3.国外労働力の価値評価
通貨価値の差異が、人件費の国際的な差異をもたらすのか? 逆に人件費の国際的な差異が、通貨価値の差異をもたらすのか? この鶏と卵の順位競争のごとき理念対立を理解する上で、現実には次の二点の困難がある。1点目は交雑する異なる種類の労働力の価値評価の妥当性であり、2点目は労働力再生産のために国民に課せられた各種の非生産的経費の扱いである。ここで言う各種の非生産的経費とは、地代を含む権力者への上納部分を言う。
1点目の困難は、異なる生活資材量を包括する二種の労働力が、同等の価値として市場に現れ、互いの生産物を互いの生活資材量の内側に取り込んでいることの困難を指している。ただしこの困難は、二国間の通貨価値どころか、一般的な商品価格の設定段階で既に現われている。各商品の構成要素において異なる商品同士は必ず常に、材料や手段として相互に関わるからである。言い換えるなら、究極において全ての商品は、人間生活から生み出され、そして人間生活を生み出すからである。ちなみにハイエクの価格不可知論は、この困難を市場における神の手以外に解決不能と決め付けた理屈である。この考えに従えば、各企業の商品の企画および販売実施の際の価格決定者は、人の形をした神である。 一般に商品価格の決定は、労働力を含めた商品原材料費に見込み利潤を積み上げることで生産者ないし流通者が販売価格を決め、その価格の妥当性を、市場における消費者が最終的に決定する。ただし労働価値論は、労働力はもちろん、機械を含む商品原材料を労働力の塊へと還元し、その労働力量の貨幣表現を商品価格として理解する。しかしこの見解では、労働力が一般的な人間生活時間として一定量の大きさを持つのを前提にしており、さらにその人間生活時間の大きさを一般的な人間生活に必要な一定量の生活資材の塊に扱っている。したがってこの生活資材塊こそが本来の等価物であり、その定量に対する貨幣量の現れ方が、貨幣価値の大小を決める。すなわち定量の生活資材塊に対する貨幣量の変動が、消費者物価のインフレ傾向やデフレ傾向を表現するわけである。当然ながらこの生活資材塊に対する貨幣量の変動は、生活資材塊の内訳に変動がある場合でも発現する。例えば都市と農村や漁村では、生活資材塊の内訳に含まれる食品移送に必要なガソリン量や労働力量に差異がある。農村や漁村では、肉や野菜は現地で収獲されており、もしかしたら農民や漁民が自分でそれらを収獲している。当然ながら都市よりも農村の方が、生活資材塊は小さくなる。また農村において同一貨幣量が、より大きな人間生活として現れる。逆に言えば農村の方が、より少ない貨幣量で都市と同等の生活を送ることができるわけである。もちろんこの同一貨幣量が表現する人間生活の量的不均衡の解決は、実際には農村収入が都市収入を大幅に下回ることにより行なわれている。したがってここでの労働価値論は、都市と農村のそれぞれの定量の貨幣を生活資材の塊へと還元し、その大きさを各地域の貨幣価値として理解する。各地域の生活資材塊の大きさの不均衡は、地域間を結ぶ交通手段が体現する労働力量が吸収する形で自らの発現を抑止している。したがって農村労働者が都市部で雇用されたとしても、彼らは農村の給与水準のままで都市に暮らすことはできない。基本的に都市部に出稼ぎに行く農村労働者は、一時的に多くの生活必要資材を切り捨てて蓄財に励み、地域間の貨幣価値の差異および農村への帰還の二点を前提にして貧困に耐える。農村への帰還という前提が無ければ、農村労働者への貧困の強制は、直接に人間の家畜化に終わる。 このような都市と農村の間の貨幣価値の差異に対し、先進国と途上国の間の貨幣価値の差異は、国ごとの通貨体系自体の差異として現れる。もちろん尺度単位が異なるだけなら、国ごとの通貨価値の差異は、都市と農村の間の貨幣価値の差異と変わらない。そして二国間の貿易不均衡が存在しないなら、両通貨の変換レートが変動することも無い。ところが二国間の貿易不均衡が存在する場合、輸入超過側の国家通貨に対する輸出超過側の国家通貨の価値上昇、逆に言えば、輸出超過側の国家通貨に対する輸入超過側の国家通貨の価値下落が始まることになる。なぜなら輸出入の通貨決済を相殺した後に、輸出超過側の通貨需要だけが残るからである。この通貨需要は、輸出超過側の国家通貨の相対的な価値上昇圧力として働き、輸入超過側の国家通貨を相対的に価値下落させる。