唯物論者

唯物論の再構築

矛盾の止揚(2)

2014-02-16 11:27:18 | 弁証法

 自らと対峙する存在は、自らを存在と区別する。自らを存在と区別する以上、区別された自らは存在ではない。存在ではないものとは、非存在であり、無である。このように存在と無の二者が区別されるなら、既にそこには量や質、関係などの先験的カテゴリーも生成している。逆に言えば、少なくとも存在と無の二者の区別という経験が無ければ、量や質、関係などの先験的カテゴリーも存在できない。区別とは、二者の間の量ないし質の差異であり、端的に言えば相対する他者の否定である。そしてその否定が、二者の間の関係を表現している。しかし先験としての関係が、経験としての区別に規定されると言うのは、矛盾である。したがって経験としての区別は、最初から先験としての関係でなければならない。このようにもともと単なる経験だったものが、先験的カテゴリーへと昇格するのは、経験の他律性にある。すなわち経験は、経験以前の存在によって規定されなければならない。区別は経験でありながら、経験以前に既に存在者の諸関係として存在する。現実世界とは、この経験的な先験性という矛盾の止揚形態なのである。もちろん唯物論から見るとこのことは、経験以前の現実世界の意識反映の推移を逆さまに見た姿にすぎない。しかし観念論は、この現実世界の実在と言う唯物論信仰を受け入れるわけに行かない。観念論はそのような信仰受容を、自由の死、または意識の死、さらには神の死だと思い込んでいるからである。そこで観念論は、経験を規定する経験以前の存在を、現実世界ではなく、現実世界をも規定する理念に扱うことになる。
 ちなみにここで登場した無とは、物理的実在に対する無であり、すなわち意識である。この無の発生は、即自な存在が自らに対峙するという矛盾を動因にする。つまり無の発生とは、それ自体が矛盾の止揚を表現している。同じことは、量や質、関係などの先験的カテゴリーにも該当している。存在と無の同一が量を表現し、存在と無の非同一が質を表現し、量と質の二者が関係を表現する。ただしこのときの矛盾の原因は、止揚形態としての無を通じるからこそ理解され得る。このようにヘーゲル弁証法では、絶対理念が矛盾の原因を理解するなら、その矛盾も既に止揚されている。絶対理念による矛盾の理解は、字義通りの意識内の単なる理解ではなく、矛盾の現実的な解消だからである。したがって唯物弁証法と同様に、ヘーゲル弁証法においても矛盾の現実的な解消は、物理的実在の発生として現れる。つまり止揚の本来的な姿は、何らかの不都合に対してその解決案を思いつく、と言ったような意識内の出来事ではない。ところがヘーゲル弁証法におけるこの唯物弁証法との一体性は、アリストテレスの場合と同様に、意識の規定的優位において破られる。すなわち意識が矛盾の解消を目指すからこそ、矛盾の止揚が現実化する。具体的に言うなら、人間が矛盾の解消を目指すからこそ、その矛盾は止揚される。自然の弁証法は、意識の弁証法に取って換えられたわけである。ところがヘーゲルの思惑と裏腹に、そこで人間が演じた役割は、ただ単に矛盾の内側に記載された指令の解読と実現だけである。矛盾は既に、人間の意識と独立に物理的に実存している。そこで起きている運動は、特定の情報および物理入力に対して、特定の情報および物理出力を行なうだけの内容にすぎない。明らかにそれは、実質的に単なる物理運動である。もちろん世界に人間が存在しない宇宙の黎明期では、現実世界の矛盾を止揚する役割も、なおのこと人間の代わりに下等な生物や無機物が果さねばならない。つまり意識の役割は、物体の役割との比較で見て、必ずしも立派なものではない。意識の規定的優位は、常に物理的に実存する矛盾に対して規定的劣位にある。結局ここで意識が物体に対して持つ優位は、意識が有する知性の優位に留まる。確かにその知性は、矛盾の内側に記載された指令の解読とその実現の精度を上げ、遠回りすることなく根本的に矛盾を解消させる力を持っている。ただしその精度の上昇自体も、物理的に実存する矛盾の側が規定している。
 矛盾の止揚が矛盾の内側に記載された指令の解読にすぎない場合、矛盾の止揚とは単なる隠されていた真理の露呈であり、言うなれば神の指示の解読にすぎない。その説明は物理運動の機械性を説明するのに便利なのだが、全ての運動をスピノザ流の機械的唯物論に帰結させてしまう。この観点で言えば、世界には必然しか存在せず、偶然は存在しない。そして矛盾解消の見取り図が常に厳然として存在するなら、世界もまた常に直線的に真理に落ち着くべきである。むしろ不可解なのは、なぜ人間の歴史が直線的に平和な社会民主主義に向かわず、逆に血で血を洗う抗争を繰り返し、支配者が弱者を隷属する身分制度社会を経由したのかである。カント流の倫理学であれば、そこに物理的満足と理念的道徳の相克を見い出し、歴史の右往左往を説明するかもしれない。あるいはハイデガー流の実存主義であれば、そこに意識の頽落構造を見い出すかもしれない。