絶対理念は、即自態を得て実存する善である。このことが前提するのは、即自態を持たない対自、および無目的な即自の空虚である。すなわちそれらは、端的に言えば悪であり、虚偽である。それゆえに存在・本質・概念、または即自・対自・即自対自の三分法は、理論理念・実践理念・絶対理念の三分法にとって代わる。すなわち絶対理念は、理論と実践を統一した純粋理念の実存として現れなければいけない。そしてこの大論理学の最終章は、その絶対理念を実現する方法、および実現の論理を弁証法として示す。ただしディオゲネスの唯物弁証法を排除して進むヘーゲル弁証法が落ち着くのは、やはり観念論の弁証法である。
[第三巻概念論第三編「理念」第三章「絶対理念」の概要]
主観的目的としての理念の類的外化の論述部位
・絶対理念 …理論理念と実践理念を二面として同一な理念。
‐形式限定 …無形式を内容とする自己同一の形式。
‐内容の純化 …自己同一の形式を廃棄する無形式。擁立された所与。
‐形式の純化 …無形式な内容を他者とする無内容な仮象の形式。
‐純粋理念 …形式限定と純化過程の全体。
・方法 …理念の在り方を限定する形式。推論において主観に客観を媒介する手段。
‐形式的方法 …感性的即自存在における定義を媒介にした客観的な自己の証明。
‐絶対的方法 …思惟の対自存在における客観的な自己を証明する自己の実在化。
‐弁証法 …特殊を媒介にして普遍を抽出する形式的方法に対し、直接的に普遍を抽出する絶対的方法。
・即自否定 …始元における自己擁立による直接的自己の否定。「自己自身は自己」の絶対的偽命題。
・媒介限定 …即自否定を否定する対自における直接的自己の擁立。「自己は自己自身」の絶対的真命題。
・主観 …即自否定を第一前提とし、媒介限定を第二前提とする推論。
特殊を媒介にして個別として自己復帰した普遍。
・絶対無 …媒介限定において区別の統一を可能にする主観の根拠。
・三分法 …事(仕事)として媒介を通じて普遍を回復する推論。
・体系 …無限定な始元が含む方法としての諸限定の円環。
・自然哲学 …自然の概念化した限定と実在に解放された純粋理念に関わる神的認識。
・精神哲学 …自然哲学の媒介を経て自己回帰した純粋理念の決意。
1)絶対理念
理論理念と実践理念は、相互に推移する絶対理念の一面である。それぞれは自らの彼岸に絶対理念に持ち、理念でありながら理念ではない。これらの理念に対して絶対理念は、両者の同一として自己限定により自己に復帰する概念である。したがってそれは生命であり、人格を持って対自する主観であり、個別ならぬ普遍として唯一実在する真の認識である。自然と精神は、絶対理念の限定存在を表現する形態である。そして芸術と宗教および哲学は、絶対理念の自己把握と限定存在獲得の各形態である。特に哲学はその概念的把握と概念の限定存在において、それら各形態の最高の形態として現れる。もちろん哲学も理論的理念として絶対理念の一面にすぎない。しかしこの一面は、自己限定する概念として絶対理念の純粋形態にある。
2)内容と形式
自然や精神と同様に絶対理念の内に区別は無い。それゆえに論理理念の形式はまずこの無制約であり、論理理念の内容もこの無制約の形式である。したがってここでの形式は内容であり、内容は形式である。しかしその内容の同一は、やはり形式である。そこで内容は同一を形式として限定し、その形式限定のうちに形式としての自己自身を廃棄する。それゆえに内容は形式の他者である。そしてこの形式ならぬ内容の偶然が、内容を所与として現す。一方で形式は内容の他者であり、内容の関係である。内容にとって形式は仮象である。しかしこの過程としての形式限定の全体は、内容の偶然ではない。したがってこの偶然ならぬ仮象は、論理学が対象にする純粋理念である。そしてこの純粋理念を内容とした形式限定の全体が、絶対理念である。この絶対理念の普遍性は、その内容ではなく形式の側にある。その形式は理念の在り方を限定する方法である。
3)方法としての形式
