本質はそれ以上の遡及を許さない絶対的根拠である。その存在はもともと一方で直接的存在の否定において現れる量であり、他方でその前提であった直接的存在としての質である。当然ながらそれは根拠においても妥当し、それぞれが一方の量の形式、他方の質の質料として現れる。しかし形式の無い質料は無く、質料の無い形式は無い。結局両者は統一して仕事内容を成し、形式は仕事手順としての根拠づけ、質料はその制約する材料となる。両者のそれぞれが体現するのは、もともとの直接的存在の本質的存在と非本質的存在である。異なる二者の統一は、材料を根拠づける仕事、すなわち事の全体である。そしてその全体が自らを直接的存在すなわち物体として擁立するなら、それは実存する。この大論理学本質論における根拠論は、マルクス資本論における商品像の基礎にあり、続く現象論ともどもに資本論の価値および資本生成の弁証法を基礎づけている。ただしここでは形式と質料の相克、または根拠と制約の矛盾についての具体的な論究は無い。したがって無根拠で自由な直接的存在から排除された諸部分の非実存についても語られない。そしてこのことは現象論における実質的に実体と相関しない現象相互の調停運動と無関係ではない。以下では存在論から概念論への橋頭保として、存在論の抽出的概括を行ったヘーゲル本質論の前半部分を概観する。
[第二巻本質論 第一篇「自己自身における反省としての本質」の第三章「根拠」の概要]
存在から派生する印象と反省、および反省の諸契機と根拠についての論述部位根拠としての本質が実存に至るまでの遷移的諸形態についての論述部位
・絶対的根拠 …遡及不能な反省の最後の限定としての本質。所与として廃棄される直接的限定の根拠
・形式 …根拠づける自己自身と根拠づけられる自己の同一性から区別された根拠づけの関係。
・質料 …形式による限定の前提となる無限定な他者としての自己の同一性。
・内容 …形式と質料の統一であり、両者の根底。擁立し擁立される存在の形式の反省。
・限定された根拠…内容を形式づけられた質料であり、形式の根底を成す内容。しかし根拠-被根拠の同語反復。
・実在的根拠 …限定された根拠から他在を個物として外化し、本質と個物の二つの根底に分裂したもの。
・完全な根拠 …本質と個物を両端にし、二者を媒介する第三者的個物。擁立され根拠づけられた存在としての個物を根拠づける限定された実在的根拠。
・制約 …根拠づけの前提である内容限定が前提する形式のさらなる前提。根拠づけの内容を形成する無根拠な材料
・事(仕事) …根拠づけの形式と材料としての制約が統一した全体。
・実存 …全体が無根拠な直接的存在として擁立された事。根拠と制約を媒介にし、その媒介した根拠と制約の廃棄により自己自身と一致した直接性。
1)絶対的根拠としての本質
積極者と受動者の対立は、一者の内の矛盾として反省される。そしてこの反省は、積極者と受動者を根拠の過去的契機へと没落させる。それらの擁立された存在はこの没落において廃棄されるので、根拠は反省の最後の限定となる。すなわち限定の遡及は、根拠を超えて行われない。すなわち根拠は自己原因である。したがって自らを根拠として限定する本質は、無限定者である。この無限定者との比較で言えば、所与として現れた直接的限定は、廃棄された存在、または根拠により擁立された存在にすぎない。本質は根拠となることで初めて自己を本質として擁立する。この本質の自己擁立は、本質の過去の自己自身の廃棄でもあり、本質固有の反省の姿になっている。それは反省の反省であり、その否定の否定において根拠を自己同一的な直接的存在に復帰させる。以前の反省が自立的な関係項を持たない点で無の関係にすぎなかったのに対し、この本質の反省は廃棄された反省を含む点で実在的な反省になっている。全ての物はその十分な根拠を持つ、とする根拠命題に従えば、全ての物は因果に縛られる。しかし根拠自身は根拠を要しない。それゆえに根拠自身は因果と対立する。ここでの根拠の因果は根拠づけの関係であり、それは物の機械的因果を包括する概念の関係であり、すなわち目的論的因果である。ライプニッツは目的因を究極原因だと考えている。
2)形式
