唯物論者

唯物論の再構築

ヘーゲル精神現象学 解題(11.ヘーゲルの認識論)

2017-09-18 14:05:20 | ヘーゲル精神現象学

11)ヘーゲルの認識論

 ヘーゲルにおける認識は、その始まりの姿においてカントにおける観察理性の姿ではない。その原初的姿は生命活動であり、端的に言えば捕食活動である。そこでの意識は、対象の何たるかをあらかじめ知っており、それゆえに対象を自らと結合する。そこで意識の前提として現れているのは、自らにとって対象が自己自身だと言うことである。それだからこそ意識は、自己と対象の結合を欲する。つまりその意識は、実際には自己と対象を区別していない。意識にとって他人の物も自分の物なのである。なぜなら始まりの現存在に、もともと自己と他者の区別は無いからである。対象が自己と異なる他者であるのを知るのは、意識の生命体的継続を前提にしている。すなわち意識が他者を自己ならぬ物であると知るのは、経験を通じてである。そこで意識が運悪く他者に制覇されるなら、意識は自己と他者の差異を知る前に死滅する。したがって始まりの意識における認識とは、対象を喰らいつくすことに存する。そこでの対象は、自らの見知らぬ物自体ではなく、自己と合一すべき自己自身である。また捕食を通じて意識は、実際に対象を自己と合一する。もちろん意識が対象を物自体ではなく事自体であるのを知るのは、意識が一旦対象を物自体として擁立した後のことである。しかし実際にはもともと対象は事自体であり、すなわち自己にとっての有用性である。それが意識において対象が自らの見知らぬ物自体として現れるためには、意識の自己否定を必要とする。


11a)自己否定と物自体

 自己意識の本来的な主人は自己である。言い換えるなら、その意識に現れる主語は自己である。その意識にとって世界は自らの所有物であり、自己と世界の間に懸隔は無い。しかし現実はそうではない。まず意識は随意にならない対象があるのを知り、それを物体として自己自身から分離する。次に随意にならない他者意識があるのを知り、それを他者として自己自身から分離する。いずれの分離も自己意識の外化であり、対象を自らの見知らぬ他者として擁立する。代わりに意識は自らを意識と成し、自己と成す。ここで物体の自己分離以上に自己意識にとって深刻なのは、他者意識の自己分離である。自己意識は自らが主人ではなく、異なる自己意識が世界にあるのを知るからである。ただしそれだけで自己意識は、自らが主人であるのをやめるわけではない。物と他者に続いて自己意識がさらに外化せざるを得ないのは、自己自身である。意識における自己自身の客体視は、一方で他の自己意識による自己犠牲の強制、他方で意識の自己肯定と自己懐疑を契機にする。いずれにおいても意識は自己自身を客体として擁立し、それを不自由な物体として自立させるか、または自由な意識として自立させる。しかし結果的にそれは即自態にあった自己意識を、自己自身を客体視する対自態にする。この自己自身の客体化が、すなわち自己否定である。しかし全てを外化した自己意識は、逆に空虚な抜け殻になってしまう。その自己意識は自ら主人であるのをやめており、奴隷になっている。言い換えるなら、主語は自己ではなく、物であり、他者であり、客体化した自己自身である。そして自己は述語としてのみ現れる。そのような自己にとって対象は既に自己の有用物ではない。ここでの対象は、物的属性を付帯した実在であり、端的に言えば物質である。その物的属性とは、物の属性や他者の人格、または自己自身としての仕事である。その対象は有用物ではなく、有用から乖離した自らと縁遠いあたかも中立的な物的属性の塊りである。それは諸属性の統一体であり、その中心には対象自体がある。対象自体は対象の属性ではなく、基体としての実在である。ただしこの対象自体は、有用性を喪失しているために、実在であるよりほかに何者でもなく、純粋な自体存在になっている。結果的に自己否定の以前では対象認識が自己と対象の結合であったのに対し、自己否定より後だと対象の全属性を知ることが対象認識の目的になる。それゆえに本来の意識において可能であった認識の完遂は、自己意識において不可能となる。糞真面目な理性はこのどうでも良い認識完遂を目指し、本来の認識完遂がいかなるものであったかを忘却するに至る。ヘーゲルはこれを善と幸福の分離として表現する。そしてこの完遂不能な認識論と定言型倫理学をカント超越論に見出す。この分離の克服は、自己意識における自己否定の否定を通じた絶対的な自己肯定を待たなければならない。


