唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル精神現象学 解題(15c.マルクスの存在論(3))

2017-11-08 07:22:02 | ヘーゲル精神現象学

15h)使用価値の二面性と語義の統一

 使用価値とは、もともと商品効用であり、個人意識には何らかの快適さとして現れ、意識一般には商品理念として現れたものである。しかし先の記述でその商品効用は、交換価値と同様に、労働力量で表現可能な価値だと判明した。しかしこの理解は、逆に使用価値についての表現に混乱を生む。なぜなら使用価値と記載したものが、果たして商品効用としての価値を指すのか、それともその労働力量としての価値を指すのか不明瞭だからである。そして実際にマルクスの商品価値論には、そのような混乱が紛れ込んでおり、その使用価値についての文意が理解不能なものになっている。それが端的に現れたのが、使用価値と交換価値の矛盾についての表現である。そこで二通りに現れる使用価値のそれぞれの表記は、区別される必要がある。まずマルクスが商品価値論の最初に述べた使用価値が“使用価値”であるべきか、それとも交換過程論で貨幣発生の説明に登場させた使用価値が“使用価値”であるべきかを選択しなければならない。前者は商品効用であり、後者は労働力量に換算された商品理念である。ちなみに本記事では後者を採用する。なぜならマルクスの目論見は、貨幣発生を剰余価値の説明に連繋することにあり、そもそも「資本論」自体が剰余価値理論だからである。それゆえに本記事のこれ以後の記載も基本的に“使用価値”の語義を、労働力量に換算された商品理念として統一する。


15i)商品への価値の膠着

 商品交換では、商品使用者と商品生産者で商品の間で交換価値の大きさに差異が無いのを相互に想定する。もしそこに差異があれば、両者の間の商品交換は成立しない。したがってヘーゲル式に言語の成立に一般者の実在を見い出す感覚から言えば、商品交換の現実は、少なくとも商品交換当事者の間の価値の共有を説明しているし、さらに言えば商品交換当事者に限定されない価値一般の実在を説明する。もちろんそのような価値共有が可能なのは、価値実体としての労働力の大きさすなわち人間生活の規模が、使用者と生産者で同一だからである。すなわち使用者と生産者における食物摂取量・使用衣類や居住に必要な空間面積・家族構成が同じ大きさだからである。もっと単純に言うなら、使用者と生産者における価値の大きさが同じなのは、使用者と生産者が同じ人間だからである。労働力は商品に膠着しているが、別に商品が素材として労働力を含んでいるわけではない。それゆえに商品価値としての労働力の現れは、背後的実体の姿に留まる。そこでの商品は背後霊のように価値を身にまとっており、物神になっている。ただしその姿を見ることができるのは、商品生産現場を経験した生産者だけである。しかし生産者の300円分の生活を体現する交換価値は、商品交換されなければ可能性に留まる。交換価値が現実性を得なければ、生産者の300円の生活は成り立たない。生産者の真摯な生活は、交換価値が背後霊のままでいることを許せない。それゆえに背後的な交換価値は、商品交換過程において交換対象の商品として現実化させられて行く。この事情は、生産者だけではなく、使用者にとっても同じである。使用者が生産者と交換する商品は、使用価値として使用者の300円分の生活を体現している。それだからこそ使用者は自らの商品と生産者の商品を交換する。ただし使用者が取得した300円分の生活を体現する使用価値は、商品交換されても可能性に留まる。その使用価値が現実性を得るのは、商品が使用者の300円の生活を実現した時である。使用者の真摯な生活も、使用価値が背後霊のままでいることを許せない。それゆえに商品の背後的な使用価値は、商品の使用において使用者の300円の生活へと現実化させられて行く。ちなみに交換過程論を省略して商品の物神について言えば、最終的に商品価値を表現する物神は、商品交換過程において現れる貨幣である。すなわち貨幣は物神の王である。


