4)対自における外化
「精神現象学解題」のタイトルでこれまでの記事において着目してきたキーワードは、即自存在と対自存在である。この即自存在と対自存在は、もともと現存在が分裂したものであり。その分裂は、意識の対自を契機にしている。つまり意識は、対自以前に意識ではない。意識は対自存在であり、対自において初めて自ら意識になるからである。しかもこの対自の始まりにおいても、意識はまだ自己を意識として自覚しない。この現存在に現れる意識の自己自身も、せいぜい眼前の肉体である。そもそも始まりの現存在には、物と意識の区別が無い。意識は直接知の実在として物を知り、それにより直接知の実在に外れた存在として意識を知る。意識がようやく自己を意識として自覚するのは、意識がこの物と意識の区別を知った後である。まず意識は、自らの意にならない存在を知り、それを実在する真理だとみなし、物として区別する。そして意識は、物に対立して現れる非実在の虚偽を、意識として区別する。この物と意識の区別は、自らの意にならない存在を、自己ならぬ実在として自己の外に押しやる意識の運動である。また実在の真を押しやることにおいて意識は、押しやっている自己自身に対峙し、自らを意識だと知る。このような対自を通じて、意識は自らの内と外を区別し、そして自己と他在を区別する。対自において外化は、この現存在の分裂として現れる。さらに言えばそれは、分裂において自己ならぬ現存在が物として現れることを言う。ここでの物と意識の区別は、そのまま即自存在と対自存在の区別になっている。またそれに加えてここで区別された物と意識は、その区別自体が意識に対して自立している。それゆえに意識は、この区別自体も自己の外に押しやる。ただしここで意識が外化するのは概念であり、先に意識が外化した物とはまた毛色の違う他在である。ちなみに形式上でこれらの一連の運動は、意識の対自において成立するので、意識の物理的外界を前提していない。即自存在と対自存在の区別がこの外化に始まる以上、ヘーゲル哲学に欠かせないキーワードでは、即自存在や対自存在よりこの外化の方が重要な位置にある。
4a)外化・疎外・物象化・現実化・実体化・区別・対象化…
外化とは、ヘーゲルの意図から言えば、精神の内なる本質が外なる対他存在として世界に現れ出ることである。そして「精神現象学」での最終的な精神の自己展開から言えば、世界も歴史も精神の外化した姿にほかならない。したがってその始まりの対自において、現存在の一部が意識の自己に対してよそよそしく物として現れるのも、やはり外化である。しかしこの外化における対他は、精神が物態を得る現実化なのか、または言葉や概念の意識形態を得る理念化なのかはどちらでも良い。それゆえにその外化の形式は、様々な変様を遂げて色々な局面で使用されることとなる。また同じ外化でも、意識の自己自身が意識の自己に対してよそよそしく現れるのは疎外と呼ばれている。ヘーゲルから離れて言えば、商品交換において価値が物として現れる物象化も外化である。それゆえにその簡易な使用可能性から言えば、労働や製作行為などの物理的な発現、すなわち理念の現実化や実体化だけでなく、単なる区別や対象化、または意識の物体化や間化までが実際には外化として現れるようになる。廣松渉の物象化論も、定型化した表現になることを片っ端に物象化に扱っている。むしろ外化に該当しない運動は、この世界に無いと言っても良い。なぜなら過去から現在が発現する単なる時間推移でさえも、理念が実現する運動でもあるからである。その意味では、内と外、または自己と他在の区別以前に意識に現れる限定、すなわち「これ」「今」「ここ」「我」の知覚の諸限定についても、それらは外化である。意識は始まりの現存在を内として、その中から特定の部位をその外に押しやり、それに対して「これ」と名付けるからである。さらに言えば、直接知そのものが既に外化である。なぜならそれは、対他存在として物態を得た内なる実体の現れだからである。
4b)観察理性と実践理性