根拠は自己自身を、擁立されたものとして擁立する。このような根拠の限定は、根拠に擁立された自己自身の廃棄であり、擁立する自己の擁立である。したがってここでの根拠は、自己を擁立するものとして擁立される。ここでの根拠における先の限定は廃棄され、後の限定が擁立される。しかし後の限定においても根拠は、自己自身を擁立されたものとして擁立する。そこで先の根拠関係の逆転は、再び逆転して元に戻る。それゆえにこのような根拠としての本質は、根拠づけるものと根拠づけられたものの二つに限定される。ここでの根拠づけるものは積極者であり、根拠づけられたものは受動者である。それぞれの自己同一性は、一つの本質の同一性に統一される。ただしこの両者の統一は、両者を媒介した根拠づけの関係と自己を区別する。この根拠づけの関係は、1)で述べられた本質の固有の実在的な反省である。形式とは、この根拠づけの関係が本質から外化したものを言う。形式の根底として本質の存在を成すのは、本質の同一性である。しかしそれは擁立された存在である。その擁立では、形式が存在を限定する。ここでも本質は根拠づける形式と根拠づけられた同一性の二つに限定される。すなわち本質は、その同一性と形式の統一における本質としての根拠である。
3)質料
形式が限定する他者は、自己の同一性である。この同一性は限定の前提であり、したがって無限定存在である。質料とは、この無限定存在を言う。2)で見たように、形式は本質の実在的な反省である。したがってこの反省において現れるものが質料なら、質料は本質である。形式が質料を前提するのに対し、根拠としての質料に前提は無い。形式と区別される質料は、区別も無く無形式な物自体として現れる。ただしこのことは形式自身にも該当する。形式自身が形式と区別されるなら、それは区別も無く無形式な同一性だからである。すなわち形式自身は質料であり、したがって質料を前提しない。一方で質料を限定する形式は、形式に限定される質料の受容性に限定される。それゆえに質料は形式を限定しており、その限りで形式を含む。このように形式と質料は、相互に限定し合っている。両者は同一性において外的でありながら、内的に相手を自らに含む。この相互前提は、両者の外的な関係および両者の擁立された存在を廃棄し、両者の統一すなわち内容を擁立する。内容において形式と質料は、既に非本質的な過去的契機になっている。
4)内容
形式は本質の実在的な反省なので、最初に根拠づけの関係として本質に対立し、次に限定する反省として質料に対立した。形式と質料は統一されて、内容として擁立される。しかし形式は形式の質料から見ると、擁立する積極者である。すなわち形式に対立する根拠や質料は、内容においても形式が構成する。それゆえに形式は内容に対しても、内容を限定する形式自身として対立する。このように形式と内容は、それぞれの自己同一性において外的である。しかし一方で内容は、形式と質料の根底として擁立されている。したがってこの擁立された内容は、擁立された形式と擁立する形式の二形式の反省である。この反省において二形式は、二形式の根拠づけの関係に統一される。そしてこのような根拠づけとしての形式が、内容の形式を成す。先に示された根拠は、無限定な質料としての本質であった。しかしここでの根拠は、内容を形式づけられた質料である。それは自己に復帰したところの限定された根拠である。ところがこの内容は、擁立された同一性である。したがってそれは、根拠づけの関係としての形式に相変わらず対立する。それゆえにその同じ根拠は、一方で形式として限定され、他方で根拠の内容として限定される。
5)限定された根拠(根拠-被根拠の同語反復)
限定された根拠は形式の根底であり、内容である。それは自己否定的同一性として擁立された存在である。この根拠では積極者と受動者、根拠づける形式と根拠づけられた同一性の各限定は廃棄されている。根拠づける存在と根拠づけられた存在の二限定は、内容における一限定へと統一される。一方で自己否定的同一性は、自己自身の廃棄と自己の擁立において、形式自体の固有の媒介である。それは自己自身と自己を、根拠づける存在と根拠づけられた存在として区別し、かつ統一する。しかしこの自己否定的統一において根拠づける存在は根拠づけられた存在であり、根拠づけられた存在は根拠づける存在である。二つの根拠の関係は、同じ内容を根底にした二限定の互いに逆方向の根拠づけ関係に留まる。それは一方で根拠づけられた関係として捉えられ、他方で自己に反省した限定存在として捉えられる。しかしその両者の内容は同じであり、結局その根拠づけの関係も同じである。この限定された根拠では、内容と形式に差異は無い。しかしこれは説明ではなく、ただの同語反復である。この内容と形式の同一は、運動する二者の等距離を引力で説明し、引力を運動する二者の等距離で説明するような虚しい同一性として現れる。この空無な同一性は、内容と形式の区別を要請する。
6)実在的根拠(区別された根拠-被根拠)