15j)等価交換される交換価値の使用価値との不等価交換

 上記で示した商品交換例では、生産者と使用者における価値は、一貫して同じ価値量を維持している。まず生産者と使用者において交換される商品の交換価値は等しく、次に生産者と使用者において交換される商品の使用価値も等しい。そして交換価値と使用価値もそれが含意する労働力量、すなわち価値量は等しい。要するに生産者における交換価値と使用者における交換価値と使用価値は、一貫して同じ価値量にある。言い換えれば、商品市場での商品交換は、全面的な等価交換を実現している。そしてそれらの価値が全て等価だからこそ、継続した商品交換が可能となっている。逆に言えば、もしそこに不等価があれば、両者の間の商品交換は成立しない。長期に渡って繰り返される商品交換が、不利益を受ける側を最終的に死滅させてしまうからである。しかし商品としての労働力の商品交換は、そのような等価交換から外れた扱いを受ける。なぜなら使用者が労働力商品に要求する使用価値は、労働力商品自身の交換価値を超える交換価値の産出だからである。言い直せば、労働力商品の使用価値は、雇用者に対する使用価値と交換価値の差分の引き渡しである。それだからこそ労働力商品の使用価値が体現する価値の量も、その労働力商品自身の交換価値の大きさを超える。このことを先の等価交換の例になぞらえると次のようになる。労働者の300円分の生活を体現する交換価値は、その労働力が雇用されなければ可能性に留まる。交換価値が現実性を得なければ、労働者の300円の生活は成り立たない。労働者の真摯な生活は、労働力の交換価値が背後霊のままでいることを許せない。それゆえに背後的な交換価値は、雇用を通じて賃金として現実化させられて行く。この事情は、労働者だけではなく、雇用者にとっても同じである。ここまでは先に示した等価交換の例と同じである。この後に労働力商品の特殊性が現れる。それと言うのも、雇用者が労働者に支払う賃金が実現する使用価値は、賃金を上回る使用価値、例えば雇用者の600円分の生活だからである。またそれだからこそ雇用者は、労働者に賃金を支払う。ただし雇用者が取得した600円分の生活を体現する使用価値は、ただ取得しただけでは可能性に留まる。その使用価値が現実性を得るのは、商品が雇用者の600円の生活を実現した時である。ここでも雇用者の真摯な生活は、使用価値が背後霊のままでいることを許せない。それゆえに労働力の背後的な使用価値は、労働力の使用において雇用者の600円の生活へと現実化させられて行く。ちなみに600円分の使用価値の内、300円分はもともと雇用者が賃金のために用意した分である。それは等価交換の場合と同様に、雇用者の生活のために使われる価値部分である。したがって雇用者が取得した600円の使用価値の内、剰余価値に該当する部分は、残りの300円分である。この例では、労働者における300円の交換価値が、雇用者における600円の使用価値に化けている。一見するとここには不可解な価値増殖が発生しているように見える。この不可解さの理由は、なぜ労働者が自らの労働力の持つ600円の使用価値を雇用者に引き渡し、300円の交換価値を得ることに満足したのかに尽きている。しかしその理由は誰でも知っている。労働者の前には自らが支配者に支配される主奴関係が立ちはだかっているからである。生産手段は支配者の承認された暴力において占拠されており、労働者は商品の生産機構およびその販路、そして物の所有から身分制度において隔離されている。それゆえに労働者は、300円の交換価値を得ることに我慢しなければならない。ちなみにここで言う支配者が占拠している物とは、物態として現れた可能性である。つまりその物とは、実体として在る自由である。