11b)ヘーゲルから見たカント認識論

 カントにおいて認識とは、超越である。それは肉体的五感としての感覚に悟性認識を加えた意識による対象把握作用の総称である。認識についてカントは、認識に先立って意識と対象の分離を前提にする。意識が陣取るのは有限の現実世界であり、対象の自体存在は無限の真理世界に陣取っている。だからこそ認識は、有限な意識による無限の真理世界への超越として現れる。しかしカントは二つの世界を似て非なるものに扱う。その考えだと、有限な意識は対象の真の姿を知り得ない。意識が持ち帰る真理世界の無限体、すなわち物自体は、現象界において有限体へと変質せざるを得ないからである。ただしカントは、対象の実在を唯一変質を免れ得る対象の基体属性に扱う。それと言うのも、対象の実在を疑ってしまうと、真理世界の存立自体が脅かされるからである。すなわち対象の実在は、現象界と真理世界の紐帯になっている。またこの紐帯を認める点で、カントの不可知論はヒュームの不可知論と異なる。一方で対象の認識様式は意識の思考形式であり、意識が真理世界から持ち帰ったものではない。それどころかそれは、認識に先立って既に意識が会得していなければならない。なぜならそれは、認識を可能にする条件だからである。すなわちこの認識形式は、意識が生来から所有する存在者である。それは認識における対象の変質と無縁である。ちなみにここでの認識形式に対するカントの捉え方のモデルは、デカルトのコギトである。思考する前に思考があらかじめ存在すべきであるように、認識する前に認識形式はあらかじめ存在すべきだと言うことである。いずれにせよこのようなカント認識論は、現象界と真理世界の分断を認識の前提にするので、必然的に不可知論となる。カント認識論は超越論を自称するのだが、その現実はそもそも意識の超越を否定した超越不可能論である。対象実在をかろうじて不可知の対象から除外しているのだが、その認識論の大枠から言えば、対象実在を不可知の対象から除外している方が不自然にさえ見える。そこで素直に対象実在を不可知の対象に戻す方向への認識論の見直しがされなければならない。それは経験論への回帰であり、カント式の物自体概念の破棄である。ただし物自体の概念的破棄は、そのままヒューム不可知論への回帰となるわけではない。なぜなら意識が得ている思い込みの対象に対し、それと一致すべき対象自体がもともと無いのなら、そもそも不可知自体が成立しないからである。このことが示すのは、実はヒューム不可知論が既にカント式の物自体概念を前提にし、対象の不可知を結論していることである。それゆえに物自体の概念的破棄は、その概念の痕跡さえ消去する全面的破棄であってはならない。なぜなら物自体概念の破棄は、物自体概念とその破棄の経緯の全てを、自らの思想史的変遷として理解する意識の運動として現れるからである。


11c)経験論への回帰

 認識において対象自体の消失は、意識の他者の消失に等しい。その場合、全ての存在者は、せいぜい表象としての意識の自己自身に過ぎなくなる。ヒューム不可知論はこのことから独我論に至るのだが、全てが意識の自己自身に過ぎないのであれば、今度はなぜ意識は全てを随意にできないのかが謎となる。しかも独我論にとって全ては自己自身なので、そこには不可知どころか可知しかあり得ず、不可知の方がよほど謎となる。一方で物自体の不可知は、個別意識における対象認識の断念に帰結するわけでもない。むしろ逆に物自体の不可知は、個別意識に対して対象認識の実現を命じる役割を果たす。なぜなら無知こそが知の欲求の前提だからである。しかし対象認識においてその完結は、対象認識の実現でなければならない。ところが物自体の不可知とは、対象認識実現の不可能性である。結果的に対象認識の実現要求は、糞真面目に無限体認識を要求するだけの実現不可能な定言に留まる。その実現不可能性は、意識における認識欲求を否定するものであり、実際の対象認識到達へと日々至る意識の経験にも反する。ここでも不可知論は、克服されるべき理屈として現れてくる。そこでこの従来の独我論を補修した結果として、意識一般の独我論が現れる。その独我論では、個別意識の自己が自ら意識としての地位を放棄しており、意識一般だけが自己意識である。さしあたり個別意識は個別自らを知るだけであり、それ以外の意識一般について無知である。それに対して意識一般は認識における全能を確保しており、個別意識はこの意識一般を通じて対象自体の認識を可能にする。つまりこの独我論における意識一般の自己自身とは、認識による変質を受けない可知な対象自体であり、カント式物自体と異なる。したがってこの理屈は不可知論を克服している。ちなみにこの独我論はドイツ観念論ではフィヒテ哲学として現れたのだが、実際には経験論がスピノザへと回帰した姿である。両者の基本的な違いは、スピノザにおける自体存在が物体としての自然世界であるのに対し、フィヒテにおける自体存在は意識一般としての神だと言うことにある。したがってスピノザにおいて意識が無能であったのと違い、フィヒテにおいて意識は全能である。しかしその全能な意識は神であり、個別意識はやはり無能なままに留まっている。つまり不可知を克服したのは意識一般だけである。そこで今度は新たな課題として、個別意識における不可知の克服が問われるようになる。


