唯物論者

唯物論の再構築

日本と中国

2014-08-14 00:15:46 | 政治時評

 3年前に中国が世界のGDPの第二位に躍り出て以来、東アジアにおける日本と中国の政治的および経済的な位置関係は、完全に逆転した感がある。今では東アジアの政治地図は、大中国と小日本の構図で理解され、欧米の認識も大中国に付随する小日本のさらなる地位的矮小化を予測している。むしろ欧米の認識に比べると、自らの置かれている状況を理解していないのは日本と中国の方であり、とくに中国以上に日本の理解の方が遅れているように見える。と言うのも対中関係において日本が、とくに右派論壇において、台頭する中国の封鎖を単純な力学的拮抗で対処可能と考えている節があるからである。もちろんそのような旧ソ連封じ込め方式は、日本の右派論壇の希望だけではなく、その親玉であるアメリカの希望に沿って、自己都合で作り上げただけの実現不可能な虚像にすぎない。その現実離れした感性は、アメリカの実体を自らの目で確認せずに、日米開戦を決行した第二次大戦前の日本の強硬派を彷彿とさせる。しかしこのような中国軽視の観点は、中国が抱える発展途上の多くの未達事項だけを注視して生まれただけの単なる思い込みにすぎない。そのような人たちは、中国が最初から持っている日本を超えた多くの優位点、および既に日本に追いついている多くの進歩に気付き、今のうちに自らの無知に愕然としておくべきである。結果的に現状の日本の対中戦略は、日中戦争にかけられた冤罪の前で硬直し、まともな政治的指針を打ち出すこともできず、様々な面において長期に亘り構築してきた日中友好関係の後退だけをもたらす無策に堕している。絵柄としての現在の日本の状態は、アメリカと中国のそれぞれの思惑の間で、冷や汗をかきながら強張った笑顔で立ち尽くし、まだまだ中国は青いなどと虚勢を張るのが精一杯の情け無い中年サラリーマンの姿をしている。もちろんそのサラリーマンの顔は、安倍晋三である。
 一方の中国における自国の政治的位置の無理解は、もちろん世界政治における対外行動のその傍若無人ぶりにある。中国のGDP世界第二位の称号は伊達ではなく、その経済発展は中国全域の都市生活者に富裕化をもたらし、その富裕化は中国国民全体に自信と国家へのさらなる愛着心を与えた。しかし残念なことに中国国民のその自信と愛国心は、対外行動の傍若無人として現象しているのが実態となっている。一見するとそれは、バブル景気に沸いた日本での成金富裕型の行動パターンにも見える。しかしその内実は、むしろ日露の戦勝に中毒症状をきたし、周囲の反応に無自覚なまま満州権益に固執した第二次大戦前の日本の行動パターンに近い。周辺国の反応への無自覚を主導しているのが、愛国自家中毒に冒された政治中枢部であるのも、第二次大戦前の日本とそっくりである。ちなみに残念ながら第二次大戦前の日本は、愛国スパイラルの果てに凶悪な侵略国家に化けてしまった。その点で比較すると中国は、むしろ民主国家ではないと言うその弱点において、狂熱的な全体主義化への防波堤を既に得ているのかもしれない。もちろんそれは、単なる願望であり、薄氷の上に立つ淡い期待である。既に事実として中国は反日を国是とする全体主義国家であるし、そもそも第二次大戦前の日本人と現在の中国人で比較した場合、残念ながら、どちらも偽愛国を警戒する力を持たない点で同格のように見えるからである。
 ちなみに韓国は、東アジアの政治地図における中国の強大化をむしろ歓迎し、自ら中国支配下に入ることを目指すかのような動きをとっている。もともと韓国は、日本以上にアメリカに従属していながら、日本以上にアメリカ支配下にある自国の現状に反発する内部矛盾を抱えている。加えて朝鮮の歴史的伝統は、強国に表面的に服従を誓う一方で内心で離反し、あたかも自国が強国を振り回していると自惚れるような節操と方向性を持たない外交術である。したがって現状の韓国における親中政策が本当に長期的展望において進められているものかどうかの判断は、外面だけを見ても全くあてにならない。ただし朝鮮半島の歴史は、日清戦争での日帝の勝利による中国から独立、それに続く日帝支配に入るまでの短い間のロシアによる支配、そして日帝に編入された36年間、および第二次大戦後のアメリカ支配下の独立状態を除くと、そのほぼ全てが中国の支配下に置かれた歴史である。したがって自ら中国支配下に入ることを目指すかのような韓国の動きは、目先の政治的判断などではなく、本来の自ら属す位置への回帰を目指すような一種の帰巣本能なのかもしれない。またそうであるなら、その本能的安定感において中韓双方に残る障壁は、せいぜい相互信頼の土壌を崩すような不祥事の発生に限定されるかもしれない。つまり中韓相互の政治指導者の尽力で、中韓関係は安泰したものとなりそうである。当然ながら中国は、日本に対して向けるような日中戦争への謝罪圧力を、韓国に対して向けることもおそらく無いであろう。もちろんこれらの中韓癒合化の大前提は、日帝を真似るかのごとく、中国が自滅の道に進まないことにある。

