存在論から本質論に連携するヘーゲル大論理学において、存在論の終盤は始元的質を本質として現実化する度量論で締めくくられる。それは量の質への転化を、さしあたり量の比率および指数への転化で示した前章までの展開の総括でもある。この度量論において、度量は物の抽象的無機的外面として始まり、その抽象性のゆえに一旦没度量化し、その後に自己同一性としての反省を媒介にして具体的有機的内面を現実化し、最終的に本質へと至る。つまり度量はその始まりにおいて抽象であり、具体ではない。したがってこの度量論において、物は初めて物体として現実化する。一方で物体の彼岸に立つ意識も、この度量論において反省として姿を現している。これらのことが示すのは、これまでの論理展開の全てが、物体とも意識ともつかない原初的存在の論理的な自己展開だったことである。以下では機械論的な度量の有機的な度量への連携を述べたヘーゲル度量論の前半部分となる第三篇第一章を概観する。
[第一巻存在論 第三篇「度量」第一章「比率的量」の概要]
抽象的機械論から具体的有機論への連繋を意識した度量論序盤の論述部位
・様相 …自己回帰した始元の質としての本質。
・原初的本質 …度量における自己同一的存在
・反省 …自己同一性の自己を自己に包括する自己媒介
・本質 …度量における質と量の自己否定的統一
・機械論 …度量に具体的有機的内面に抽象的無機的外面を適用した理屈
・比率限定量 …限定存在の質に無関係な尺度と違い、限定存在の質を増減させる限定量
・規則・尺度 …他の現実存在に適用された度量の対他存在
・没度量化 …二つの度量間の相対的な相互推移による度量の限定量化
・現実的度量 …冪表現した比率により自らの質を表現した度量
・度量の現実化 …没度量化した度量の反省を媒介にした現実的度量化
・直接的な質 …度量の対他的な質を規定する度量の内面的な比率
・比率の比率 …本質として現実復帰した直接的な質。
1)度量と様相
質としての始元存在は、まず即自存在として対他的な質として現れ、次に対自存在として質に無関心な量へと転化し、さらに同じ対自において対自的な質として質に復帰する。最初の対他的な質は、最後の対自的な質に比べると、自己に無関心であり、むしろ量的である。この対他的な質に対して対自的な質は、その取り戻された自己主導性において即自的な質として現れる。このような質と量の排他的統一は、今度は始元存在を度量に変える。度量は自己回帰した質なので、本質へと連繋する。そしてヘーゲルにおいてカテゴリーとしての本質は、反省された質として様相を成す。そこでヘーゲルは、カントやスピノザ、およびインドやギリシャ思想における様相の扱いを概観する。
・カント …反省する主観としての様相(可能性・現実性・必然性)を、客観としての量・質・関係に続く第四カテゴリーとして列挙。一方でヘーゲルにとって様相は、量経由で自己復帰した質として第三カテゴリーに該当。
・スピノザ …実体・属性に続く第三カテゴリーが様相。ただし様相は実体の変様に過ぎず、実体を真とする限り、それは虚偽としての主観。ここでの始元として定立した無限者とそれに続く有限者の連繋の困難は、インド思想を含む汎神論一般の特徴。
・インド思想…無限者の自己復帰した様相は主観(精神)として現れない。実体だけが真であり、様相は偽。また様相に限界を伴う度量が欠落。それゆえに無私が推奨される。主観と実体の分離、または様相と本質の分離は、逆に実体や本質の現実性を奪う。
・ギリシャ人…無限者に続く全ての存在に節度や運命、そして必然性を捉え、そこに神性を見い出している。
2)反省による質と量の排他的統一
