唯物論者

唯物論の再構築

剰余価値理論と生産価格論(4)

2021-06-30 23:06:12 | 資本論の見直し


6)生産価格論固有の諸問題

 上記までに片づけた問題は、旧来の労働価値論と剰余価値理論の不整合、それに付随して現れる二つの商品価格構成と利潤の区分、さらにその商品価格構成の生産価格論式転形の根拠、生産価格論式差額略取と重商主義的差額略取の差異、必要利潤の下限値についてであった。しかしこれらは実際には生産価格論固有の問題ではない。これらは旧来の労働価値論と剰余価値理論の不整合において語られるべき事柄である。またその不整合は、内実として不整合でもない。旧来の労働価値論と剰余価値理論はともに労働価値論であり、単に旧来の労働価値論が、資本家利益をいかなるものかと説明しないだけである。生産価格論の理解における混乱の多くは、これらの生産価格論に固有ではない諸問題と固定費を絡めた生産価格論を一度に論じたことからもたらされている。


6a)生産価格論における固定費

 マルクスは資本論冒頭の商品価値論で、商品価値を商品生産に要する労働力量と示し、資本家利益を商品価値の外部で生まれるものとする剰余価値理論で、商品価値の内部から資本家利益を排除してそれを生産物残余部分として外化した。これに対して資本論第三巻の生産価格論では、商品単価を商品一単位あたりの労賃と固定費および利益の合計額として示す。したがって商品2個を1労働日で生産し、そのうち1個を労賃として労働者に支払う場合、剰余価値理論と生産価格論の表現上の差異は、下図のようになる。すなわち第一に、生産に要する労賃部分と生産物残余部分が、剰余価値理論では商品1と商品2のそれぞれ分離して現れるのに対し、生産価格論では商品1と商品2の中にそれぞれ内包されて現れる。そして第二に、生産に要する固定費部分が、剰余価値理論ではそもそも登場しないのに対し、生産価格論では労賃と利潤と同様に商品1と商品2の中にそれぞれ内包されて現れる。

[剰余価値理論(a)]
 商品1  労賃                    .
 商品2  利潤                    

[生産価格論(a)]
 商品1  労賃部分 | 固定費     | 利潤部分 .
 商品2  労賃部分 | 固定費     | 利潤部分 

剰余価値理論であろうと生産価格論であろうと、上記の商品価格は同一でなければいけない。しかし商品1と商品2に分かれて現れる労賃と利潤をそれぞれ合算しても、固定費部分があると、労賃と利潤の両方またはどちらか一方は、剰余価値理論と生産価格理論の間で不一致になってしまう。それゆえに生産価格論の理解では、もっぱら固定費をさらに労賃と利潤に分解して下図にように捉える。

[生産価格論(b)]
             労賃部分|利潤部分
           ↓         ↓
 商品1  労賃部分 | 固定費     | 利潤部分 

             労賃部分|利潤部分
           ↓         ↓
 商品2  労賃部分 | 固定費     | 利潤部分 

固定費を労賃と利潤に還元した上記の生産価格論(b)図では、商品1と商品2に分かれて現れる労賃と利潤をそれぞれ合算してそれぞれを商品1と商品2に分離し直すと、先の3b)で示した剰余価値理論の図と一緒の姿になる。ただしこの解決には次に述べるアダム・スミス式労働価値論の問題がある。


6b)アダム・スミス式労働価値論

 上述要領で剰余価値理論と生産価格論の齟齬はある程度埋まることは埋まるのだが、一方で上記の剰余価値理論(a)と生産価格論(b)のそれぞれで占める労賃の比は全く異なる。剰余価値理論の商品1での労賃は商品1の100%であり、生産価格論の商品1での労賃は商品1の50%である。同様に剰余価値理論の商品2での労賃は商品2の0%であり、生産価格論の商品2での労賃は商品2の50%である。生産価格論式に商品に占める労賃部分が少なければ、商品価格は現在の設定価格の50%~100%のどこに位置しても資本家的利益を捻出できる。ただしその利益捻出が成立する条件は、生産した2商品の完売である。生産した2商品のうち1個だけ売れても資本家的利益は実現しない。とりあえず生産した商品の完売を前提にすれば、このことはバヴェルクの批判が成立することを示している。とは言えバヴェルクの批判は、価格設定の不定を述べるだけであり、その前提には労働価値論と剰余価値理論がある。したがってその批判は、価格決定者を市場に限定することにより、労賃を含めて全ての価格決定を不定にするだけの経済学的不可知論に留まる。またこの不整合は、剰余価値理論と生産価格論の齟齬ではなく、むしろ旧来の労働価値論と剰余価値理論と齟齬である。このことについては前出の3)で既に述べたとおりである。一方で上記要領で固定費に絡む剰余価値理論と生産価格論の齟齬を埋めるのは、固定費の全てを労働に還元するアダム・スミス式の労働価値論である。そしてマルクスにとってこのアダム・スミス式労働価値論は、自らが批判する対象理論の一つである。それゆえに上記要領の解決は、マルクスの納得する解決ではない。この解決に対してマルクスが抱えるであろう不満は、固定費を分解して抽出された隠匿利潤が、上記商品の生産に関与する資本家の利潤ではないことである。またそもそも固定費に対応する物資が資本主義的商品である必要も無い。固定費の生産者が小資本家であるなら、その物資は交換価値の通りに上記商品に組み込まれており、その固定費に資本家的利益は含まれない。この場合だと、そもそも資本家の隠匿利潤も存在しない。固定費から資本家的利益が捻出されないなら、やはり剰余価値理論と生産価格理論の間の労賃と利潤の不一致は埋まらない。このような剰余価値理論と生産価格論の齟齬は、剰余価値理論における固定費不在に対するマルクスの説明の欠如に全て起因する。それゆえに剰余価値理論と生産価格論の齟齬は、そのまま資本論第三巻の完成まで生き延びることができなかったマルクスの生産価格論に対する一種の消化不良と理解されるべきである。


6c)生産価格論の前提としての剰余価値理論ではなく、剰余価値理論の前提としての生産価格論

 既に述べたように生産価格論の外見は、商業利潤の説明において俗流経済学で剰余価値理論以前から成立している差額利潤論と同じである。要するにそれは商品価格を経費より高く設定して、売却で利益を客から差額略取する経験的理屈を超えない。当然ながらマルクスも価値論の考察を、生産価格論から始めている。しかしこの経験的仮象は、商品の等価交換の原理に反する。それだからこそマルクスは利潤発生の理屈を説明するために、リカードに倣い剰余価値理論を提示した。この剰余価値理論の説明に当たり邪魔なのが固定費である。部品や道具などの生産手段と消耗材は、等価交換の原理に従えば、生産商品にそれらを組み込んで売却するときに交換価値として変化しない。そのようなものから利潤を抽出するのは無理である。仮にそれら固定財を購入して加工することなしに売却したとしても、その間に購入商品と売却商品に使用価値の価値的な差異は無い。どちらかと言えばむしろその商品は、経年劣化しているかもしれない。ところがそれにもかかわらず、実際にその右から左に動かすだけかのような商業取引に利潤が生ずるのは可能である。その判りやすそうな例を挙げれば、利潤発生の背景に購入供給路の暴力的独占がある場合が考えられよう。もちろんそのような意図的な暴力的独占が無くても、商品を販売者が所有している以上、購入者にとって商品はあたかも独占されているように現れる。その場合に購入者は、商品価格に元値を超える販売者の商品所有の対価を上乗せして商品を購入する。この場合に購入者が元値に上乗せして販売者に支払う部分は、販売者が商品を購入して所有していることへの対価である。そこでの販売者による商品保有行動は、何も商品に加工を加えていない。ところがこの商品交換においてそれは、その商品に対する投下労働として現れている。その商品保有行動が如実に商品に対する投下労働として現れるのは、販売者が店舗を構え商品を陳列する場合である。このときの販売者の行動は、既に職業的商人の立ち振る舞いである。そして販売者がそのような投下労働で生計を立てる場合、彼は小資本家となる。そして労働者を販売員として雇い、不労所得で生活を始めるなら、彼は生粋の資本家となる。


6d)生産価格論からの固定費の除外

 生産価格論から資本家的利益の起源を抽出しようとするなら、さしあたり固定費を除外すべきである。部品や道具などの生産手段と消耗材は購入され、商品売却にあたりその購入費を価格に上乗せされる。すなわち生産において商品に組み込まれる時も、売却において商品と一緒に出てゆく時も、生産者にとってその交換価値は変わらない。当然ながらそのような固定費から資本家的利益は生まれない。そもそも原初の商業は身体一つで拾ってきた自然物で店を持たずに商売をする。そのような商業に固定費はもともと無い。そうであるならオッカムの剃刀式に固定費を除外すれば、資本家的利益の起源も明らかになるはずである。さしあたり固定費を除外して生産価格論(a)を書き直すと、次のようになる。

[生産価格論(c)]
 商品1  労賃部分 | 利潤部分 .
 商品2  労賃部分 | 利潤部分 

先の生産価格論(a)が想定した商品生産と雇用の全体は、商品2個を1労働日で生産し、そのうち1個を労賃として労働者に支払うものであった。したがって上記商品は二つとも一人の労働者が作ったものであり、その商品の各半分が生産価格論式の労賃に該当する。そして商品の各残り半分が生産価格論式の利潤に該当する。それゆえにこのように各商品の部分として労賃と利潤を説明することでも、資本家的利益の起源はさしあたり明らかになる。すなわち資本家は、総額で二労賃分の商品を生産したうちの一労賃分を労働者に渡し、残りを資本家的利益として取得する。ただし商品価格を示そうとするなら、やはり労賃と利潤をまとめて次のように表現すべきである。その理由は、第一にこの商品の固定費を除外した商品単価が1労賃であるのを示せることにあり、第二にその商品交換が投下労働力の等価交換であるのを示せることにある。もちろんこの商品における価値構成は、既に剰余価値理論になっている。

[剰余価値理論(c)]
 商品1  労賃          .
 商品2  利潤          

ちなみに上記例は商品2個を1労働日で生産し、そのうち1個を労賃として労働者に支払う想定であるが、これが商品n個を1労働日で生産し、そのうちm個を労賃として労働者に支払う想定に変えても、次のような商品n個の図柄に代わるだけである。いずれにおいても図が示す剰余価値搾取の構図は変わらない。もし労働者が労賃を商品の現物支給で受け取るなら、労働者は自らの労賃として商品m個を受け取る。この商品の固定費を除外した商品単価は、(労賃+利潤)/nである。この場合に商品単価は直接に労賃と等しく現れない。それは実際の商品単価が、商品m個を一単位とするからである。あるいは労働者は商品m個を自らの労賃としており、商品1個の再生産に必要なのは彼にとって労賃の1/mだからである。

[生産価格論(d)]
 商品1    労賃のm/n | 利潤部分の1/n   .
 商品2    労賃のm/n | 利潤部分の1/n   
  :         :
 商品n    労賃のm/n | 利潤部分の1/n   

[剰余価値理論(d)]
 商品1    労賃の1/m               ┐
  :         :                 ├ 商品m個      労賃                  
 商品m    労賃の1/m               ┘
.
 商品m+1  利潤の1/(n-m)           ┐
  :         :                 ├ 商品(n-m)個  利潤                  
 商品n    利潤の1/(n-m)           ┘


6e)剰余価値理論からもれた固定費の扱い

 上述要領の生産価格論からの固定費の除外は、資本家的利益の起源も明らかにするだけでなく、商品の固定費を除外した商品単価、および資本家の総利潤を明らかにする。もちろんその明らかにする姿は、剰余価値理論の原型である。ここでの商品の固定費を除外した商品単価、および資本家の総利潤の価値的度量衡はいずれも労賃であり、その労賃が表現するのは労働力の再生産に必要な最低限の生活物資の塊である。すなわちそれは、最低限存続可能な人間生活を表現する。したがって商品単価は、いかに市場の需給原理が働いてもこれより安値に動くことはできない。商品単価がそのような安値に落ち込む場合、労働者が存続不能な人間生活に追い込まれるか、資本家の利潤減少が起きる。いずれにおいても該当商品の生産に携わる労働者は生産現場から放逐され、生産資本も市場から撤退を始める。あるいは生産資本がすぐに市場から撤退しないとしても、資本家が自らの利潤減少に耐えるだけの何がしかの利潤水準の規範を必要とする。逆に商品単価が高値に動く場合、資本家の利潤増大が発生し、該当商品の生産に携わる労働者が生産現場に追加され、資本市場から他の生産資本の参入が始まる。ただしこれらの価格と資本家利潤の運動は、いずれも固定費を除外した商品価格と資本家利潤の動向である。そしていずれもマルクスが資本論第一巻で論じた剰余価値理論の枠内に留まった理屈にすぎない。現実の商品価格は、労賃と利潤のほかに固定費を含む。労賃と利潤だけで語られた商品価格論は、現実の商品価格論にならない。それは資本家利益の起源を明らかにする役割を果すにせよ、せいぜい固定費を除外した商品価格論に留まる。ただし資本論の第二巻以後の論理展開は、資本循環の分析と部門間の資本の収支分析へと推移し、生産価格論の登場へと進む。このことが示すのは、マルクス自身の商品価値論の価格論としての不足の自覚である。しかしその固定費の分析が進む先でマルクスが展開したのは、部門間の利潤率の水平化だけである。しかも資本論第二巻以後の収支分析でマルクスは、その剰余価値理論との整合を一切語っていない。エンゲルスは生産価格論をバヴェルクの批判への回答だと理解した。しかしそのようにひいき目に理解するためにも必要だったのは、アダム・スミス式労働価値論に対するマルクス自身による再考だったはずである。この再考なしにマルクスが剰余価値理論を元の差額略取の商品価格構成を復元したことで、生産価格論は商品価格と投下労働力量の不整合を顕在化させている。そしてこの不整合が、ゾンバルト/シュミット以後の資本論理解における商品価値と価格の乖離をもたらした。またこの再考は、総労働を総価格とし、総剰余価値を総利潤とする総計一致命題を説明するために避けて通れない生産価格論の一つの重要な課題でもある。


7)復元された固定費に関わる剰余価値理論の混乱

 上記6b)のアダム・スミス式労働価値論に対するマルクスの批判は、それがもたらす剰余価値搾取の商品価格構成の隠蔽に向けられている。その隠蔽に役立つのが、単体版の商品価格構成における固定費である。アダム・スミス式に固定費を投下労働力に分解すると、その商品価格構成には上記6a)の生産価格論(b)のように、固定費部分に相当する労賃部分が現れる。しかしこの労賃部分は、その固定費相当の不変資本を使用する生産資本にとって預かり知らない労働力である。当然ながらこの生産資本は、自ら預かり知らない労働力から剰余価値を搾取できないし、その固定費を通じて利潤を得ることもできない。この生産資本に可能なのは、自らが雇用して生産労働に従事させる労働者からの剰余価値搾取だけである。それゆえに商品価格構成における固定費部分に相当する労賃部分の混入は、剰余価値搾取の解明にあたって邪魔な要素であり、それ以上に差額略取の俗流経済学の利潤論を醸成する一つの根拠となる。とくに原材料を筆頭にする不変資本は、生産資本の生み出す利益の起源を、不変資本転売の差額略取へと誘導するからである。ちなみに資本系列における支配上位と支配下位の資本間取引では、この差額略取の勘違いも全くの無根拠ではない。しかし資本家利益の起源をまず明らかにするのであれば、さしあたりそれは無視されなければいけない。一方で剰余価値搾取の解明の上で邪魔な固定費も、商品価格論の上では重要な要素である。それゆえにマルクスも生産価格論において、自らの価格理論解明の出発点であった差額略取の商品価格構成に復帰せざるを得ない。ところが固定費部分の不変資本に投下された労働力量を、マルクスは生産価格論において労働力量として再展開しなかった。結果的にここに生まれたのが、先の資本主義的商品における二重に現れる必要労働力量に加えて、単一資本における投下労働力量と上位と下位の総資本における投下労働力量の複雑な交錯である。前者の二重性と後者の二重性は異なる事柄なのであるが、マルクスによる説明の手抜きがその混同を容易に引き起こすことになる。そしてバヴェルクは両者の二重性を一緒くたにして、投下労働力と価格の不整合を訴え、他方でそれに応えられないマルクス経済学者が価値と価格の分離を訴える価格理論の混乱が生じることになる。

(2021/06/26) 続く⇒剰余価値理論と生産価格論(5) 前の記事⇒剰余価値理論と生産価格論(3)


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