カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

潜伏キリシタンと隠れキリシタンー学びあいの会雑談

2018-06-09 12:31:14 | 神学

 五月の学びあいの会は禅とエックハルトの話だったが、その後の昼食をとりながらの雑談で、話題は 2018年の世界文化遺産登録をめざす「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎、熊本)の話になった。世界遺産になれば関連教会は観光地化してしまうだろう。もう生月島でも「カクレキリシタン」はほぼ消滅したと聞くし、これからどうなるのだろうという話だった。わたしは「隠れキリシタン」はきちんと勉強したことは無いが、「キリスト教の(日本での)土着化」という問題意識から少し考えていることを述べてカト研の皆さんのご批判を仰ぎたい。

 まず、言葉の再確認が必要だ。最近はかなり定着したが、「隠れキリシタン」、「潜伏キリシタン」、「カクレキリシタン」という用語の使い分けだ。この使い分けは宮崎賢太郎氏などの努力でかなり定着してきているようだ。日本のキリシタン史はザビエル来日以後1549年に始まり、約100年におよぶキリシタン時代が幕を開ける。「隠れキリシタン」とは1614年の禁教令以降のいわゆるキリシタンのことで、一般的な用法だ。この言葉は教科書にも使われ、定着してきた。「潜伏キリシタン」の時代は1644年に最後の宣教師小西マンショの殉教にはじまり、その後230年間一人も司祭のいない信徒だけの時代のことをいう(注1)。1873年に明治政府がキリシタン禁制の高札を撤廃すると、カトリック教会に「戻った」人々を「復活キリシタン」、戻らずに潜伏時代のように寺社との関係を維持し、独特の信仰・習俗を持ち続けている人々を「カクレキリシタン」と呼び分けるようになった。カクレキリシタンはカナ表記である。ポイントは「カクレキリシタン」は「隠れて」いるわけでは無いこと、都市化のなかで「消滅しつつ」あるということのようだ。宮崎氏の表と写真を載せておいた。

 キリスト教の土着化という問題に関しては、宮崎氏はいくつかの著作で以下の三つの課題をあげている(注2)。

①多神教の土壌への根付き
②現世利益への対応
③先祖崇拝との折り合い

 ①の多神教の土壌に一神教であるキリスト教をどう根付かせるかという問題は遠藤周作をはじめ多くの文学者が取り上げてきた問題だ。わたしは多神教というよりは、日本文化がもつ汎神論的世界観、宗教的多元主義の問題だろうと考えている。カトリックが汎神論を批判する時、いろいろ言うが結局は汎神論には「人格神」がいないという点が中心となる。「宇宙は神である」、「天地草木に神が宿る」などという言明を人格論だけで否定していくのはかなり難しいと感じているが、カト研の皆さんはどう思われるでしょうか。
 宗教的多元主義も難しい問題だ。「山に登るのにはいろいろなルートがある だが到達する頂上は同じだ」というよく聞かれる言明も、わかったようで実はわかりづらい。というより、教会はこういう説明をとらない。もちろん教会は、「排他主義」は否定している。そして「包括論」とか「統合論」とかいろいろな説明を用意している。だが、これは神学的説明よりは実際の活動の面で議論され、評価される問題のように思われる(注3)。
 ②の現世利益も、無病息災とか商売繁盛のことだけではない。呪術(魔術)的行為を多くの日本人は習俗として日常的に行っている。たとえば、常香炉。煙を浴びて無病息災を願う。お守り・お札もそうかもしれない。メダイはお守りではないかといわれることもあるが、そうではなく、メダイは聖人と一緒に神のお恵みがあるようにと祈るためであって、それをもっているからといって事故に遭わなかったり、商売繁盛するものでもない。とはいえ、現世利益を願う祈りから魔術性をどう取り除くのかは日本文化はまだ試行錯誤のなかにいる。魔術とはウエーバーによれば神の意志を人間が操作することを意味する。祈りと魔術の区別はまだしっかりとは自覚されていないようだ。こういう点にはフィリッピンや韓国ではキリスト教の土着化の過程でどのように対応していったのであろうか。

 ③の祖先崇拝観念はじつはキリスト教の日本への土着化のなかで一番取り組みやすい課題ではないだろうか。自覚的なクリスチャンや仏教徒ではない普通の日本人が仏壇にお茶やご飯をあげる時、それはご先祖様にあげているのであって、仏様に対してではないだろう。第一、仏壇に位牌はあってもお大師様などのご本尊を飾っていない家が多いのでは無いか。位牌を拝んでいるのであって、仏様を拝んでいるのでは無いようにおもえる。この点、教会が、11月を死者の月とし、2日を死者の日にしていることは大事なことだ。また、ごミサのなかで亡くなった方に祈ることもある。韓国のようなシャーマニズムの伝統が弱い日本では、祖先崇拝観念をもっと教会の中に組み込んでいけるすべがありそうな気がするが、こんなことを言うとカト研出身の神父様方から叱られるかな。

 こういう土着化問題は結局はカトリック教会が「近代主義」を否定している、または肯定的には見ていない点に帰着するのではないかとわたしは日頃考えている。カト研の皆さんなら「反近代主義者の誓約」をご存知であろう(注4)。近代主義を否定するなどというと何を言っているのかと言われるだろうが(注5)、この雑談では結構盛り上がった話題だった。潜伏キリシタン論はもっと勉強してみたい。

注1 五野井隆史『キリシタン信仰史の研究』吉川弘文館 2017
注2 宮崎賢太郎 『潜伏キリシタンは何を信じていたのか』角川 2018 274頁
注3 多元主義は社会学よりは政治学を支える思想的基盤とされるが、社会学にとっても中間集団論など思想的影響力は大きい。
注4 自発教令 『サクロールム・アンティスティトゥム』Sacrorum Antistisum 。1910年教皇ピオ十世により発布され、1967年に廃止された。これは六つの誓約を述べているが、例えば次のような文章がある。
「最後に、私は、近代主義者たちが奉じる誤謬を、あらゆることについて全面的に嫌悪すると告白します。彼らは、聖なる伝統には神的なものは全く存在しないと主張し、あるいは、さらにもっと悪いことには、神的なものは存在するが、汎神論的な意味においてであると主張します」。第二バチカン公会議はこういう反近代主義と戦っていた。F・カー『二十世紀のカトリック神学』(2011)。
注5 (西欧)近代を宗教改革をベースに登場した合理主義(科学)・資本主義・民主主義の集合と見なすなら、近代の次に来るのはポストモダン(脱近代)では無く、中世への回帰という議論もある。たとえば、稲垣久和・大沢真幸『キリスト教と近代の迷宮』2018。

 

 

 

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