根拠の限定は、一方で内容を限定する根底、他方で根拠づけが示す他在、すなわち内容と区別された形式として現れる。ここでは根拠づける存在と根拠づけられた他在が区別されており、両者の内容に差異がある。この差異は両者の形式的な根拠の関係を廃棄し、根拠を実在化する。とは言えこの実在化にあたっても、根拠づけられた他在は、根拠づける存在の内容を含む。その含まれた内容は、根拠づけられた他在において根拠づけられた内容である。したがってこの根拠づけられた内容は、根拠づける存在の内容と根拠づけられた他在の内容の統一である。ところがこの統一における二つの内容は、固有の同一性に基づく外的な関係にある。そこでこの外的な結合は、根拠づけられた他在を個物として外化する。すなわち個物とは、根拠づけにおける二つの存在の差異が実在化した根底であり、内容と区別された形式である。個物は根拠づけられたことにおいて根拠としての本質を含み、それに本質ではない形式と外的な内容を付加している。ただし本質は非本質の根拠ではなく、本質と非本質の関係の根拠でもない。またここでの本質と非本質の結合も外的であり、そこに擁立された内容は無い。その結合はただの根底に留まる。このことから実在的根拠は、本質と非本質の同一を成す本質的な内容、逆に区別された内容の外的結合である個物、の二つの根底に分裂する。それは、区別された二つの内容の関係であり、根拠づけによって擁立されない他者との関係である。
7)詭弁の根拠
限定された根拠の場合、根拠づける存在と根拠づけられた存在は、言い換えに等しい同一内容であった。これに対して実在的根拠の場合、それらの相関が異なる内容の偶然な結合として現れる。しかしその根拠づけは、他の諸限定に対して通用せず、恣意的である。このためにそこで示される根拠も、限定された根拠と同様に形式的である。したがってこの偶然な結合では、根拠づける本質と根拠づけられた個物の関係は外的になる。なぜなら個物は根底であるにせよ、根拠としての目的ではないからである。端的に言えば実在的根拠の根拠づけは、個物同士の恣意的な結合にすぎない。それらの結合は全て偶然であり、自然はこの偶然な相関の全体として現れる。このような偶然な結合に、その結合を本質的限定たらしめるような基準は現れない。そのような基準は、単純な根拠づけ関係ではない。それは、根拠関係を限定する第三者において現れるこれらの根拠関係の総体である。例えば刑罰は罪と罰の結合である。個物の偶然な結合から言えば、罰の根拠は単純に罪である。しかし刑罰の目的は、報復や矯正、社会秩序の回復や反対者の弾圧などであり、その総体である。この総体から言えば、罪を含めて個々に挙げられた根拠は、特殊において偶然ではないにせよ、一般に外的な偶然である。したがってそれらの根拠のそれぞれは、相反する主張の根拠を含む。そしてこの根拠の含む偶然が、詭弁を根拠づける。
8)完全な根拠(根拠-被根拠の媒介的同一)
実在的根拠の根底は、根拠としての本質的内容、および根拠づけを体現する個物に分裂している。個物は本質と非本質の異なる内容の外的結合であり、結合において根拠として廃棄されている。そしてそれは擁立された存在なので、根拠づけられている。したがって根拠としての自己を廃棄した実在的根拠は、その代わりに第三の根拠を擁立する。この根拠づける第三者の内容は、実在的根拠の内容を含む。ただしこの第三者における個物は、異なる内容の外的結合を廃棄しているので、それらを内的結合している。この第三の根拠は、限定された根拠に回帰した実在的根拠である。それゆえにその根拠づけは完全である。そしてそのように第三の根拠は、本質と個物に分裂した根底を媒介する個物として現れる。二つの個物は根拠づけの両端を成す一つの全体である。二つの個物は同一なので、それぞれが限定された根拠として同一内容でありつつ、実在的根拠として実在する。とは言え、第三の個物における本質と非本質の異なる内容の根拠づけは、もともとの個物が含む異なる内容の根拠づけから推論されたものである。したがってその根拠づけの全体は、第三の個物の中で根拠づけられて擁立されている。このことが明らかにするのは、実在的根拠が外的反省だと言う事である。ちなみに外的反省とは、自己と自己自身をそれぞれ排他的自己関係と直接的存在として擁立し、自己の前提に他者を擁立する推論に転じたところの擁立する反省を言う。そして擁立する反省とは、自己の前提に自己自身を擁立し、擁立された自己自身を廃棄することで自己に復帰する前提行為を言う。したがって実在的根拠が根拠づけるのは、廃棄された根拠づけである。この根拠づけが、廃棄された根拠づけの根底を根拠として擁立する。
9)相対的無制約者(制約と根拠)
