唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル大論理学概念論 解題(概念論冒頭後半) 

2022-04-03 14:00:13 | ヘーゲル大論理学概念論

 大論理学第三巻概念論の冒頭は、スピノザの批判的継承に続いて、概念の実在性、類と特殊について論じた第二巻第三篇の後半を概括する。ただしここでの概括でヘーゲルは、実在性と多様が欠落したカント概念論に対する批判を前面に立てる。それはこれから始まる概念論の方向を、概念の客観的カテゴリーの体系として示すためである。そしてその方向性の大きな動機的背景に、不可知論において哲学を死滅させたカント超越論の克服があった。ヘーゲルはカント不可知論の根拠に、カテゴリーを自意識の主観的形式に限定する観念論を見出す。その否定の帰結は自ずとヘーゲル概念論をその対極に導く。ただしカント不可知論がもたらした貧相な論理学は、カント以前から既に哲学に蔓延している。またそのヘーゲル概念論の方向も、単なるカントの対極なのではない。それはカントが限定したカテゴリーの主観性と思惟の形式的諸規定の範囲を見定めるものとして進行する。このようなヘーゲル概念論が目論むのは、カント批判を通じた論理学における肯定判断の復権である。それはカテゴリーのカント式一覧表を概念の生成順に仕上げる形に進行する。

第三巻概念論の冒頭

 概念論の必要性についての論述部位
・カント概念論の概括
  - 能力ではない統覚   …悟性・概念・自我に等しい自己の先験的根源的統一。
  - 概念の非実在性    …感覚と直観に対する概念の劣後、および擁立された主観にすぎない客観。
               これらの結果として現れる実在性の無い概念。
  - 先天的綜合判断    …類概念の先天的な多様を綜合する理性判断。
  - 悟性の弁証論     …特殊を包括できないカント式類概念。主観に留まる非客観的理性の否定。
  - 主観と客観の同一視  …直観の主観的実在性の概念の客観的実在性への直接的充当。
  - 多様の欠けた概念   …概念内容の捨象がもたらす対象と認識の不一致。
・肯定判断の概念論の必要  …形式妥当性判断に留まるカント不可知論に隠れた肯定判断の体系の必要。
・必然的概念の自由への転化 …概念における空虚な必然の主体的実在への転化。
               概念の即自態と対自態の仕事への統一


1)概念と精神の相関、およびその実在性

 悟性に対する一般的扱いは、諸存在者を結合する自我の一能力である。このように悟性を自我の付帯的属性の如く扱う見解に対し、カントは統覚としての自己の根源的統一から悟性を導出する。なぜならカントは、悟性および概念と自我のそれぞれに根源的同一を見出すからである。彼にとって表象における直観の統一を可能にするのは、諸存在者の自己における先験的統一である。ただし意識において表象の統一に現れる対象は、現象に過ぎない。意識は現象の直接性を廃棄して概念として統一し、それを客観として擁立する。しかし概念は、客観として擁立された意識の自己自身であり、物体の属性ではない。このようなカントにおいて問題になるのは、第一に概念に対して感覚と直観が先行することである。そして第二に概念が客観として擁立された主観に過ぎないことである。しかし感覚や直観は即自形態の自意識であり、その対自形態の反省や表象ともどもに精神の諸形態に過ぎない。それらはせいぜい概念の即自態である。そして概念は、それらの即自対自態である。とは言えこのような精神や、さらに非精神の自然は、論理の経験的素材に留まる。すなわち論理が精神や自然を根拠づけるのであり、精神や自然が論理を根拠づけるのではない。またカントの悟性は、一方で素材の内容を結合して概念として普遍化し、他方で概念から素材の内容を廃棄してそれを無内容にする。このためにカントの概念は、自立せず実在性を持たない無内容な形式に留まる。ただし単なる概念は、やはり実在性を持たない。したがって概念は、実在性を結合することで理念とならなければいけない。その実在性は、経験的素材から由来する。しかし概念は直観の実在性を廃棄し、自らの実在性を擁立する。その実在性は現象的素材の実在性ではなく、本質的素材の実在性である。したがってそれは、目印代わりに取り出された現象的素材の実在性でもない。