方法はまず認識様式であり、存在の即自対自に限定された様態ではない。その論理過程としての全体は、自己自身を対象にする知である。したがって方法の基礎には、方法の自己自身がある。そして方法の自己自身は、形式としての方法の内容である。このことと同様に形式も、所与の客観ではなく方法を基礎にする。したがってここでも形式の内容は、形式の自己自身を含む。それゆえに内容から遊離した外面的形式は虚偽である。いずれにおいても方法は自己自身を限定する。その限定活動は、所与の客観をも限定する。またそうでなければ方法は、所与の客観を限定できず、認識もできない。それゆえに方法は無限定な力であり、魂であり、実体である。方法に完全に従う限りでのみ、対象の真の把握が可能となる。方法はそれ自身が概念である。しかし方法は推論において主観に客観を媒介する手段である。したがってそれは概念を考察する知として概念と区別される。ただし方法が推論の両項に現れる主観と客観を同一の概念として擁立しないなら、その推論は形式的推論に留まる。
3a)形式的方法と絶対的方法
始元は思惟の直接的で単純な抽象的普遍であった。したがってそれは感性の直接的で単純な具体的普遍ではない。すなわち始元は感性の即自存在と異なる思惟の対自存在である。単純に言えば始元は即自存在を欠いている。それゆえに対自する感性的即自存在は、定義の抽象により自らの存在の真を証明し、少なくとも指摘を要した。これに対して最初から即自存在を欠く思惟の対自存在は、実在化により自らの存在の真を証明する。したがって概念としての方法も、その存在の真を前進において果たす。もし方法が自らの実在化の衝動を持たないのであれば、その方法は形式的である。したがって絶対的方法は、自らの実在化を内在しなければならない。この点で絶対的方法の始元は、単純な抽象的普遍ではない。このためにその始元を絶対者に求める欲求も現れる。しかしもし始元が絶対者であるなら、概念の実在化は絶対者の単なる流出である。ところがこの想定は、自由な始元を絶対者に制約された事物にする。これに反して絶対的方法の始元は、事物を手段として自己を実現する主観である。またそのような主観としてのみ方法は実存する。
3b)方法としての弁証法
始元となる具体的全体は、区別を有する差異的存在であり、かつその差異的存在の統一である。そしてその反省が判断として現れる。悟性の外的反省は差異の捨象において普遍を抽出し、抽出した普遍に差異を再び統一させる。これに対して絶対的方法は、対象から直接に普遍を抽出する。外的反省に対する絶対的方法の方法的差異は、方法自身が対象の内在的原理であることに従う。このことが認識に対して要求するのは、対象そのものから直接な普遍を抽出する弁証法である。その抽出の点から言えば、絶対的方法は分析的である。しかし対象をその無限定な自己と限定された自己自身の統一で捉えるなら、絶対的方法は綜合的である。
3b1)弁証法の史的評価
プラトンが創始したとされる弁証法は、概念の客観に属さず、主観的才能に基づく技術として扱われた。これに対してカント弁証論は、有限な主観における無限な客観の否定的な仮象として弁証法の矛盾を捉えた。ただしカントにおけるこの弁証法の進歩的把握は、既に古代のエレア学派が物体運動に適用した弁証法理解の復興にすぎない。プラトンの弁証法は、エレア学派の弁証法理解をカテゴリーなどの反省規定に拡張したものである。またプラトン後の懐疑論に至っては、全ての学的概念に対する懐疑にまで弁証法を適用した。ただしこれらの弁証法はもっぱら真理の拒否に留まる。また実際に真理を拒否しなくとも、真理を否定的空虚に変えて周囲の反感を呼んだ。そしてこの反感が弁証法を主観的誤謬のように扱う風潮を生んだ。ちなみにヘーゲルは、ディオゲネスによる弁証法の唯物論的解決も、主客を綜合する第三の前進解決の欠落において拒否する。そしてこの主客を綜合した第三者は概念である。ヘーゲルにとって思惟を欠く物体は矛盾から逃れられない。なぜなら概念は、即自対自的な推移だからである。
3b2)即自否定