 以前に領土問題のテレビ討論番組で、櫻井よしこが日米による中国封鎖網への韓国の取り込みを期待しているのを見たことがある。櫻井の論調は、台頭する中国の外交的封鎖を目論む日本の右派言論人の主張であり、見るからに反共産主義を前提事項にしたものであった。このときの櫻井も中国封鎖網の正当性を、民主国家であるかないかにおいて説明していたと思う。しかし個人的に筆者は、中韓それぞれの同じような反日運動を見ても、中国以上に韓国の反日運動に合理性を見出せない。その意味で筆者は、櫻井のように中国を捨てて韓国を取るような外交バランスを全く理解できない。つまり同じように合理の欠けた反日だとしても、筆者は中国の側に未来をまだ感じている。またそもそも日本の長期的な外交戦略として、仮に韓国を切り捨てることが考えられたとしても、中国を切り捨てるような発想は全く考えられない。ソ連の場合と違って中国に対して日本は、今までも経済支援や技術支援、投資を散々やってきたからである。もちろんそのような日本におけるロシアと中国への対外行動の差異の背景には、日本の中国に対する贖罪意識があったはずである。今更になって日本が中国に対して、旧ソ連に対して行ったような封じ込めを始めるとしたら、それは長期的な対中戦略として考えても、一貫性が欠けている。また日中間の関係封鎖を行うとすれば、日本から行うべきではなく、中国から行うべきである。関係封鎖がもたらす結果に対する責任は、関係封鎖を行った側が持つべきだからである。また中国の経済封鎖が可能であると考えるのも、それが中国の軍事行動を牽制する効果を持つと考えるのも、いずれも納得が行かない。中国の経済体制と市場規模では、最初からそのような目的の経済封鎖が不可能かつ無意味だからである。そしてそのような経済封鎖は、封鎖される側よりも封鎖する側に損害を与え、おそらく状況を改善せずに逆に困難を増やすだけである。むしろここでの難所は、中国の政治的安定が経済危機に耐えられるかどうかについて、中国の指導者がいかなる自覚を持つのかを、中国の指導者も含めて誰も答えられないことにある。効果測定に失敗した処罰は、第二次大戦前のナチスドイツや帝国日本を生んだように、今度は中華帝国を生むだけに終わる可能性さえある。実施による改善の見通しの無い処罰は、実施されるべきではない。
 上記の要請事項を全て満たし、日中間の友好関係の将来的進展を目指す場合、日本はどのようにすべきであろうか? 結論は簡単である。日本は中共独裁に対抗する中国国民の民主主義の砦、人権擁護活動の海外拠点になれば良い。そのような日本は、中国の不条理な行政機構の全てを告発する真の中国を代表する存在となる。そのような日本を排撃する動きは、いかなる愛国的粉飾を加えても、中国人民への敵対として現れる。その観点では、中国民主化に水を差すかの如く殊更に中国封鎖網の構築を目指すのは拙速であり、むしろそれが中国民主化に逆効果をもたらす心配をすべきである。せいぜいそのような力学的拮抗理論は、高見の見物を決め込んでいる白人社会を喜ばすだけの事案にすぎない。当然ながら日本は、中国に対してへりくだるべきではないし、民主化圧力に対する憤慨において中国側からの日中間の関係封鎖を誘致するくらいの気概を見せた方が格好良いであろう。

 もともと第二次世界大戦が終結して70年も経っているのに、そもそも日本のA級戦犯は私的満足を目指した奸臣や公式暴力団だったのか、それとも展望を間違えただけのカルト民族主義者や不良軍人だったのか、はたまた国民の要求に応じただけの民主的指導者や国民的軍事指導者だったのか、その歴史的な評価が今もって不明瞭である。この評価の不明瞭さは、A級戦犯の扱いだけに留まらず、日本の軍国化と戦争責任の全体に及んでいる。つまり1960年代にあったような日本の戦争に対する歴史評価の混乱状態は、未だに終焉していない。具体的に言えばその混乱とは、国粋主義的右翼の体制弁護論や国民総懺悔を説く丸山理論の双方から帰結するA級戦犯免罪論がある一方で、日帝の犯罪性を糾弾する戦前左翼や国民総責任を追及する中国文革派が提示するA級戦犯有罪論が相対立して存在し、しかもA級戦犯免罪論の中では戦争責任を問わない右翼と戦争責任を問う左翼、A級戦犯有罪論の中では戦時弾圧下にいた者たちの戦争責任を問わない戦前左翼、戦時弾圧下にいた者たちの戦争責任までも問う中国文革派のそれぞれが、全方向で罵り合う状態のことを指している。結果的に日本では、戦争責任を問わない右翼の表面的な不人気が明瞭なだけで、A級戦犯を責め立てるのを正しい歴史認識と呼ぶのか、それともA級戦犯も含めて国民全体の戦争責任を問うのを正しい歴史認識と呼ぶのか、今もって不明瞭である。そしてこの不明瞭さは、実際には日本だけではなく、反日を国是とする中国や韓国またはロシア、そうではなく自国の関与を避けて、日本を遠い他人事に扱う欧米諸国の全てが共有している。しかもそれぞれの国の思惑と無関心が、その歴史評価をさらに混乱させる要素になっている。このために日本を含めた世界全般において、戦前の日本が凶悪犯罪者であることが認知されているにも関わらず、この犯罪者が何に怒り、凶行に走ったのかを世界の誰も知らないと言う妙な状態はまだまだ続く見込みである。もちろんそこには、唯物論信仰に対する敵視の存在、すなわち結果には必ず原因があるとの考えに対する敵視の存在が隠れている。
 なお日本は日中戦争の自国責任を理解する必要はあるとしても、故人の墓参りにケチをつける中韓の主張に対処する必要は無い。靖国参拝は、伝統的な日本の歴代の先祖供養行事である。そこに不良軍人が含まれているとの理由は、墓参りを断念する言い訳にならない。すなわち靖国参拝は、ヒットラーの墓参りではない。同様に分祠論の検討も無意味である。靖国問題についての中国への対処は、日中戦争の自国責任の自覚を言明した上で堂々と参拝すれば良い。一方で、同じ靖国問題についての韓国の論調は全て妄論であり、完全な無視で十分である。もちろん中国側への配慮において、公式参拝をしないという選択も悪くない判断である。しかし現職議員であろうとも、政治家に私的参拝の禁止を求めるのは、思想信条の自由の原則に反した全体主義的判断にすぎない。
(2014/08/13)


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