しかしそのような必然からの後退は、人間の歴史に限られた話ではない。生物進化の歴史も、銀河生成の歴史も、全て紆余曲折を通じた発展の連鎖である。またこのような例示に、ことさら遠い過去や意識の自由を取り上げる必要も無い。素粒子の位置的不確定は、量子力学によって説明されている。結局それらのことが明らかにするのは、世界に偶然が実在するという素朴な事実である。ちなみにヘーゲル弁証法の場合、矛盾は意識の自由において成立し、矛盾解消の見取り図も意識の自由において成立する。もちろんそれは、意識の自由を確保するためにヘーゲルが行った弁証法の逆立ちにほかならない。もともと矛盾が存在するなら、その矛盾解消の見取り図も同時に存在せざるを得ない。したがってもし矛盾の存在が意識の自由を規定するのであれば、意識の自由も矛盾解消の見取り図をなぞるだけの単なる自由の錯覚に終わってしまう。しかし意識の自由を確保するために、ヘーゲルが行なうような逆立ちは不要である。このような偶然は、偶然の基体が必然の形式を満たす限りで、どこにでも発生可能だからである。ハイデガーが考えたように、無は存在の外側に拡がっている。すなわち偶然は、必然の外側に拡がっている。その新たな地平では既に元にあった必然や制約は、無効になっている。しかも新たな地平に現れた偶然や自由は、それだけに留まらずに、元の地平にあった必然や制約の死滅さえも目指す。なぜなら必然への抗いが偶然であり、制約との対決が自由だからである。
 偶然に規則性があるなら、それは偶然ではない。または自由に制約があるなら、それは自由ではない。ところが既に見たようにこの先験性は、偶然の基体、または自由の主体の存在可能を前提にする。それは、無が常に存在を前提にするのと全く変わらない。偶然の基体が損壊するなら、偶然そのものが生起しないし、自由の主体が死滅するなら、自由も同時に死滅する。先験的な偶然の無規則、または先験的な自由の無制約は、それらの経験的な存在可能を制約にしている。例えば食事行為に急を要する生体では、食事行為の実現優先は必然である。生体は、満腹しない限り、行動の自由を持たない。もし生体が餓死するなら、自由も同時に死滅する。逆に生体の満腹は、生体に行動の自由をもたらす。ただしこの新たな自由は、もともとあった過去の制約と整合するとは限らない。往々にして生体の行動は、長期的な自らの損壊を配慮しないからである。例えば新たな自由は、生体の生活基盤の破壊、または共食いの自由に陥りがちだからである。もちろんそのような自由は、新たな矛盾を生み、そして新たな矛盾の止揚形態を生む。矛盾が止揚された後から見ると、生体の行動は場当たりな右往左往の連鎖である。しかし共食いを抑止した新しい生体は、過去の自らを廃棄し、右往左往も終えなければならない。もちろんこのような歴史の右往左往を規定したのは、自由の無制約である。ヘーゲル弁証法は、自由の無制約において、矛盾解消の見取り図が常に後から知の体系、すなわち科学に現れるとみなした。しかしそのことは、逆に偶然の排除において、矛盾解消の見取り図を常に前もって科学が描くことの可能を示している。もちろんこれが、唯物論における偶然についての理解、あるいは自由についての理解、さらに言えば意識についての理解である。この意味で、科学における将来予測が外れることは、科学の無能を説明するものではない。将来予測が外れたのは、物体運動の偶然が科学の知を凌駕しただけの話である。ここで物体運動の偶然の前に、科学が霧散する必要は無い。既存の知の体系が現実と矛盾して崩壊したとしても、現実世界の偶然を包括する新たな必然の体系は可能である。偶然は、自らの存立において規則を持つだけではなく、さらに偶然の相互衝突において再び規則を得なければならない。素粒子の波動は、一つ一つが偶然な運動として現れるかもしれない。しかし素粒子の結合において、個々の対立し合う波動は相互に打ち消し合い、群効果を伴なって、直線的な粒子運動を必然にする。交通事故は、一つ一つが偶然な事態として発生する。しかし偶然の集積において、個々の対立し合う事故原因および事故の抑止原因は相互に打ち消しあって、例えば特定形状の坂道の危険だけを必然にする。弁証法が成立するのなら、と言うよりも、物理的事実が存在するのなら、歴史の右往左往もいつか終焉を迎えなければならない。それは、生活基盤の破壊や共食いの永久循環に繋がっているわけではなく、それらを克服した真の自由な世界にだけ繋がっている。ただしそれは、人類が絶滅しないことを前提にした希望的未来にすぎない。もし人類が絶滅したのであれば、数百万年後に生まれる次の知的生命体が、あるいはその知的生命体が絶滅に至るのなら、さらにその次の知的生命体が、人類の果せなかった課題を実現することとなる。いずれにせよ、差し当たり現存の人類に求められているのは、相変わらず共産主義の実現と言う前史的課題である。
(2014/02/16)

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