度量の直接的な限定存在の中に、本質は既に自己同一的存在として現れている。なぜそうなのかと言うと、度量の直接性は質の直接性と違い、自己同一性に媒介された格下げされた直接性だからである。一方でこの自己同一性の方も、直接性に媒介されている。しかしこの悪無限な相互媒介は、自己同一性自身の自己媒介に始点を得ている。その自己媒介とは反省である。もともと自己は現象の直接態であり、連続するものとしての不可分な質である。一方でその直接態は超越において分離する。そして分離した多としての自己は、質を失った量として現れる。しかし分離したそれらの自己は、相変わらず全体としての自己に含まれる。この自己包括は、既に現れた自己を自己に同一化する反省である。ただしそれはまだせいぜい自己の自己への反射に留まる。この全体としての自己は、質と量の排他的統一である。これにより量全体は新たに質を得た限定存在として現れる。それが度量である。
3)度量と本質
自己における反省とその質と量の排他的統一と同じ運動は、度量における度量自身の反省とその質と量の排他的統一として再現する。このとき度量の度量として現れるのが本質である。この運動では、まず度量における質と量が分離し、それぞれが限定量として現れる。二つの限定量は、互いの関係を比例において表現する。比例の悪無限は一方で度量の質を奪い、度量を壊滅させる。しかし他方でその度量の量化が度量を実在にする。この壊滅と実在の逆比例の全体は、度量の質と量の排他的統一である。それは度量における自己同一的な本質を成す。
4)機械論的抽象と有機論的現実についての一般的注解
度量は一方で数理のような抽象として自らを表現しなくてはならず、他方で物理のような具体として自らを表現しなくてはならない。ただし度量の具体的表現を構築するのは、哲学の役割から外れる。とは言え抽象的度量が持つ外面性は、哲学を機械論に堕する。それと言うのも具体的度量では、度量の対立は多岐にわたり、それぞれの度量の強度も異なる。それらの事情に加え、度量の質の高次性が抽象的度量を撹乱させているからである。抽象的度量が持つ単純で無機的な外面を、具体的度量の複雑で有機的な内面へと図式的に適用するなら、そこには単なる機械論で済まされないピタゴラス的な度量の物神化が起きる。したがって物理よりもはるかに有機的な政治論や社会論、さらに心理学の場合、それらにおける度量の機械論的適用はほとんど無効になる。
5)比率としての限定量
度量とは、自らの量が質として現れた限定量、あるいは自らの質が量として現れた限定量である。その限定存在は限定量と一体である。一方で全ての限定存在は限定量を持つ。そしてそれらの限定存在は、そもそも質であった。当然ながらそこからは次のことが帰結する。すなわち全ての限定存在は、固有の度量を持つと言うことである。その言い表わすことは、限定存在が大きさを持ち、その大きさがその限定存在の質になっていることである。とは言えこの質的な量も、すぐに単なる外面的尺度へと推移する。しかしこの一般化された尺度は本来の度量と異なる。もちろんこのような本来の度量から離れた尺度でも、それが何らかの大きさを表示することは可能である。ただしその表わす大きさは、尺度が本来の度量から離れる限り、実際には意味不明である。これに対して度量が内包する限定量の増減は、その限定存在の質の増減させる。限定存在にとってその量を超えた限定量は、自らを喪失する量にほかならない。このように限定存在の質を比例させる限定量を、ヘーゲルは比率限定量と呼んでいる。
6)度量の比率化
度量の対他存在が尺度として他の現実存在に適用されるなら、それは質的な限定存在として規則となる。これに対して他の現実存在における同じ度量は、度量ではない単位として現れ、他の現実存在の限定量を単位の集合数に変える。ただしその集合数が表現する二つの度量の比率は、両者の外面的な量的比率に留まる。この量的比率では、二つの度量のどちらが単位でどちらが集合数であるかは任意である。すなわちx=y/aは、y=axの主語を入れ替えただけの式であり、いずれも度量の質的比率を表現しない。ここでの度量の相互推移は、それらの度量を没度量化する。一方で度量を成す存在者の質的変化は、その存在者の限定量も変える。他者となった存在者は、対自において自らの度量の変化を内面的比率に変ずる。この比率は限定量ではなく指数であり、もっぱら定数として現れる。したがってここでの度量は比率化されている。しかしこのような比率化した度量も、それが定数に留まる限り、やはり量的比率に留まる。この事情が変わるためには、それらの量的比率が指数に冪変数を含む冪比例として現れる必要がある。
7)度量の現実化
冪変数を含む冪比例は、存在者が持つ自由な質を表現する。とは言えそれも、左辺に冪を含まないy=ax2またはx=√(y/a)で現れる限り、右辺のxやyの質を表現せず、左辺のxやyの自由な質だけを表現する。両辺に自由な質が現れるためには、s3=at2のように両辺における冪表現を必要とする。二つの度量が冪表現されるなら、両者は質的限定量として相関する。そしてその相関では、相互推移において没度量化した度量は、今度は逆に度量として現実化する。この現実化した度量でも、二つの度量のどちらが単位でどちらが集合数であるかは任意である。しかしここでは両者の質的比率が表現されており、それぞれの度量が自立している。自然哲学の数学的諸原理は、このような度量の学として確立されなければならない。この点でヘーゲルはケプラーの天体物理を高く評価する。ヘーゲルの把握に従えば、ケプラーは冪表現された度量を探求したのに対し、ニュートンの引力式はその劣化表現に留まる。
8)対自において現れる即自の直接的な質
これまでに見てきた冪比例する二項の質は、二者相互の対他的規定である。それは相互の対他的な比率関係から離れて独立自存するものではない。一方で両者の即自の直接的な質は、この対他的な質から離れて独立自存する。このことはもちろん時間や空間にしても該当し、両者は相手との相関から離れて即自的に独立自存する。この直接的な質は直接的な限定量を持ち、この直接的な限定量が対他的な質を限定する。その限定は、対他的な度量の外面的な比率を規定する内面的な比率として現れる。すなわちその即自的な比率は、度量の対他的な比率を否定する。対他的比率は即自的比率を指数として含み、対自においてそれを二者関係の本質として現す。それは飛ぶ矢の止まった無時間的指数であり、例えば等速度y=axにおけるa、加速度y=ax2における2axとして示される。ちなみに加速度における2axは、時間と空間に加えて重力との相関を含む現実的な指数である。これとの比較で言えば、等速度におけるaが表現するのは、時間と空間の機械論的関係である。
9)比率の比率としての度量
もともと指数は二つの質の対他的比率として現れた。しかし対他的比率は相互推移において質の度量を没度量化する。これに対して指数は相互推移の止揚において再び現れ、二つの質の対他的比率と即自的比率を否定的に統一する。ここにおいて度量は、外面的比率と内面的比率の排他的統一となる。それは没度量化した度量の現実復帰であり、もともと実在を得ていなかった度量の実在化でもある。ここでの指数は度量に等しく、比率を規定する限定量として現れる。言い換えるなら、度量とは比率の比率である。
(2019/11/16) 続く⇒(ヘーゲル大論理学 第一巻存在論 第三篇 第二章) 前の記事⇒(ヘーゲル大論理学 第一巻存在論 第二篇 第三章)
ヘーゲル大論理学 存在論 解題
1.抜け殻となった存在
2.弁証法と商品価値論
(1)直観主義の商品価値論
(2)使用価値の大きさとしての効用
(3)効用理論の一般的講評
(4)需給曲線と限界効用曲線
(5)価格主導の市場価格決定
(6)需給量主導の市場価格決定
(7)限界効用逓減法則
(8)限界効用の眩惑
ヘーゲル大論理学 存在論 要約 ・・・ 存在論の論理展開全体
緒論 ・・・ 始元存在
1編 質 1章 ・・・ 存在
2章 ・・・ 限定存在
3章 ・・・ 無限定存在
2編 量 1章・2章A/B・・・ 限定量・数・単位・外延量・内包量・目盛り
2章C ・・・ 量的無限定性
2章Ca ・・・ 注釈:微分法の成立1
2章Cb(1) ・・・ 注釈:微分法の成立2a
2章Cb(2) ・・・ 注釈:微分法の成立2b
2章Cc ・・・ 注釈:微分法の成立3
3章 ・・・ 量的比例
3編 度量 1章 ・・・ 比率的量
2章 ・・・ 現実的度量
3章 ・・・ 本質の生成
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