始元は自己を自己自身の他者として擁立する。これにより自己において直接的なものは廃棄され、媒介されたものに転じる。言い換えるとそれは、自己が最初の普遍を特殊として擁立するものである。この媒介的特殊は直接的普遍を否定するが、それは存在を否定する無ではない。それは直接的普遍の限定を内に含む。したがってその全体は直接的普遍を主語とし、媒介的特殊を述語とする命題を表現する。ここで廃棄された直接的普遍は、既に普遍ではない。それは今では前提された直接的客観の具体となる。そして逆に媒介的特殊の方が、具体に対して普遍として現れる。すなわちその判断は「具体は普遍」である。ところがここで主語に現れる具体の直接的普遍は、既に廃棄されている。したがってこの命題は偽である。この矛盾により命題「具体は普遍」の判断は否定される。とは言えこの「具体は普遍」の判断は、命題の真を目的にする。
3b3)媒介限定
媒介された自己は、媒介した自己自身を含む自己関係である。それは即自存在の肯定を否定して現れた対自存在である。しかしそれは自己自身の他者なので、既に自己の自己自身の他者を含む。それは対自が擁立した即自存在である。そしてその即自存在は対自存在に従属する。それゆえに対自における「自己は他者」の矛盾は、「自己は自己自身」の肯定に戻る。先の即自否定は自己に区別を擁立する即自な否定であった。しかし媒介限定はその擁立した自己と自己自身の区別の相関である。その相関は区別を切り離すことで両者の間に間隙を擁立する。ただし即自否定の場合と違い、媒介限定の全体は区別の矛盾を自己の内に含む。その矛盾では同じ一つの対象が二つに分裂する。しかしその異なる二つの対象は、やはり一つの全体である。形式的思惟は自己同一を法則とし、矛盾を思惟し得ないとする。ところが時空は形式的思惟が擁立した対象の矛盾の全体である。すなわち実際には形式的思惟も矛盾を思惟している。
3b4)推論としての主観
即自否定が自己と自己自身を区別する第一の否定であったのに対し、媒介限定はこの第一の否定を否定した区別の統一である。それは普遍と区別された特殊を再び普遍の統一に戻す。しかしこの新たな普遍は、最初の直接的普遍ではない。それは概念と実在の対立を廃棄した具体である。この具体は即自否定を第一前提とし、媒介限定を第二前提とする推論として現れる。またそれが推論であるがゆえに、新たな普遍は具体として最初の普遍と区別される。当然ながらこの具体として実存する推論は、主観である。ここでも主観が直接的客観と区別されるのは、それが推論であることに従う。ただしそれは端的に言えば、推論として現れた自己と自己自身の統一である。分析と綜合を対立して用いる場合、即自否定は区別を擁立する分析であり、媒介限定は区別を統一する綜合である。ただし即自否定が区別を擁立する時、自己は区別した自己自身を自己の他者として統一する必要がある。したがってその分析は既に綜合を含む。一方で媒介限定において区別を統一するのは主観である。ここで異なる二者の統一を可能にするのは、主観の絶対無である。もしその絶対無の媒介を二者の外面的関係に捉えるなら、主観の絶対無も形式的媒介に転じてしまう。
3b5)三分法と四分法
形式的思惟が行う推論に三段論法がある。ただしそれは二項の同一に従う否定の欠けた形式的推論である。これに対して主観としての推論は、即自否定と媒介限定を通じた直接普遍の二重否定である。推論の結論において即自否定と媒介限定は、廃棄された二限定にすぎない。そのような推論は、媒介を通じて普遍を回復する三分法として示される。その回復行程の全体は、次のような絵柄となる。
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┃┃即自否定┃媒介限定┃
┃┗━━━━┛ ┃
┗━━━即自対自━━━┛
一方で三分法を取り入れるのが、近代の形式的思惟の傾向である。しかし対象における量と質、分析と綜合、即自否定と媒介限定の区別が欠けるなら、その三分法も図式的な正・反・合の弁証法に留まる。ただしそれがもたらす推論は、空虚な妥協である。単純に言えばその弁証法が擁立する推論は、事(仕事)にならない。そもそもこの推論の結論に現れる普遍は、新たに擁立された直接的普遍である。それゆえにこの普遍は、再び同じ媒介限定の行程に引き込まれる。したがってその行程は、また別の推論の結論を擁立する。そこで上記の三分法の絵柄は次の四分法の絵柄にもなる。ここにある弁証法の結論は具体の擁立運動であり、図式的弁証法を自ずと離脱している。
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┃┃┃即自否定┃媒介限定┃媒介限定┃