15k)使用価値と剰余価値の差分としての剰余価値

 労働者が自らの労働力の持つ600円の使用価値を雇用者に引き渡さず、自らの労働力を行使して600円の使用価値を自ら得るなら、労働者が300円の賃金に我慢する必要はもともと無い。しかし労働力には、300円で自らを身売りせざるを得ない事情がある。労働力は生産手段なしに、単独で600円の使用価値を産出することができないからである。そして労働者をめぐる支配と搾取の関係も、雇用者の生産手段に対する支配力が根拠づけている。この生産手段の代表格は耕作地や運搬路などの土地であるが、支配力が効果を発するのであれば、それは自動車や船、または溶鉱炉や工場機械でも良い。またそれは空間的形状にある物である必要も無く、労働力を統合する職人組合や企業体のような組織体でも良い。マルクスが言うように、そもそも機械は協業の発展形態に過ぎないからである。とは言え、労働者をめぐる支配と搾取の関係が露骨に現れる生産手段は、やはり土地所有である。なぜなら土地は生産物ではないからである。そのために支配者による土地所有の権利主張は、身分制度的な所有の先験性を前提にする。すなわち親が所有していたから子供の土地所有が権利として認められるだけである。そこでは親の土地所有が、最初の居住者として現れたのか、それとも先住者からの横取りであるのかは問われていないし、その横取りが先住者を暴力で屈服させたのか、先住者を騙して横取りしたのか、あるいは暴力的屈服が先住者の追放で行われたのか、先住者の殺害によって行われたのか、先住者の奴隷化によって行われたのかも問われていない。いずれにせよそれらの出来事は、子供の世代を重ねるうちに歴史の闇の中に消え、土地所有は地主の先験的権利となる。そして地主は当たり前の権利として、自ら生産に関与しなかった作物を小作農から搾取するようになる。地主による小作農の搾取の形態は、小作農が生産した600円分の作物のうち300円分を小作農が受取り、300分が地代として地主に渡す。一見するとこれは資本家による労働者の搾取と違うように見えるが、実際のところその内実は変わらない。小作農が生産した600円分の作物を全て地主の所有とし、そのうちから300円分の作物を地主が賃金のつもりで小作農に渡すなら、小作と賃労働は全く同じ形態になるからである。その証拠に、農産物が天候不順で不作となり、出来高が600円に足りなくても、優先されるのは地主への300円の支払いである。小作農の作物の権利は、小作農の側に無い。
 生産手段は、物態にある自由である。労働者が自由になるためには、この物態にある自由を取得しなければならない。しかしその自由を取得しようにも、労働者の交換価値は労働者の生活維持に必要な大きさだけに留まる。しかも物態にある自由はもっぱら支配者の所有物であり、その所有権も支配者の権利として守られている。そこで彼が知るのは、あたかも放牧された牛のように、彼自身が雇用者の所有物の一つにすぎないと言う現実である。つまり彼は自分が雇用者の支配下にいるのを知る。彼の手足の自由は失われており、どこにも逃げられない。また支配者も安心して、労働者に対し次のように言っている。「君は自由だ。好きにしなさい。」と。ただしここで労働者が直面するのは、自らの肉体が支配者の所有物であると言う事実だけではない。労働者は、自らの意識の喪失にも直面する。それは労働者における可能性の喪失、すなわち自由の喪失の自覚である。このようにして労働者は、自らの非実在を自覚するに至る。
(2017/11/04)


ヘーゲル精神現象学 解題
  1)デカルト的自己知としての対自存在
  2)生命体としての対自存在
  3)自立した思惟としての対自存在
  4)対自における外化
  5)物質の外化
  6)善の外化
  7)事自体の外化
  8)観念の外化
  9)国家と富
  10)宗教と絶対知
  11)ヘーゲルの認識論
  12)ヘーゲルの存在論
  13)ヘーゲル以後の認識論
  14)ヘーゲル以後の存在論
  15a)マルクスの存在論(1)
  15b)マルクスの存在論(2)
  15c)マルクスの存在論(3)
  15d)マルクスの存在論(4)
  16a)幸福の哲学(1)
  16b)幸福の哲学(2)
  17)絶対知と矛盾集合

ヘーゲル精神現象学 要約
  A章         ・・・ 意識
  B章         ・・・ 自己意識
  C章 A節 a項   ・・・ 観察理性
        b/c項 ・・・ 観察的心理学・人相術/頭蓋骨論
      B節      ・・・ 実践理性
      C節      ・・・ 事自体
  D章 A節      ・・・ 人倫としての精神
      B節 a項  ・・・ 自己疎外的精神としての教養
         b項  ・・・ 啓蒙と絶対的自由
      C節 a/b項 ・・・ 道徳的世界観
         c項  ・・・ 良心
  E章 A/B節    ・・・ 宗教(汎神論・芸術)
      C節      ・・・ 宗教(キリスト教)
  F章         ・・・ 絶対知

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