根拠づけの前提は直接的な内容限定である。そして内容限定は形式を前提する。この形式のさらなる前提に制約がある。それは根拠づけを媒介にして、自己自身として外化された自己の直接的存在である。しかしそれは実在的根拠の前提として現れた自己の他在である。したがってそれは直接的な限定存在であるが、個物に関係づけられた対他存在として擁立される。ただし制約自身においてこの限定存在は廃棄されており、制約は自ら制約であることに無関心な直接的存在に復帰している。それは自己同一性に復帰して形式から自由になった根拠づけの内容である。ただし最初のそれはまだ根拠づけの即自的な内容であり、根拠づけの内容を形成する材料でしかない。しかし制約の対他存在は、この無関心を放棄して根拠の即自存在を形成する無制約者となる。とは言えこの制約は、個物の根拠ではない。個物の根拠は、自己自身の制約を否定して自己を擁立する自由、すなわち積極者としての根拠づけである。その根拠づけの内容は、制約を前提にする直接的存在である。ただしそれは制約と別の無制約者である。この根拠づけの内容は、根拠の内容として本質の形式を得ている。これに対して制約の内容は、根拠づけの内容を形成する材料に留まる。それは根拠づけと無関係な内容の混成体である。それゆえに制約の形式は、本質の形式から外れている。またそれゆえに制約の内容は、根拠づけられない。そしてこの無根拠のゆえに制約は、根拠の即自存在である。しかしその即自存在は、根拠を彼岸にして擁立された無根拠である。ここでの制約と根拠は、ともに相手に対して無制約な同一性であるが、互いに廃棄された契機として現れる点で相対的な無制約者に留まる。
10)制約と根拠の癒合
無制約者としての制約を見直すと、それは根拠づけの形式の全体である。そしてその限定存在は、根拠づけの前提として擁立される。この限定存在の形式は、一方で自己を根拠の材料とし、他方で自己を根拠の即自存在とする。しかしこの限定存在は廃棄された根拠づけなので、形式における材料と即自存在の二面も外的関係に留まる。ただし限定存在にとってこの形式の二面は、自己自身と自己である。すなわち限定存在の形式は、反省に等しい。そこで制約としての限定存在は、反省の自己否定的同一を通じて他者としての根拠の本質となり、したがって根拠の即自存在となる。それゆえに制約の即自存在は、根拠の本質性である。またこのことが制約の限定存在を直接的にする。このような制約の自己否定は、脱自において自己を根拠にする。しかしそれは根拠づけられた根拠である。ここでの根拠づけるものと根拠づけられるものは、同じ一つの制約になっている。一方で脱自の自己否定は、反省の前提作用でもある。すなわちそれは自己自身を否定し、それを他者として自己に対立させる。しかしそれは、反省の自己同一的な擁立作用でもある。このような反省が自己の即自存在を成し、その内容を自己の内容にする。そしてこのような擁立作用の自己同一な反省が、根拠である。ここでも根拠づけるものと根拠づけられるものは、同じ一つの根拠になっている。いずれにおいても制約の即自存在と限定存在の直接性は、根拠づけの契機にすぎない。結果的に制約と同じく、無制約者としての根拠も、根拠づけの形式の全体である。
11)絶対的無制約者(仕事としての事)
制約と根拠のいずれにおいても、存在するのは根拠づけの形式の全体である。ここでの制約の内容は、根拠づける直接的限定存在である。その限定存在は、根拠の前提的反省により制約として現れる。したがってそれは、根拠が自己と区別した自己の内容である。結果的に存在する内容を見ても、存在するのは根拠づけの内容の全体である。それゆえにこの限定存在は、形式の無い材料ではなく、形式づけられた質料になっている。すなわちこの形式と質料の統一は内容である。もちろんこのことが表わすのは、制約の内容と根拠の内容の同一である。この制約と根拠の統一は、両者を二面にして排他的に相互移行する全体へと導く。それは相対的無制約者を統一した絶対的無制約者、すなわち事(仕事)自体である。制約と根拠はこの絶対的無制約者の中で廃棄され、それの過去的契機となる。今ではこの無制約な事(仕事)が、制約と根拠のそれぞれの制約であり、根拠である。それは一方でまとまりの無い多様な制約として自己自身を外化する。この多様な制約は自己の他者としての根拠づけの形式に関わり、その即自存在となる。他方でこの無制約な事(仕事)は、自己を根拠づけの内面的形式に外化する。この形式は自己の他者として現れる直接的存在に関わり、それを制約として限定する。ここでは一見すると事が、制約と根拠を前提にするかの外観を呈する。しかし実際は逆に制約と根拠が、全体としての事を前提にする。制約と根拠は事において廃棄される印象であり、事だけが現実存在である。
12)事における制約
