「ブレードランナー」1982年 製作アメリカ
監督リドリー・スコット
主演ハリソン・フォード
原作フィリップ・K・ディック
「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」1968
映画「ブレードランナー」は、意図されたかどうかを別にして、原作を超えた作品に仕上がっている。映画が原作を超えたのは、自動機械のもつ意識と人間的意識を同格に認めた点であり、そしてそのように映画と原作の違いを生んだのは、原作ではアンドロイドが所詮ロボットだったのに対し、映画ではアンドロイドが人間と同じになるまでバージョンアップされたことにあった。このために原作でのアンドロイドは、せいぜい高機能の人型ゴキブリであるのに対し、映画でのアンドロイドは、肉体的組織が違うだけの人間そのものとなった。例えば、唯一のアンドロイド判定基準である感情移入測定器も、映画では最新機種レイチェルに対して有効ではない。つまりアンドロイドと人間の区別を不可能にしている。また主人公リックの宿敵のアンドロイドのロイとの対決でも、映画ではロイが戦闘放棄してリックの命を奪わない。つまり自らの肉体的存在を超えた価値判断を、アンドロイドが行っている。アンドロイドは、ただ単に人間により強制された苦役を嫌がって逃亡しただけであり、延命の望みにすがるために地球に来て殺人を繰り返しただけである。
原作のタイトルは、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」なのだが、簡単に言えば、原作の答えは「アンドロイドは電気羊の夢を見ない」である。しかし映画は、そうではない。映画では、支配する人間と支配されるアンドロイドの間に、区別に足るような違いが存在しない。おそらくこのような区別の消失は、原作者を憤慨させるものなのだが、原作者は映画公開の直前に死去している。代わりに予想される原作者の憤慨を代弁するとしたら、次の言葉となる。“物質ごときが意識の高みに肩を並べるのは許さん!”。この種の憤慨は、巷に氾濫する俗流観念論が撒き散らす言辞と同じものである。そしてこの言葉は、意識による物質に対する意味不明なエリート感情の噴出を表現している。
原作ではこのような意識のエリート感情を、既に述べた生命重視を基礎づける感情移入の意識構造、および意識の宗教的尊厳の2点で描いている。最初の感情移入については上記で示したように、映画では乗り越え可能なものとして扱っている。後者の宗教的部分については、映画では全く無視している。上記文章は原作と映画の違いを明らかにするために、ことさら原作を矮小化して見せた。それでも上記の記述は間違っていないのだが、原作に対しひいき目に解釈するなら、この点でアンドロイドと人間の区別はもっと違ったものになり得る。例えば、その区別は実存主義における堕落した“ひと”と、覚醒した本来的人間の区別に近づくかもしれない。ただし原作の出来は、その水準にも到達していない。悪く言えば、展開するほどの理屈を原作者は持っていないし、良く言えば、理屈を超えた宗教的直観の伝授だけに原作者は程良く留めている。
原作の中には、体制が捏造した都市伝説のような宗教が登場し、全ての人間がその宗教により精神的連帯を得ている。原作の最後にその宗教が擬制だと暴露されるのだが、それにもかかわらず主人公は、宗教的直観を得て終わる。つまり主人公は覚醒して終わる。その覚醒の内容は、不老不死の世界の直観である。この宗教的直観は、読者の想像に委ねさせるために、短い文章を選んで表現されている。それは、表現不能なものを表現する努力を装うための小説的技術でもあり、あるいは情報量を減らして実体をより大きく見せるための衒学的手法でもある。ともかく原作者にとって重要なのは、それがロボットには理解不能な直観だと言うことである。もしパゾリーニが同じ原作を映画化したら、この表現不可能な直観を見事に映像で表現したかもしれない。とはいえそれは、どこかの宗教家が仏の実演する曼荼羅の夢を見て、悟ったと叫ぶのと同系統の直観にすぎない。それを人間の特徴として扱うのは、逆に論理を敵視して理性的人間を排除するような、危険な形の人間の矮小化に容易に連繋する。結果的に原作は、アンドロイドを理念を持たず即物的な堕落した存在として描いている。ひいき目に解釈するなら、世間的俗物にアンドロイドをだぶらせたのかもしれない。
もともと人間の本質への問いは、人間的ではない世界、人間的ではない人たちへの憤慨と疑問から始まる。そのことを離れて人間とは何かを問いただしても、ハイデガーの実存主義のような無益な結論だけしか出てこない。同じことは、この原作についてもあてはまっている。しかも至極立派な問いかけと難解そうな思想を示しながら、物質に対する意識の優越というエリート感情だけで人間の尊厳を示す限り、もともとあった人間とは何かという問いは放置されたままとなる。
宗教家を始めとする俗流観念論者は、物質から意識が生まれたとする化学進化論に対する嫌悪を抱えている。人間とアンドロイドの垣根をとっぱらったこの映画は、原作と違い、このような唯物論への嫌悪を馬鹿げたものとして排斥するのに有効である。この種の無意味な嫌悪は、人間が自動機械の一種であると考えるなら、人殺しは罪にならないという奇妙な理屈に連繋している。しかし論理的に、罪は人間社会の保持において宣告されるものであり、人間社会を破壊する限り殺人は罪である。つまり人間が自動機械だとしても、殺人はその自動機械の社会において相変わらず罪である。この論理的説明を感情を持たない冷淡なものに感ずるのであれば、感情のままに私刑を加える旧時代に社会は戻るべきだと主張すべきである。また自らを自動機械と考えたときに、待ち受ける未来に虚無感を感ずるのであれば、せいぜい死後の世界に備えて生前の世界を軽んずれば良い。その場合は、次の二通りが可能である。死後の世界が存在しなければ、生前の世界を軽んじたことはそのまま失敗となる。死後の世界が存在すれば、生前の世界を軽んじたことの報いを死後の世界で受ける。いずれにせよ生前の世界は、死後の世界なんかよりもはるかに重要なのは同じである。どのみち人間は必ず死ぬ。大事なのは、目先の快楽ではなく、悔いなく命を捨てるに値するような真の意味での快楽を探求し、それを得ることである。いずれにせよ、意識が物質から生まれ出たことに対して、そのことを悲観する必要は無い。また意識は物質から生まれ出たとはいえ、意識は物質ではない。そのことは、人間が神から生まれ出たとしても、人間は神ではないのと同じである。
原作は、人間とほぼ同じの自動機械を登場させて、人間とは何かを問う画期的な着眼点を提示した。しかし映画と違い、原作はその着眼点を生かし切っていない。原作は、アンドロイドを殺さなかったばかりにペットの羊を殺されて主人公が後悔して終わる。一方で映画は、アンドロイドを殺すのを拒否して主人公がアンドロイドとともに逃亡して終わる。これだけを見ても、どちらが優れた作品だったかは明らかである。
(2011/09/19)