的現実と対立する。しかし所与の直接的限定である客観的世界に概念の統一は無い。それゆえにこの理念と現実の対立は、客観的世界を空虚な非現実に変え、主観の普遍限定を現実的客観に転じさせる。このような実践理念が含む主観の普遍限定が善である。
(2022/03/08) 続く⇒(ヘーゲル大論理学 第三巻概念論 第三篇 第二章 B) 前の記事⇒(ヘーゲル大論理学 第三巻概念論 第三篇 第二章 Aa)
ヘーゲル大論理学 概念論 解題
1.存在論・本質論・概念論の各章の対応
(1)第一章 即自的質
(2)第二章 対自的量
(3)第三章 復帰した質
2.民主主義の哲学的規定
(1)独断と対話
(2)カント不可知論と弁証法
3.独断と媒介
(1)媒介的真の弁証法
(2)目的論的価値
(3)ヘーゲル的真の瓦解
(4)唯物論の反撃
(5)自由の生成
ヘーゲル大論理学 概念論 要約 ・・・ 概念論の論理展開全体 第一篇 主観性 第二篇 客観性 第三篇 理念
冒頭部位 前半 ・・・ 本質論第三篇の概括
後半 ・・・ 概念論の必然性
1編 主観性 1章A・B ・・・ 普遍概念・特殊概念
B注・C・・・ 特殊概念注釈・具体
2章A ・・・ 限定存在の判断
B ・・・ 反省の判断
C ・・・ 無条件判断
D ・・・ 概念の判断
3章A ・・・ 限定存在の推論
B ・・・ 反省の推論
C ・・・ 必然の推論
2編 客観性 1章 ・・・ 機械観
2章 ・・・ 化合観
3章 ・・・ 目的観
3編 理念 1章 ・・・ 生命
2章Aa ・・・ 分析
2章Ab ・・・ 綜合
2章B ・・・ 善
3章 ・・・ 絶対理念
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます