対自態となった定義には即自態が欠けている。そしてこのことは定義と直接的客観の静態的一致を、目的と直接的客観の一致の真から乖離させる。それゆえに次に要請されるのは、目的と直接的客観の動態的一致である。このときに実現していない目的と直接的客観の動態的一致は、主観の中で善として現れる。この善の即自態は、さしあたり衝動にすぎない。しかしその対自は推論された善として現れ、推論の結論は善を実践として外化させる。実践が目的の善を実現しないのであれば、その実践にはまだ真の理論が欠けている。しかし実践が目的の善を実現するなら、善は直接的客観を廃棄し、自らを客観的現実として実存する。この即自態を得て実存する善が絶対理念である。
[第三巻概念論第三編「理念」第二章「認識」B「善」の概要]
主観的定義と客観的定理の対立とその交替過程の論述部位
・善 …即自を伴わずに対自に実存する普遍認識。
・衝動 …自己限定の目的実現のために客観的諸限定を廃棄する善の即自態
・当為(~すべき)…目的と異なる虚無的客観の制約がもたらす目的未達の実践理念。
・理論理念 …実践理念の非現実を補足する認識。
・衝動の対自態 …善の推論「目的が客観的現実。外的現実は非現実。外的現実は廃棄されて目的の客観的現実に替わる。」
・実践の全体 …目的実現による外的現実の廃棄と目的自身の消失。
・絶対理念 …個別主観な善を実践が外化したことによる外的現実の客観的現実としての実存。
1)善
善は概念の全体であり、客観的で自由な主観である。それゆえに認識が普遍としての尊厳を持つのに対し、善はさらに現実として尊厳を持つ。このような善の尊厳は絶対的である。しかしまだ目的の対自態として擁立されない善の即自態は、衝動にすぎない。またそれは自己を客観として実現する衝動でもない。その衝動が目指すのは、自己自身の諸限定としての擁立、および客観的世界の諸限定の廃棄である。そしてその廃棄を通じて主観は、擁立した自己自身の諸限定を実在化する。一方でこの衝動は、意志の自己限定を内容とする個別である。そして個別は他者を排除するとともに他者の前提である。しかしこの衝動の自己限定は、他者の廃棄を通じて自己を実現する。したがって衝動は限定する無限定者であり、個別の特殊である。そしてこのような衝動の対自が、その限定内容を目的として擁立する。ただし目的が表現するのは、実践理念の未実現である。それは概念がまだ即自を伴わない対自態にあるのを現す。とは言えその目的は、即自対自に妥当する。したがって善は既に真である。
2)当為(~すべき)
実践理念の推論は、個別と普遍の内面的統一を両者の外面的合目的性から擁立した形式的推論である。その内容は、限定を廃棄する無限定な自己実現の真である。一方で形式的推論に対して内容を限定すると、その形式的証明は即自対自な善にならない。それは手段を実現するだけで、目的を実現しない。例えばそれは「椅子の妥当な高さはAcm」と推論するに留まる。これと同様に実践理念の推論が内容を限定されるなら、その実現は手段を実現するだけで、目的を実現しない。先の例えで言えばそれは、椅子の高さが座り良さを実現しない。そして善が客観的世界を前提して制約される以上、善の自己実現はもっぱら推論された当為(~すべき)に留まる。ここで善の自己実現を阻むのは、実践理念の非現実である。実践理念にとって、直接的客観の外的現実は虚無である。そしてその虚無を充実するのは、善の実現である。しかし善が実現しないなら、実践理念も非現実に留まる。ここに起きているのは、実践理念の非現実が善の実現を阻む堂々巡りである。この実践理念の対自が見出すのは、自らの相変わらぬ衝動の即自態であり、対自の欠落である。この対自の欠落は、実践理念における理論理念の欠落であり、直観に留まるだけの自己認識である。このことは、実践理念における現実の欠落が、外化した限定の欠落であるのを示す。それゆえに善の理念は、その欠落を真の理念により補足する。
3)実践の全体像
「目的は客観的現実である。しかし客観的現実は外的現実ではない。ゆえに目的は外的現実を廃棄し、自ら客観的現実に替わる」。衝動が含む行為の推論の小前提では、目的は客観的現実として現実を支配する。ただし客観的現実は手段に過ぎないので、目的としての自己を否定する。次に大前提では、小前提の客観的現実が外的現実と区別される。この区別が対立なら、外的現実は善に対立する悪である。そうでなくても外的現実は直接的限定存在であり、主観の即自対自的客観ではない。それは主観に無関心な客観にすぎない。とりあえずこの外的現実は非現実として否定される。そして推論の結論は、二つの否定を綜合する。それが現す二つの現実の入れ替えは、目的の自己実現である。それは二重否定による目的の自己還帰である。そうでないとすれば、目的は客観的現実で無かったか、または客観的現実が外的現実にすぎなかったかである。しかしそれは目的の自己忘却である。衝動を生命の意志に引き戻し、それを食欲として表わす場合、客観的現実は食欲であり、目前の食物は外的現実である。この食物自体は食欲ではない。すなわち食物は食欲を否定する。食物は食欲実現の手段にすぎない。一方で食物は食欲と無関係な外的現実ではない。それゆえに食欲は食物を廃棄して入れ替わる。この交換は食欲の自己実現であり、かつ自己廃棄である。この例えは、食欲の実現を善の実現に変えても有効である。したがって実現における食欲の消失は、善の場合にも該当する。その概念を限定するのは、外的現実よりも、概念が擁する考え方である。
4)絶対理念
行為の推論の大前提は、客観的現実と外的現実の不一致である。その不一致は客観的現実の個別性と主観性を際立たせる。それゆえに行為は、一方で小前提における目的の客観性を声高に繰り返す。しかしその活動性は、客観的現実と外的現実の一致に向かう。なぜなら外的現実の虚無は、客観的現実との入れ替えにより除去される。そしてその入れ替わった外的現実は、即自対自的存在として擁立されるからである。この外的現実の擁立は、内容を限定された善の目的が持つ個別性と主観性を廃棄する。それは認識の中にだけあった客観的現実の外化であり、認識が完遂した真の客観である。これにより主観は個別性を廃棄して客観となり、自由な自己同一に至る。ここでの認識は実践理念と一体しており、擁立された外的現実も充実した客観的現実として実存する。このような客観的世界は絶対理念である。
(2022/03/12) 続く⇒(ヘーゲル大論理学 第三巻概念論 第三篇 第三章) 前の記事⇒(ヘーゲル大論理学 第三巻概念論 第三篇 第二章 Ab)
ヘーゲル大論理学 概念論 解題
1.存在論・本質論・概念論の各章の対応
(1)第一章 即自的質
(2)第二章 対自的量
(3)第三章 復帰した質
2.民主主義の哲学的規定
(1)独断と対話
(2)カント不可知論と弁証法
3.独断と媒介
(1)媒介的真の弁証法
(2)目的論的価値
(3)ヘーゲル的真の瓦解
(4)唯物論の反撃
(5)自由の生成
ヘーゲル大論理学 概念論 要約 ・・・ 概念論の論理展開全体 第一篇 主観性 第二篇 客観性 第三篇 理念
冒頭部位 前半 ・・・ 本質論第三篇の概括
後半 ・・・ 概念論の必然性
1編 主観性 1章A・B ・・・ 普遍概念・特殊概念
B注・C・・・ 特殊概念注釈・具体
2章A ・・・ 限定存在の判断
B ・・・ 反省の判断
C ・・・ 無条件判断
D ・・・ 概念の判断
3章A ・・・ 限定存在の推論
B ・・・ 反省の推論
C ・・・ 必然の推論
2編 客観性 1章 ・・・ 機械観
2章 ・・・ 化合観
3章 ・・・ 目的観
3編 理念 1章 ・・・ 生命
2章Aa ・・・ 分析
2章Ab ・・・ 綜合
2章B ・・・ 善
3章 ・・・ 絶対理念
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