弁証法の概念生成運動の表現として「量から質への転化」「否定の否定」「対立物の相互浸透」がある。このうちの「対立物の相互浸透」は、エンゲルスがヘーゲルの「矛盾の止揚」を平易な物理的表現に言い換えたものである。もともと「矛盾の止揚」は、原初概念が自ら持つ矛盾の克服において、二次的な概念を発生させる様を表現している。しかしこの意味内容を前提にすると、「対立物の相互浸透」という言い換えは、なんとも間抜けな表現に見える。矛盾するのは、物理的関係に限られていないからである。理想と現実、自由と平等などの観念的対立でも、矛盾は可能である。また矛盾の止揚は、対立する存在者の片側の壊滅によって成立することもあるし、対立する双方の調停者として第三者が登場することによって解決することもあるし、両者の力関係の均衡に落ち着くこともあれば、対立物の両方を含む世界崩壊によって解消することもあるであろう。この観点から言えば、「対立物の相互浸透」と言う表現は、矛盾の止揚形態を限定している点でも難がある。そもそも「浸透」は、まるで対立する存在者の妥協や折衷が、あたかも矛盾を根本的に解決させるかのようである。もちろんそれによって、矛盾の止揚が成立することもあるかもしれない。しかし基本的に妥協や折衷は、矛盾対立の根本的な解決ではない。それでは矛盾対立における問題点が何処にあったのか、そしてそれは解決されたのかは不明のままに終わる。そのような偽りの解決は、矛盾対立をより激化させ、事態をその出発点に引き戻すだけである。したがって「対立物の相互浸透」は、本来の「矛盾の止揚」として表現されるべきである。 矛盾の止揚は、概念生成の後からその止揚の流れを振り返ると、単なる問題の解決として現れる。それならヘーゲルも、最初からそれを矛盾の止揚とは呼ばずに、問題の解決と呼んだら良さそうである。しかももっぱらその解決の道筋は、対立する存在者を含む現存の諸関係の中に、既に内包されていたものである。したがってその解明を通じた問題の解決も“止揚”として難解に呼ばれるよりも、一種の再発見として理解されるべきかに見える。現象学における矛盾の止揚が常に単なる真理の露呈でしかないのは、このことに拠っている。この観点から見れば、ヘーゲルの言う“真無限”もまた、答えがわからないがゆえの単なる試行錯誤を、体裁良く言い換えただけの言葉にすぎない。理念の運動にしても、わざわざ円環を描く無駄を省き、一直線に究極の真理に向かうべきに見える。ところが実際にはこれらの評価のいずれもが、概念生成が終わった後の生成概念を根拠にした後付けにすぎない。ヘーゲル弁証法では、概念生成が完了しない限り、答えもまた現実世界に存在しない。答えが存在しない以上、現実世界が右往左往するのも当然の話である。初めて答えが現実世界に出現するのは、概念の生成が完了した後である。分析判断は、綜合の後でのみ可能となる。つまりヘーゲルが語る“矛盾の止揚”とは、概念が現実化する運動それ自体を表現している。このようなヘーゲル弁証法は、唯物論から見ると、唯物弁証法に皮一枚の差にまで接近したものに見える。ところがヘーゲルは、概念生成をあくまでも意識の運動に捉えている。なぜなら彼は、意識の内にだけ、新しい世界を生み出す力を見い出していたからである。カントと同様にヘーゲルもまた、物体が新しい世界を生み出す力を持たないと考えていたわけである。ちなみにサルトルの弁証法は、このヘーゲル弁証法の観念性をさらに推し進めてより純化させたものである。その弁証法は、意識による世界の我有化どころか、意識による世界の私物化、事実の捏造を目指す。その理屈における共産主義は、意識の自己満足を満たすために選ばれた最高の食材に過ぎない。すなわちそこで語られた共産主義は、世界の私物化が抱える反社会性、事実の捏造が抱える非唯物論性を隠すための単なる美辞麗句である。サルトルの弁証法は、意識に論理の規定的優位を与える理屈の一つの究極の姿であり、唯物論ではない。そして実際にサルトルは、観念論を自覚し、自然の弁証法を説いたエンゲルスを敵視した。なるほど「対立物の相互浸透」と言う間抜けな表現を世間に流布したのは、エンゲルスである。しかしこの間抜けな表現には、ヘーゲル弁証法の観念性に対する批判が込められている。すなわち物体運動の強調においてそれは、ヘーゲル弁証法に対する唯物弁証法の独自性を示した表現なのである。したがってその間抜け表現は、それなりの理由を得た間抜け表現となっている。 エンゲルスによる自然における弁証法の例示は、あまり良いものが無い。分子式に炭化水素が増えると化合物の質が変わるとか、親の世代が二重否定されて子の世代の繁栄に繋がるとか、卵の殻と中身の対立の止揚が雛になるとか、水に熱を加えると水蒸気になるとか、出来合いの綜合判断を背景にした突っ込みどころの多い例を並べている。とくに卵と雛の話は、明らかに唯物史観をイメージした例示、すなわち生産力発展の桎梏と化した既存体制の転覆の様をイメージした例示である。しかしそれは、内容物を保護する役目を持っていた卵の殻が、内容物の成長において逆に内容物の邪魔物へと転化し、最終的に破壊されたと言うべきである。エンゲルスの記載要領は、擬人化の仕方の悪い下手くそな文学になっている。なるほど変化や運動のあるところなら、どこにでもそこに全て弁証法を見い出すのは可能である。ヘーゲルも人間の歴史や精神を含む宇宙史の全てに、弁証法を見い出すことができるとしている。生物種の世代交代に二重否定を見い出す比喩や水の沸騰に量質変化を見出す比喩も、ヘーゲルが提示した比喩をエンゲルスが踏襲しただけのものである。ただしエンゲルスの趣旨は、ヘーゲルが神的意識に閉じ込めていた弁証法を、自然の元に返すことである。またその点だけ押さえておけば、エンゲルスによる多くの出来の悪い例示は、無視されて然るべきである。ヘーゲルでは、絶対理念なる神的意識が弁証法を成立させている。しかもその弁証法では、本質が実存を規定する。したがって全体が個別を支配し、個別は全体の一部でしかない。そこでの弁証法の動因は恣意的であり、全体による個別の支配も、個別が全体を形成する理由も、その恣意に拠っている。ヘーゲルによるとその恣意が目指すものは、ロゴスの完成を目指す絶対理念の自己展開である。つまり知の体系を構築せんとする絶対理念の関心が、宇宙史を構成する。抽象的な全体意識が、実存する個別者に対して抑圧するように現れ、恣意的に個別者を物理的に死滅させるような現実も、ヘーゲルにおいては知的関心の観念的事象にすぎない。当然の展開として、この支配者ボケした観念論は、フォイエルバッハそしてマルクスやエンゲルス、さらにはキェルケゴールらの憤慨を喚起させるに至った。このヘーゲルの門徒たちの最大の関心は、本質と実存の規定関係の逆転へと向かう。彼らの哲学は、系譜を違えたとは言え、共にヘーゲル哲学の継承者であり、なおかつヘーゲルに対抗する哲学となった。言い換えれば、それらの哲学はいずれも、ヘーゲル弁証法が自らの内在的矛盾を止揚した姿だったわけである。
(2014/02/16) (続く)
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