2)概念における類と具体

 さしあたり概念の特殊としての多様は、類概念の成立に欠かせない。それらの特殊に対してこそ概念の類が区別される。特殊と類の両概念は、相互に相手との比較で自らの存在と本質を構成する。一方で概念が含む多様を概念の外に放逐して類を構成すると、どのような類概念もその究極は単なる抽象的普遍性、すなわち“である”となる。ところが “それはである” (それは存在)との陳述は何者も表現しない。それは空虚な反省の同一性の形式である。したがって類概念は、類概念固有の多様を必要とする。ここからカントは根源的綜合を行う統覚の先天的綜合判断があると結論する。当然ながらその綜合判断は、抽象的普遍性や空虚な同一性であってはならない。しかしカントにおいてカテゴリーは自意識に由来する有限存在である。それゆえにカントにおける概念は、抽象的普遍性や空虚な同一性から抜け出せない。これに対してカントは、悟性における先天的綜合判断を断念し、理性にその役割を委ねる。ところがカントが実現したのは悟性の弁証論であり、先天的綜合判断の反証である。すなわちカントにおいて論理学は客観的認識を擁立し得ないし、理性の役割はそのような悟性規制の体系的統一に留まる。しかも理性を構成するカテゴリーが無いので、理性は仮説的理念に終わる。理性は経験において現れることも示されることもできないので、恣意と同義となる。


3)概念と客観の相関

 意識は現象の直接性を廃棄して概念として統一し、それを客観として擁立する。それゆえに思惟の客観性は、概念と物体の同一性にある。このような物体と概念の区別は、物体を偶然な現象とし、概念をそうではない客観とする。一方でここでの概念は直接性を喪失した物体であり、逆に物体は直接的なだけの概念である。真理はこの二つの概念の同一性である。ところが直接性を喪失した物体を概念とするなら、概念もやはり偶然な現象である。そのような概念は、カントが考えたように客観になり得ない。このことは概念と真理の同一性を破壊する。したがってそのような概念と物体の同一性も、何ら真理を保証しないことになる。ここで問題となっているのは、概念の内容と直観の多様の同一視である。しかし概念の内容は本質であり、直観の多様はそうではない偶然な質である。本質が偶然ではないのは、それが偶然な質を廃棄した結果だからである。それゆえに本質も現象に顕現する。そしてそのように顕現した本質の総体が概念である。したがって概念の多様は、概念の客観性と対立しない。それは存在や本質より高次な絶対者の形式である。そして感覚や直観や表象および反省は、存在や本質の諸形態に含まれる。それゆえに概念は存在や本質を自らに従属させ、自らをそれらの絶対的根拠として示す。ただし概念が存在や本質の絶対的根拠であるためには、単なる概念以上の実在性を必要とする。逆に言えば、そうでない概念は抽象的真理に留まる。したがって自らの不完全を反省した概念は、次に自らの実在性の産出へと推移する。カントが行ったのは、自ら提示した先天的綜合判断と理性の役割の否定であり、および自ら否定した有限的認識と悟性の役割への退行である。


4)カントにおける概念論の欠如

 哲学の第一部門を成す論理学は、真理の純粋理念を内在した絶対的形式の学である。その絶対性は、自然や精神の具体的対象を持たない論理学が、論理形式を論理内容とし、その真理により実在性を持つことにある。この点で絶対的他在や絶対的直接性の形式を必要とし、他在や直接性と認識の一致を形式とする真理は純粋真理ではない。それゆえにカントはこの真理を古臭い真理と捉える。このことは直観的悟性や知的直観についても該当し、他在や直接性と認識が相互に一致してゆく真理を、カントは排除する。しかしそれにも関わらずカントは、対象と認識の一致を真理を許容する。そうであるならカントは、直観的悟性や知的直観についても真理の在り方の一つとして許容すべきである。このようなカントの矛盾が現れたのが、抽象的普遍性に過ぎない物自体とそれに一致し得ない理性であり、それがもたらす実在性の無い概念である。その概念から全認識内容の捨象は、概念と認識対象の一致を不可能にする。しかし内容の無い概念は、もともと概念ではない。カントの問題は感覚と直観を廃棄するだけで、その本質に概念としての実在性を擁立させないことにある。