と言うのも輸出超過側の国家では、輸出商品の全般的欠乏が進行し、そのことが輸出商品の国内調達のための追加労働力を必要とし、その分の労働力量が輸出商品生産コストとして輸出商品自体の価格に反映するからである。戦後経済秩序において輸出超過側の国家には、既に述べたように、もっぱら先進国ではなく途上国が現れてきた。途上国の輸出超過は、基本的に途上国側の通貨価値高騰が、途上国の人件費の低廉さを解消し、輸出先の先進国並みになるまで解消されない。もしそのような事態への到達が起きるなら、それが表現するのは、おそらく途上国と先進国の間で人の命の大きさが等しくなったということである。つまりここでの先進国と途上国の間の通貨価値の差異とは、それぞれの通貨が表現する生活資材塊の大きさの差異にほかならない。結局それは、都市と農村の間の貨幣価値の差異が、それぞれの地域において貨幣が表現した生活資材塊の大きさの差異であったのと同じである。したがって結局ここでも労働価値論は、二国間のそれぞれの定量の通貨を生活資材の塊へと還元し、その大きさを各国の通貨価値として理解する。各国の生活資材塊の大きさの不均衡も、国家間を結ぶ交通手段が体現する労働力量が吸収する形で自らの発現を抑止している。したがって途上国の労働者が先進国で雇用されたとしても、彼らは途上国の給与水準のままで先進国に暮らすことはできない。基本的に先進国で働く外国人労働者は、農村の出稼ぎ労働者と同様に、一時的に多くの生活必要資材を切り捨てて蓄財に励み、先進国貨幣の通貨高および自国への帰還の二点を前提にして貧困に耐える。ただし先進国で家族を得た外国人労働者は、自国への帰還もままならなくなる。自国への帰還という前提が無ければ、貧困な外国人労働者の増加は、先進国による非自発的な貧民輸入にすぎず、先進国底辺層と外国人労働者の間で雇用を巡る排外的対立をもたらす。 都市と農村では、同じ貨幣量が異なる人間生活を表現する。そこでは、使われる貨幣に差異が無く、地域における生活資材の塊の大きさに差異があると説明できた。同じ貨幣量が都市と農村の異なる人間生活を表現するなら、両者の差異は貨幣の側に無く、人間生活の側にあるべきだからである。一方で先進国と途上国では、異なる通貨量が異なる人間生活を表現する。ここでは使われる貨幣自体に差異があり、二国間において生活資材の塊の大きさに差異があるのが不明瞭である。しかし二国間の通貨が何らかの交換レートで交換可能であるなら、結局ここでも同じ貨幣量が先進国と途上国の異なる人間生活を表現することになる。つまりここでも両者の差異は通貨の側に無く、人間生活の側にあるべきとなる。したがって都市と農村での貨幣価値、先進国と途上国での通貨価値、いずれの場合でもその価値の大きさは、該当地域における労働力自らの再生産に必要な生活資材の塊の大きさが規定している。 労働価値論は、労働力が一般的な人間生活時間として一定量の大きさを持つのを前提にする。しかしここでの異なる種類の労働力の価値評価は、労働価値論における価値の実体性を損壊するものではない。労働価値論は人間生活時間の大きさを、地域に一般的な人間生活に必要な一定量の生活資材の塊に扱うだけで良いからである。したがって農村における労働力の価値評価は、そこでの労働力の再生産に必要な生活資材の塊の大きさにおいて行なえば良いだけである。同様に、途上国における労働力の価値評価も、そこでの労働力の再生産に必要な生活資材の塊の大きさにおいて行なえば良いだけとなる。マルクスも資本論において、労働力が体現する生活資材の塊が、時期や場所、社会がもつ歴史的背景において差異をもつと述べている。つまり二国間取引で労働力の大きさが互いに異なって現れるのは、需給関係が生んだ錯覚ではない。なぜなら国ごとに現れる労働力は、実際に商品として別物だからである。商品の価値基準には常に、価値評価者の周辺に現れる自国の労働力だけが措かれる。通貨価値理解の前に現れた最初の困難は、異なる種類の労働力の価値評価の妥当性であった。しかしその困難は、二国間における生活資材塊の大きさの差異が、使われる貨幣の差異によって不明瞭になったことで生まれた錯覚だったわけである。(2013/11/10) (続く)
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