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┃┗━━━即自対自━━━┛ ┃
┗━━━━━━即自対自━━━━━━┛
このような弁証法の結論に現れる個別は、自己同一な全体である。言い換えるとそれは、事物を手段として自己を実現する主観である。したがってそれは、先に始元に与えた限定と同じ存在になっている。なおこの新たな始元に対する分析は、上記行程を確認するだけに終わる。それゆえにこの結論に対する証明は無駄である。
4)始元と体系
推論の対象は、推論の結論においてその単純な始元に復帰する。その魂は無限定を形式とする。ただしその復帰した始元は、推論における諸限定を内容として含む。そしてその諸限定は、所与の客観を限定する方法である。したがって始元が含む内容は、方法としての諸限定の体系である。しかもそれが含む分析と綜合の随所に現れる結論は、いずれも始元でもある。したがって方法の体系は、始点を終点とする円環を成す。それは多くの円環を取り込んだ一つの生命体として大きな円環になっている。しかし単純なはずの始元が複雑な内容を含むのは、矛盾である。すなわち始元の無限定な形式と限定する体系は相互に反発する。この反発は主観に無限定な絶対者を直観させるが、その把握不能が焦燥感として現れる。ところがその要求対象の絶対者は、観念的に擁立された無限定者にすぎない。むしろその直観的姿は不完全な限定であり、虚偽にすぎない。またそれだからこそ認識は、始元の直観を廃棄する。すなわち認識は媒介を通じて得られる。さしあたりその直接的把握の要求に対して、認識の全体的概要を提示するのが妥当である。このような方法の事情により、学もまた媒介を経た円環を成す。諸学はこの学の体系の諸部分を成す円環である。学は体系として展開することにより実在化する。ただしこの実在はまだ主観の中に閉じこもっている。そこで次に理念が目指すのは、この主観性の廃棄となる。
5)自然哲学と精神哲学
自然は客観に推移した主観、または目的に推移した主観ではない。自然は無概念に推移した主観ではなく、概念化した限定と実在に解放された純粋理念である。したがって自然の中に無概念な直接的限定は存在しない。このような自然は、純粋概念と実在の絶対的統一として自己を擁立し、直接的存在に収斂している。それゆえに自然はその自由の中で自己を解放するだけであり、推移を要しない。そしてその自由のゆえに、時空を含めたその理念の限定形式も自由である。時空が外面的な客観であるのは、それが主観の対象である場合に限る。とは言えこの外面が自然哲学を形成する。すなわち自然に関わる神的認識が自然哲学である。さらにこの純粋理念の決意は、自然哲学の媒介を経て自己回帰した精神哲学の中に自己を解放する。
(2022/04/02) 前の記事⇒(ヘーゲル大論理学 第三巻概念論 第三篇 第二章 B)
ヘーゲル大論理学 概念論 解題
1.存在論・本質論・概念論の各章の対応
(1)第一章 即自的質
(2)第二章 対自的量
(3)第三章 復帰した質
2.民主主義の哲学的規定
(1)独断と対話
(2)カント不可知論と弁証法
3.独断と媒介
(1)媒介的真の弁証法
(2)目的論的価値
(3)ヘーゲル的真の瓦解
(4)唯物論の反撃
(5)自由の生成
ヘーゲル大論理学 概念論 要約 ・・・ 概念論の論理展開全体 第一篇 主観性 第二篇 客観性 第三篇 理念
冒頭部位 前半 ・・・ 本質論第三篇の概括
後半 ・・・ 概念論の必然性
1編 主観性 1章A・B ・・・ 普遍概念・特殊概念
B注・C・・・ 特殊概念注釈・具体
2章A ・・・ 限定存在の判断
B ・・・ 反省の判断
C ・・・ 無条件判断
D ・・・ 概念の判断
3章A ・・・ 限定存在の推論
B ・・・ 反省の推論
C ・・・ 必然の推論
2編 客観性 1章 ・・・ 機械観
2章 ・・・ 化合観
3章 ・・・ 目的観
3編 理念 1章 ・・・ 生命
2章Aa ・・・ 分析
2章Ab ・・・ 綜合
2章B ・・・ 善
3章 ・・・ 絶対理念
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