事は自己の制約に等しい根拠である。それは脱自において自己自身を否定し、自己を擁立する擁立された存在の全体である。それは廃棄された根拠としての制約を一方の側面とする。しかしそれは没反省的かつ外面的で没形式な物体である。ただしそれは存在の領域に現れた反省である。それは一方で存在の領域の中で、没形式を自らの形式とした質料を内容にする。しかし他方でその内容は、その没形式において存在の領域から外れた多様を含む。そこでこの存在の領域を外れた内容は、無の直接性において自己を表わす。それゆえに没形式な存在と存在しない内容の統一により、無が存在に反転する。すなわちそれが成である。この存在の生成は本質の生成であり、根拠への復帰である。ただしここで生成した限定存在の起点は無であり、直接的存在としての自己ではない。したがってここで現れ出た限定存在の直接性は単なる前提である。それは根拠づけの反省においてのみ現れる印象にすぎない。また上記で示されたように、無の存在への成も印象である。無制約者の自己が前提するのは自己自身であり、無制約者はそのことを自己の形式とする。存在(無)の直接性は、この形式が擁立されるための契機にすぎない。
13)事における根拠づけ
事の一方の側面が制約なら、他方の側面は形式としての根拠づけである。それは制約と内容の直接性に対立して現れる間接性である。まずそれは、事における自己自身を前提する自己の形式である。そしてこの形式は、事の内容自体に含まれている。事は内容を限定して制約とするにあたり、形式以外の直接的内容を廃棄された契機、すなわち個物に変える。これにより直接性は、形式および根拠づけの側に移る。ここでの直接性の喪失と転移は、制約における没形式と内容の統一と同じものである。したがってここでも直接性の喪失と転移は、本質の生成、および根拠への復帰として現れる。しかし復帰において擁立された根拠は、やはり個物としての制約である。そこで根拠づけは、この制約にすぎない根拠を廃棄することで自らを根拠たらしめる。この制約にすぎない根拠の廃棄は、根拠の被擁立性の否定であり、すなわち根拠の間接性の否定である。それゆえに本質の生成において根拠の間接性は消滅する。このことから制約と根拠によって擁立される事の運動は、常に間接性の印象が消滅した直接的運動として現れる。その運動における生成は、単に擁立されたものではなく、事自体の出現である。それは事の現実存在への自己表出である。
14)実存
或る事の全ての制約が現に存在するなら、言い換えると、或る事の全体が無根拠な直接的存在として擁立されるなら、さらに言えば或る事の全体が物体として擁立されるなら、この或る事は実存となる。もともと事は実存する以前にも本質として、また無制約者として存在し、制約と根拠づけの二重の限定存在を持つ。制約における事の限定存在は、外面的で無根拠な直接的存在としての個物である。制約全体がこの無根拠な個物として擁立されるなら、事の全体が限定存在する場所も、制約全体が含む個々の多様な制約に移る。ただしこの遷移はむしろ事全体の物化であり、個々の事の限定存在化である。ただし限定存在は制約なので、その限定も形式に従う。この遷移はまず事全体の直接的限定存在の没落であり、根拠づけの生成である。しかしその根拠づけは擁立された根拠であり、根拠として廃棄された直接的存在としての個物である。そこで制約は前提された個物としての自己を廃棄し、それを印象とする。したがって事の実存への自己表出は、事が事になるだけの同語反復的な運動である。なるほど事は根拠の中から出現する。しかし根拠は擁立された自己自身を廃棄することで、擁立された根拠づけと制約としての自己との区別を消滅させる。これにより根拠づけは制約と合一して消滅し、事の自己は直接的存在を得る。根拠の真理は、このように根拠づけるものが根拠づけられるものの中で自己自身となることにある。それだからこそ事は無根拠な無制約者である。したがって実存は、このように根拠づけと制約を媒介にし、その媒介した根拠づけと制約の廃棄により自己自身と一致した直接性になっている。
(2019/06/26) 続く⇒(ヘーゲル大論理学 第二巻本質論 第二篇 第一章) 前の記事⇒ヘーゲル大論理学 第二巻本質論 第一篇 第二章)
ヘーゲル大論理学 本質論 解題
1.存在論と本質論の対応
(1)質と本質
(2)量と現象
(3)度量と現実性
2.ヘーゲル本質論とマルクス商品論
3.使用価値と交換価値
ヘーゲル大論理学 本質論 要約 ・・・ 本質論の論理展開全体
1編 本質 1章 ・・・ 印象(仮象)
2章 ・・・ 反省された限定
3章 ・・・ 根拠
2編 現象 1章 ・・・ 実存
2章 ・・・ 現象
3章 ・・・ 本質的相関
3編 現実 1章 ・・・ 絶対者
2章 ・・・ 現実
3章 ・・・ 絶対的相関
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます