唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル大論理学本質論 解題(第二篇 第二章 現象) 

2020-11-08 15:32:59 | ヘーゲル大論理学本質論

 ヘーゲル大論理学は、存在論・本質論・概念論の構成が示すようにアリストテレスやパルメニデスを敷衍する色彩が強い著作である。その色彩の強さは本質論ではさらに強まり、それをアリストテレスに留まらず、プラトンを含めた古代ギリシャ哲学の総決算を意識したものにしている。前章の実存論で此の物Diesesとして現れた完全限定された物体は、どのように実存であり本質であるのか? 対立するとみなされている両者の関係を紐解き、その分裂と変転を示したのがこの現象論である。第一篇の根拠論で示された事としての個物の実存は、ここでは他在を生成する根拠関係として復活する。それがもたらすのは、カント不可知論において分断されていた物自体と現象の完全な結合である。ただしこのヘーゲルのダイナミックな論法は、一方で根なし草の観念論のほころびを隠せていない。このことは対立する実存の調停が、ただの融和で解消されることを予感させているからである。

[第二巻本質論 第二篇「現象」の第二章「現象」の概要]

 現象における本質と実存の相関を、単なる他者への反省から、他在への反省へと展開し、根拠関係を生成移行関係に変えた論述部位
・現象     …反省された実存の中にある実存の本質。
・現象の法   …現象の自己同一的内容が、実在する多面的差異を限定する関係。
・現象世界   …現象の多様と同一性の全体。すなわち本質ではない区別、および法として反省された本質の全体。
・本質形式の法 …現象の反省された静的同一性。
・実存形式の法 …現象における本質ではない内容を限定する動的な物体運動。
・法の国    …本質形式に始まり、実存形式に至る法による実存支配。
・超感覚的世界 …現象世界の上位に位置する実存形式の法が実存を支配するイデア世界。
・他在への反省 …超感覚的世界と現象世界の対立により復活した生成として現れる実存の根拠関係。
・逆転世界   …対立する実存の根拠関係が純化した姿。
・本質的相関  …対立して否定し合う超感覚的世界と現象世界の反省された全体としての法。


1)実存の本質としての現象、および本質ではない現象

 現象は直接的実存ではなく、反省された実存の中にある実存の本質である。言い方を変えると、物体の本質的な対他存在が現象である。個物が現象にすぎないと言われるのは、それが反省において擁立された存在だからである。それゆえに擁立されていることが、現象を構成する。この実存を現象たらしめる反省は、実存自身に属する。したがって外的反省で捉えられる現象と違い、現象は実存の本質から分離されていない。また反省された実存の一方に在る直接的実存は、本質を持たない現象である。それは実存の本質としての現象より低次な現象である。外的反省は直接的実存を現象より真実だと思っているが、実存は現象することでのみ本質を持つ。本質は単純な同一性の抽象的反省から始まり、外化された抽象的反省の実存において現象する。したがって現象は自己自身を自己否定的に媒介する物体である。それは自己否定において存立する矛盾した実存とその表出の統一である。このような実存の本質としての現象は、本質ではない現象と区別される。この二つの現象は相互関係にあり、第一にそれは現象の同一性と内容限定の関係、すなわち現象の法として現れる。そして第二にその法は現象世界に対立する即自世界として外化する。さらに第三にその両者の対立が根拠に復帰し、現象は対自存在と即自存在の間の本質的相関となる。


2)現象の法

 実存は否定の否定において恣意的な自己自身から復帰した自己である。ただしここでの否定者は、この実存と別に自立する他者である。したがって実存は、根拠と他者により擁立される。この他者は実存を媒介したように現象も媒介する。しかしこの他者も擁立された存在として、擁立する他者をもつ。それゆえに実存の本質の自立性は、無の無に自己復帰する根無し草の自立性である。したがって交互作用の両項は、一方の実在が他方を実在させるわけではない。それらはただ一方が他方により擁立されるだけであり、この関係が両項を実在させる。そこでの根拠はただの前提にすぎない。しかしこの現象の消極的媒介者において、擁立された存在を擁立する無根拠は、一つの積極的同一性である。その自己否定は、他者を否定することで自己自身との関係に復帰する。つまりその自己は実存している。ただしその実存の反省された直接性は、直接的実存の直接性に対立している。その内容は本質でなく偶然な外面的直接性の形式にある。しかしそれは恒常的で自己同一なものとして擁立される。すなわち現象における本質ではない多面的差異は、その本質を単純な区別にまで還元する。ただしこの自己同一的内容は、多面的差異と無関係な実在である。とは言えそれは、多面的差異として現れる他者を実在させる。もちろんこの相関は、物自体と現象の根拠関係が逆転したものである。ただしここでの物自体は単純な区別として内容を持つ擁立された本質である。そしてこのような非本質と本質の統一が、現象の法である。それは現象の積極的媒介者である。現象は空な直接者であり、現象の法はその反省であり、両者は形式的に区別される。しかしその多様としての区別と同一性は、内容的に繋がっている。両者は一つの全体として現象世界を構成する。


3)本質と実存の法

 法は現象の静的な本質である。一方で現象における本質ではない内容は、法と別の他者に限定される。その他者は現象の変化する実存形式であり、現象の動的な本質を構成する。それは反対者への移行、および自己廃棄の運動法則である。先の本質の静的法則は、後の本質ではない運動法則を含まない。しかし後の本質ではない運動法則は、先の本質の静的法則を含む。それゆえに後の運動法則がむしろ現象の全体である。それは本質の法ではなく、実存の法である。とは言えこの本質と実存の二つの法の繋がりは外的であり、その全体的統一に必然性は無い。すなわち動的法則が静的法則を含むことは、直接に擁立されただけである。このことは運動法則がもともと時間と空間の大きさの必然性の無い結合で擁立されていることにも現れている。このような法における必然性の欠如は、時間と空間の大きさと別に、運動の必然性を要請する。静的法則は現象の積極的本質であるが、それは否定的本質ではない。それゆえに静的法則は、本質的形式なのだが実存形式ではない。否定的本質での法は、自己を廃棄して他者に移行する。


4)法の動的変化

 実存の世界は法の国である。この世界に現象する多様な限定存在の虚しい内容は、他者の中に移される。したがってそれらの現象の自己同一性も、他者の中に法として擁立される。しかしこの法は現象の根底であるが、根拠ではない。あるいはこの法は静的な本質の法であるが、動的な実存の法ではない。そこでの現象の自己同一性から外れた内容は物体としてあり、同じく現象として実存する他者一般に反省する。したがって現象する諸物体の根拠づけと制約は、他の現象する諸物体の中にある。一方で法は現象自体の他者、すなわち実存の他者である。したがって法の内容と異なるものは、自己の無へと反省する実存である。それは他者へと反省する実存なのだが、その他者もまた別の他者へと反省する実存である。この他者と別の他者に差異は無く、それゆえに他者の他者への反省はそのまま自己への反省に復帰する。この他者の他者が自己であるのは、もともと他者が脱自した自己の自己自身であり、自己自身の自己だからである。そして法は、擁立された存在の自己反省である。したがって法の内容と異なる実存においても法があることになる。ここでも現象する法は自己の無へと反省しており、同様に他者へと反省する実存である。しかしこの法は現象の根底に留まるものではない。それは自己に現象を排他的に統一する。このような静的法則の動的法則への変化は、自己と自己自身の形式的自己反省に過ぎなかった静的法則における、自己と自己自身の相互否定がもたらした実在的統一である。ただし上記でも述べたように、この法の排他的統一にはまだ必然性が欠けている。


5)超感覚的世界

 上記の法の変化は、実存の世界としての法の国を超感覚的世界に変える。ここでは全体の一側面に過ぎなかった法が、本質ではない変転の契機を含む現象全体を反省している。この反省された現象は、自己自身を自己に復帰した現象の即自かつ対自の世界であり、現象世界の上位に位置する超感覚的世界である。ただしこの世界の超感覚性は、感覚的な直接的実存との対比でそのように呼ばれるだけである。むしろこの世界は、本質ではない変転の契機が形式として実存し、その実存の多様な内容の統一を内容とするような真の実存世界である。直接的実存としての物体は、反省された実存の端緒である。しかしその真の実存は、この超感覚的世界の物体になることで擁立される。その実存する物体は、真理として擁立されており、ただの実在ではない。そしてこのような限定が、一方で実存を感覚や感情の直接的実存から区別し、他方で物体や力などの無自覚な内的限定を自覚的な反省に引き戻す。しかしこの世界自身は、本質と現象の双方に対する絶対的な無または形式である。それはこの世界を全体という一側面に限定する。それゆえにこの世界は、自己が含む対立に従って本質世界と現象世界に分裂する。この現象世界は本質世界を根拠にして擁立され、本質世界との対立の中で没落する。一方の本質世界は自己の絶対的形式との対立において自己同一性を廃棄し、自己を擁立された現象世界に転じる。


6)逆転世界

 超感覚的世界は、現象世界の多様な内容の統一を内容とする。それは現象世界の内容全体を網羅した全体である。したがって超感覚的世界と現象世界は、その全体において同一である。しかし本質世界としての超感覚的世界は、現象世界の根底であり、それらの形式的な全体である。そして現象世界は、法の擁立された他者である。その非本質は常に形式的な全体からはみ出す。それゆえに両者の同一は、相互に否定し合う。すなわち超感覚的世界と現象世界は、対立する。そこでの両者は、互いに単なる相手の他者一般ではなく、相手の固有な他者である。そしてそのようなものとして両者は同一である。言うなれば両者は、自己自身と異なる自己における、自己と自己自身の脱自の関係にある。この相反する一方は常に他方の内容限定を含む。したがって超感覚的世界と現象世界は、法の対立した両面である。しかしその矛盾により両者の対立は没落して根拠関係に転じる。それは、否定し合う同一な両者の間における根拠関係の復活である。ただしそれは論理的な同一律ではないし、法における差異する二つの内容の関係でもない。端的に言えばそれは、単なる逆転関係である。一見するとその逆転関係は現象の因果的相関だが、まだ現実の因果ではない。それでもさしあたりそれは生成であり、移行である。これにより現象する世界の形式は、他在への反省となる。すなわち他在の生成がその反省である。その生成された他在は、他者としての自己であり、自己自身としての他者である。根拠づける超感覚的世界、および根拠づけられる現象世界は、その因果的相関において単なる対立を超えた逆転となる。その相関における両者は、相手が出っ張るから自らがへこみ、一方が正義であるから他方が異常なのであり、自己自身が不幸だから自己の幸福を目指すような相互関係に在る。


7)本質的相関

 もともと対他存在としての現象世界は、その根拠と存在が他者の中にある。しかしその反省された実存は、他者の他者としての自己に復帰した法である。また即自かつ対自存在としての超感覚的世界は、自己同一な根拠として区別である。しかし区別は他在の関係であり、自己同一な自己自身と対立する。そこで超感覚的世界は、根拠としての自己を廃棄し、無根拠な直接的実存として外化する。このような現象世界の本質への変転、および超感覚的世界の外化は、対立する両者の区別を消滅させる。そこにあるのは二つの全体に反発する一つの全体である。そこでの法は生成において物体となり、消滅において観念となる。それゆえに法は本質的相関である。現象世界の真理は、現象世界の他者としての超感覚的世界であった。しかしこの超感覚的世界は、非本質を含む現象世界の全体である。二つの世界の実存は、共に相手の反省において外化した他在である。両者はこの外化により没落するが、本質的相関において形式的統一を完成する。

(2019/09/26) 続く⇒(ヘーゲル大論理学 第二巻本質論 第二篇 第三章) 前の記事⇒ヘーゲル大論理学 第二巻本質論 第二篇 第一章)

ヘーゲル大論理学 本質論 解題
  1.存在論と本質論の対応
    (1)質と本質
    (2)量と現象
    (3)度量と現実性
  2.ヘーゲル本質論とマルクス商品論
  3.使用価値と交換価値


ヘーゲル大論理学 本質論 要約  ・・・ 本質論の論理展開全体
  1編 本質 1章   ・・・ 印象(仮象)
        2章   ・・・ 反省された限定
        3章   ・・・ 根拠
  2編 現象 1章   ・・・ 実存
        2章   ・・・ 現象

        3章   ・・・ 本質的相関
  3編 現実 1章   ・・・ 絶対者
        2章   ・・・ 現実
        3章   ・・・ 絶対的相関


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