5)肯定判断の論理学

 論理の絶対的形式は、形式の真に適合する内容を論理学自身が含むのを要求する。すなわちそれは、論理的真が純粋真理でなければいけないと言うことである。ところが一般にこのような論理に数えられているのは、矛盾命題や換質換位の判断の言い換え、推論形式の如き無内容な命題に限られる。しかしこの真理命題の限定の一方で、肯定判断は暗黙的に真理命題に扱われる。またそうでなければ論理学は、自らいかなる論述をすることもできない。それゆえに肯定判断の真偽は、判断の主述内容の不一致が露見した場合にだけ問われてきた。この肯定判断の暗黙的な真理は、その主述形式が表現する「具体は普遍である」の真理に従う。そしてその真理は正当なものでなければいけない。したがってここでの命題は、真偽不定な「対象Aは概念Bである」の命題ではない。このときに問われるのは、具体と普遍のカテゴリーの客観性とその形式的諸規定、すなわちカテゴリーの即自対自的考察である。ところがこれに対してカントは「対象Aは概念Bである」に執着し、カテゴリーを自意識の主観的形式として扱い、カテゴリーの適用範囲を思惟の形式的諸規定に限定した。ただしこの限定の妥当性も、相変わらずカテゴリーの主観性と思惟の形式的諸規定の範囲に対する論及を必要とする。そうでなければ肯定判断はどこまでも臆見に留まり、概念を無内容な抽象的普遍として扱い、それを無内容な対象に適合させるのが関の山となる。哲学にはそのように客観的カテゴリーの論及を行った偉大な先人としてアリストテレスがいる。しかし哲学はさらに客観的カテゴリーの体系を擁立し、そこでの諸形式の効果を明らかにする使命を持つ。


6)概念の概念

 存在を否定する無としての本質に対し、本質を否定する概念は無を否定する存在である。それは存在の二重否定に現れる回復した一つの即自対自存在として擁立される。それゆえに概念は存在と本質を過去的契機として包括し、存在と本質を一つの概念の異なる二面として擁立する。ただし概念における存在と本質の統一は、単なる統一である限りで理念の啓示に留まる。単なる概念は実在性の無い必然であり、その必然は自由と区別される。すなわち概念は、自らの自由が必然として現れるときに実在する。このときに概念における存在と本質、すなわち概念の即自態と対自態は、それぞれ自立した概念として擁立され、区別される。


7)主観と客観、自由と必然の統一

 直接性にある即自的概念は、単に擁立された主観である。しかし擁立されただけの主観的概念の自由は、事物の自由と大差が無い。ここでの概念の自由は、事物の外に個々の主観的質として現れる。次に個々の主観的質は、概念の同一性において一つの全体となり、客観に転じる。客観は主観的質の自由を廃棄して必然と成し、概念を限定存在の塊としての事自体Sache Selbstにする。しかしこの客観的概念も擁立されただけの必然である。それには主観的概念の自由さえも無い。そこで概念の自由は、自由の形式において客観と対立する。ここで客観的概念は自由の形式を得ることで理念に転じる。理念となった概念は、主観性において客観世界を認識し、客観性において主観世界を認識する。

(2021/09/22) 続く⇒(ヘーゲル大論理学 第三巻概念論 第一篇 第一章 A・B) 前の記事⇒(ヘーゲル大論理学 第三巻概念論 冒頭前半)

ヘーゲル大論理学 概念論 解題
  1.存在論・本質論・概念論の各章の対応
    (1)第一章 即自的質
    (2)第二章 対自的量
    (3)第三章 復帰した質
  2.民主主義の哲学的規定
    (1)独断と対話
    (2)カント不可知論と弁証法

  3.独断と媒介
    (1)媒介的真の弁証法
    (2)目的論的価値
    (3)ヘーゲル的真の瓦解
    (4)唯物論の反撃
    (5)自由の生成

ヘーゲル大論理学 概念論 要約  ・・・ 概念論の論理展開全体 第一篇 主観性 第二篇 客観性 第三篇 理念
  冒頭部位   前半    ・・・ 本質論第三篇の概括

         後半    ・・・ 概念論の必然性
  1編 主観性 1章A・B ・・・ 普遍概念・特殊概念
           B注・C・・・ 特殊概念注釈・具体
         2章A   ・・・ 限定存在の判断
           B   ・・・ 反省の判断
           C   ・・・ 無条件判断
           D   ・・・ 概念の判断
         3章A   ・・・ 限定存在の推論
           B   ・・・ 反省の推論
           C   ・・・ 必然の推論
  2編 客観性 1章    ・・・ 機械観
         2章    ・・・ 化合観
         3章    ・・・ 目的観
  3編 理念  1章    ・・・ 生命
         2章Aa  ・・・ 分析
         2章Ab  ・・・ 綜合
         2章B   ・・・ 
         3章    ・・・ 絶対理念


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