11d)史的認識論の必要性

 フィヒテにおいて自己意識とは神であり、その認識対象は自分自身である。そして個別意識における対象認識の実現は、神の自己認識の分与にあずかっている。したがって個別意識において可能な対象認識とは、神との一体化に等しい。それに対してシェリングは、スピノザに倣って個別意識を叡智的属性を宿すものとして扱い、宗教的直観を通じて対象認識を可能にしようとする。その認識論の方向性は、フィヒテとの比較で言えば、個別意識から遊離した神を排除する点で唯物論的であり、個人の覚醒によって真理認識の実現を目指す点で実存主義的である。しかしヘーゲルから見るとフィヒテもシェリングも、その認識論の成立する史的前提が認識論自身から抜け落ちている。フィヒテにおいて個別認識は何故に自らの認識を放棄し、神の自己認識に自ら身を委ねるのか? 逆にシェリングにおいて個別認識は何故にことさらに宗教的直観を必要とするのか? 特にシェリングの場合、フィヒテにおいて前提的に要請された自己否定の契機を排除し、いきなり自己肯定のうちから真理についての直観を出現させている。ここでのヘーゲルの不満は、フィヒテにおける不可知論の克服論理、またはシェリングにおける個別認識の方法論に対する論理妥当性に向いていない。あくまでも彼の不満は、両者の論理自身における対自の欠落であり、史的自己把握の欠如に対している。当然のことながら同様のヘーゲルの不満は、フィヒテやシェリングに対してだけではなく、カントにも向いている。カントにおいて認識は何故に物自体を擁立し、自ら得た認識に背を向けるのか? その理性の自己否定は、何を自己意識に対して要求しているのか? ヘーゲルが訴えているのは、それらを明らかにしなければ、自己意識が何を応じるべきであり、自己否定を克服できるのかも見えてこないと言うことである。このためにヘーゲル自らの認識論は、フィヒテやシェリング、またはカントのように自己否定の契機をその始まりに前提せず、あるいはカントやヒュームのように意識と対象自体の分離も前提せず、彼らの認識論よりも単純な姿でその最初の姿を示し、それから意識と対象自体の分離および自己否定を語る。またそのように認識が原初的な姿にあるからこそ、物自体の本来の姿を明らかにしている。


11e)事自体としての対象

 事自体としての対象は、物自体としての対象と違い、認識の本来的な目的である。したがってそれは、不可知な対象であることを自ら許さない。そうでなければ、意識が認識を行う必要は無く、認識自体の必然性が失われてしまう。意識は事自体の認識において認識完遂を知るのであり、糞真面目にどうでも良い対象属性の認識に終始する必要はもともと無い。自己意識が自己本位の認識を可能にする条件は、自己意識において自己が主人であり、自己の仕事において、自己を目的とした認識の成立である。すなわちそれは「人民の、人民による、人民のための政治」の実現である。ヘーゲルにとってカントにおける善と幸福の分離は、不可能な善行を強要する専制の自己都合を体現している。したがってその定言は絶対専制における滅私奉公の勧めであり、その目指すところは善を自己犠牲の人骨の建造物で実現しようとする偽善である。ただしヘーゲルは思想史における徳と教養の役割を否定しているわけではない。もちろん啓蒙と革命の普及において、カントやヒュームが果たした役割を否定するはずもない。いずれの局面においても対象認識の真を問いただしたのはそれらの思惟であり、ヘーゲルは自らの哲学こそがその大団円なのだと考えている。
(2017/09/18)


ヘーゲル精神現象学 解題
  1)デカルト的自己知としての対自存在
  2)生命体としての対自存在
  3)自立した思惟としての対自存在
  4)対自における外化
  5)物質の外化
  6)善の外化
  7)事自体の外化
  8)観念の外化
  9)国家と富
  10)宗教と絶対知
  11)ヘーゲルの認識論
  12)ヘーゲルの存在論
  13)ヘーゲル以後の認識論
  14)ヘーゲル以後の存在論
  15a)マルクスの存在論(1)
  15b)マルクスの存在論(2)
  15c)マルクスの存在論(3)
  15d)マルクスの存在論(4)
  16a)幸福の哲学(1)
  16b)幸福の哲学(2)
  17)絶対知と矛盾集合

ヘーゲル精神現象学 要約
  A章         ・・・ 意識
  B章         ・・・ 自己意識
  C章 A節 a項   ・・・ 観察理性
        b/c項 ・・・ 観察的心理学・人相術/頭蓋骨論
      B節      ・・・ 実践理性
      C節      ・・・ 事自体
  D章 A節      ・・・ 人倫としての精神
      B節 a項  ・・・ 自己疎外的精神としての教養
         b項  ・・・ 啓蒙と絶対的自由
      C節 a/b項 ・・・ 道徳的世界観
         c項  ・・・ 良心
  E章 A/B節    ・・・ 宗教(汎神論・芸術)
      C節      ・・・ 宗教(キリスト教)
  F章         ・・・ 絶対知

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