上述した外化概念で言えば、物態にある対象を含めた全ての現存在は、外化した内在的理念である。現象とは内在的理念の現れであり、内在的理念とその現象形態は有機的に連繋しなければならない。内在的理念と諸現象の間の不一致は、それ自体がなんらかの内在的理念の現れである。そうでなければその現象形態はそもそも現象としての資格を失う。このような対象理解の仕方は、内在的理念とその現象形態の間に不可知の溝を設けるのを拒否する。逆に内在的理念と諸現象の不一致に断絶だけを見るなら、そこには必然的に内在的理念に対するヒュームやカント式の不可知論が醸成される。上述したように内在的理念が最初に外化した姿は、直接知である。この直接知に対応する不可知論では、当然のことながら、直接知の実体に認識不可能な物自体を立てるしかない。ヘーゲルはこの不可知の成立を、理性の自己否定がもたらしたものだと考える。その自己否定は、自己の実在確信もろともに直接知の確信を否定するからである。さらにヘーゲルはこの不可知論の反動として、この不可知に対抗する理性の無私が、フィヒテ式独我論やシェリング式自然哲学として現れると考える。その独我論では、理性の無私が自己と内在的理念の合一を可能にし、意識は神の視線を持つ。ただしその独我に現れる自己は個人意識ではなく、精神ないし自然である。しかし実際にはこの不可知論と独我論は、双方ともに不可知と可知、無私と独我の正反対の論調を内に含み、それぞれの要素の濃淡において様々な思想のバリエーションとなって統合する。例えば同じ経験論でも、ロックは実体に対して可知論でありかつ独我論ではないのに対し、ヒュームは不可知論かつ独我論である。ドイツ観念論においても、カントは独我論ではない不可知論であるのに対し、フィヒテは独我の可知論である。ただしヘーゲルにとってこの独我と不可知の思想的動揺は、ストア主義と懐疑主義の対立した思想の間で現れた動揺と同じ性質の精神の外化運動に過ぎない。すなわちその思想の動揺それ自体が、精神の自己展開なのである。
4c)経験的科学の成立以前の即自的精神
主奴関係で見た始まりの文章は、主語に意識を持ち、述語に肉体を措く対自である。その文章とは、「我(意識)はこれ(肉体)」である。この文章が表現するのは、意識による肉体の支配である。この意識による支配を受けない現存在があれば、それは意識ではないものである。意識はこの自らの対立者を、物として外化する。もちろん肉体も物なのだが、意識にとって肉体が随意であるのに対し、物は自ら自律しており随意ではない。それどころか物の自律性を前にして、意識の方が屈服することもある。ここでの物に対する意識の屈服は、意識の不幸の原型である。しかし意識は物の支配下にいるわけではなく、両者の関係は主奴関係の不成立だけで表現される。したがってそれは、意識の自己否定ではない。その主奴関係の文章表現は、単に主奴関係を否定した表現、すなわち「我(意識)はこれ(物)ではない」となる。一方で意識にとって、意識に対して現れる物の自律は、実在であり、不変の真として現れる。意識は、この自らの対立者において初めて実在を知ることになる。そのような物の実在表現が、「これ(物)はそれ(実在)である」、すなわち「物が在る」である。この文章が表現するのは、物による真理の支配である。一方で意識は、自らの対立者を物として外化したことにより、物態を離脱して空気のような意識へと純化する。つまり意識は、物との対立において初めて意識として現れる。物が無ければ、意識は意識の自覚を持つことは無い。同様に意識は物と言う他在との対立において初めて自己として現れる。他在が無ければ、意識は自らを自己として自覚できない。自己となった意識は、物としての肉体だけではなく、意識としての自己自身を支配する。この対自意識の主奴表現が、「我(自己)はこれ(=意識)」である。自己は意識を支配下に措くことにより、意識を自在にできるストア主義的自己暗示に至る。なるほど精神は対自において客観となった。しかしここまでの精神の進展は、やはりまだ個人の主観成立の範囲内にあり、まだ科学ではない。
4d)対自的精神における経験的科学の成立
意識は肉体の司令塔である一方で、肉体は意識の存立条件である。すなわちここでの肉体は、単なる物ではなく、意識の存立条件としての生命である。意識は食糧を見つけては、「我(自己)はこれ(食糧など)」だとして、生命維持をはかる。自己は食糧などを支配に措き、それらを自らの属性とする。それらの食糧は、もともと自己の身体ではない。しかし意識にとってそれらは、事実上の自己の肉体である。この肉体なしに自己は無く、意識も存立できない。意識は自ら生きるために肉体に屈服せざるを得ない。この意識の屈服は、既に現れた自律する物に対する意識の屈服の再現である。意識は自己が肉体であるのを思い知るたびに、意識のストア主義的自由について懐疑的になる。ここで先に現れている文章は、「我(自己)はこれ(生命)」、すなわち「我は生きている」であった。自己は生命を支配下に措いているつもりであり、なんなら死ぬこともできそうである。ところが自己は、実際には死ぬことができない。生命は自己の支配に反逆しており、その反逆において両者の主奴関係も、「これ(生命)が我(自己)である」と逆転する。同様に「我(意識)はこれ(肉体)である」も、「これ(肉体)が我(自己)である」に逆転する。意識による世界に対する主観的支配は終焉を迎える。それは、自らを主人と思いこんできた意識の挫折である。意識は自らが従属者であることを自覚し、不幸に至る。この意識の自己否定は、文章において意識の述語に甘んじて来た全ての物を、意識の支配から解放する。それは物を主語に措いた文章の始まりである。その文章では、かつての「物が在る」のような直接知ではなく、主語としての物が述語としての物を支配している。例えば「その木はリンゴである」「リンゴは赤い色である」と言うようにである。それどころかこの主語としての物は、肉体や意識を述語に措くこともできる。例えば「その人は私である」「それは私の錯覚である」と言うようにである。対自で現れた単純な客観は、経験的科学に推移する。ただしその観察理性は、経験論に留まる。なぜなら意識と肉体を除く二者の間にもともと主奴関係はないからである。例えば焼けた石における石の視覚形状と石の放つ熱は、両者が結合して「石が熱い」の文章になる。ただしそこでの意識に現れる視覚形状と熱は別種の情報であり、両者を結合したのは意識である。ここで石が主語となるのも、とりあえず意識の勝手である。また実際に熱そのものは石の属性ではない。経験論は客観を装うのだが、その内実はやはり独断なのである。ここでの結合の恣意は、経験論が持つ主観性として合理的精神に排撃されることになる。
4e)理性実現の方法論、および理性の資格としての自己疎外
意識の不幸がもたらす自己否定では、意識の自己にとって自己自身が他在のごとく現れる。それは自己が自己自身を物化する自己疎外である。しかしヘーゲルは、意識がこの疎外を通じて我欲から解脱し、神的認識に到達するのを期待する。ヘーゲルが考えるこの精神深化の弁証法の着想は、シェリングに対する反発と共感を一つの出発点にしている。ヘーゲル弁証法は、もっぱら個人の思い込みや思い入れを排除し、むしろ徳や良心の屍の上に期せずして真理と善を出現させる。そこにある精神深化の必然は、宗教的な求道精神から生まれるのではなく、むしろその否定と挫折から生まれ出ている。その否応なしに到来する必然は、恣意的偶然の対極である。そしてシェリング哲学は、ヘーゲルにとってその恣意的偶然となっている。シェリングの美的実存主義では、物自体の把握を可能にするのは天才の知的直観である。その直観主義の内実は、無媒介な直観において物自体を得る密儀である。その実現可能性は、天賦の才とせいぜい精神鍛錬に従うしかない。したがってシェリングにおいて物自体の把握は、機知と運の恣意的偶然がもたらす不確かな出来事である。つまりその物自体の把握は、不確実な把握である。そして不確実な把握とは、形容矛盾である。把握とはそもそも確実でなければならず、不確実であるならまだ把握できていないからである。そしてヘーゲルの批判も、この知的直観の非現実性に向いている。一方でシェリング哲学は、倫理確立における悪の役割を認める点でヘーゲル弁証法を用意するものでもある。またヘーゲルにおける外化した精神を自然として扱う発想も、シェリングの自然哲学に始まっている。シェリングの自然哲学は、スピノザを意識してフィヒテ独我論を改変したものだったからである。ヘーゲルはシェリングに対抗するために、知的直観を現実化するための方法論、そして対象認識を可能にするための意識の資格に腐心する。なぜならヘーゲルにおけるシェリング批判は、シェリングの意図を尊重し、その継承を実現するためのものだからである。もちろんヘーゲルにとってそのシェリング批判の先には、カントの不可知論および倫理観の超克と言う課題が控えている。 精神鍛錬が真理の把握に有効かどうかと言えば、それなりの知的訓練がなければ論理判断をできない以上、有効だと言えなくもない。しかし精神鍛錬が真理の把握を実現するとの考え方は、やはり観念論である。それは気の持ちようで終末的悲劇をも幸運に変える宗教的幸福論に繋がっている。ヘーゲルはストア主義を意識の独断として斥けているので、そもそもそのような宗教的幸福論も斥けている。しかし独断に対する懐疑も否定も、所詮独断である。どこまでも続く独断に嫌気を指す意識は、不幸にならざるを得ない。それに対して、この不幸こそが理性の始まりではないのか、と言うのがヘーゲルの考えである。そうであるなら、真理の把握はこの不幸を通じてのみ実現可能なはずである。キェルケゴールにも繋がるこの発想により、ヘーゲルの必然の知はシェリングの偶然な知を超えることになる。ただしヘーゲルにおけるこの自己否定は、デカルトの方法的懐疑やフッサールの判断停止のような形式を得た思考方法ではない。それゆえにその自己否定に対する肯定は、自己否定に疲弊して自らを振り返る意識に与える一種の気休めに留まっている。かつての共産主義はこの自己否定の儀式化を試み、自分が過ちに気づいて自己否定するのではなく、過ちを納得してもいない他人に自己否定を要求する不可解な文化を生み出した。しかし内実としてそれは、非主流派を党内権力者に屈服させるための精神的な集団強姦行為であり、思考方法として確立することは無かった。意識改革により真理を得る発想は、そもそも唯物論ではないからである。唯物論とは、現実改革において真理を得るのを目指すものである。その点で言えば、余程ヘーゲルの真理把握の方向性は唯物論である。シェリング式に意識改革に真理把握の可能性を探す思惟の運動は、ショーペンハウアーやキェルケゴール、そしてフッサールを経て実存主義へと到達する。実存主義が崩壊した現在でも、意識による真理規定の思考方法としてフッサールが考案した判断停止などが残された。ただし結局それらもまた、意識改革により真理把握を目指す観念論であるのに変わりは無い。ちなみに理性実現の方法論としての自己否定が求めるのは、自己利害の廃棄であり、自らの生死の超越である。決意による死の超越を考える実存主義と違い、唯物論は生活不安の廃絶においてその現実化を目論むものである。(2017/06/16)
ヘーゲル精神現象学 解題
1)デカルト的自己知としての対自存在
2)生命体としての対自存在
3)自立した思惟としての対自存在
4)対自における外化
5)物質の外化
6)善の外化
7)事自体の外化
8)観念の外化
9)国家と富
10)宗教と絶対知
11)ヘーゲルの認識論
12)ヘーゲルの存在論
13)ヘーゲル以後の認識論
14)ヘーゲル以後の存在論
15a)マルクスの存在論(1)
15b)マルクスの存在論(2)
15c)マルクスの存在論(3)
15d)マルクスの存在論(4)
16a)幸福の哲学(1)
16b)幸福の哲学(2)
17)絶対知と矛盾集合
ヘーゲル精神現象学 要約
A章 ・・・ 意識
B章 ・・・ 自己意識
C章 A節 a項 ・・・ 観察理性
b/c項 ・・・ 観察的心理学・人相術/頭蓋骨論
B節 ・・・ 実践理性
C節 ・・・ 事自体
D章 A節 ・・・ 人倫としての精神
B節 a項 ・・・ 自己疎外的精神としての教養
b項 ・・・ 啓蒙と絶対的自由
C節 a/b項 ・・・ 道徳的世界観
c項 ・・・ 良心
E章 A/B節 ・・・ 宗教(汎神論・芸術)
C節 ・・・ 宗教(キリスト教)
F章 ・・・ 絶対知
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