カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

聖書とイエスー「史的イエス」か「信仰のキリスト」か(1) (学びあいの会)

2018-06-25 22:24:21 | 神学

 学びあいの会はここしばらく、仏教・イスラム教・神道・儒教と他宗教の「霊性」観念を学んできた。今月から久しぶりにカトリック神学に戻ることになる。
 今回は上智大学神学部の川中仁神父さま(イエズス会)の講義(2011年度夏期集中神学講座)が紹介された(注1)。タイトルは「新約聖書とイエス」である(注2)。
 講義の焦点は「史的イエス」論の評価である。「史的イエスか 信仰のキリストか」(der historische Jesu versus der Christus des Glaubens)という繰り返し問われてきた問いである。現代のキリスト教神学の最も中心的な神学「キリスト論」の中核を構成する問い、課題と言って良いであろう(注3)。

 この講義は基本的に聖書についてある程度の理解があることを前提としている。そのため、以下の二点は改めて確認しておく必要がある。
 まず、「イエス・キリスト」という言葉だ。これをなにか固有名詞と捉えて、姓がキリストで、名がイエス、と考える人がいるようだ。安倍 晋三は姓が安倍で、名前は晋三、と見なすのと同じ思考だ。だがこれは全くの間違いである。イエス・キリストとは、歴史上実在したナザレのイエスという人物に関する一つの神学的主張、命題なのだ。ナザレのイエスはキリストです、という命題、信仰を表現している。名前ではない。ここがわからないと史的イエス論を理解できなくなってしまう。
 第二に、新約聖書は福音書、書簡など27文書もあるとはいえ、一つの共通した目的、目標をもっている。つまり、ナザレのイエスは、キリストである、神の子である、ということを論証する、実証することを目的としている。歴史書もある、黙示文学もあるが、目的は同じだ。ここがわからないと聖書はただの読み物の一つになってしまう。
 カト研の皆様には、当たり前のことを、と叱られるだろうが、史的イエス論は肯定的評価も否定的評価もあり、論争の焦点であり、議論を生産的にするためにはこの二点は忘れてならない。

 それでは本論に入ろう。

0・導入

0・1 新約聖書の根本命題

「イエスはキリストである」(イエス=キリスト)。ヘブライ語のメシア(油を注がれたもの)がギリシャ語のキリストとなる。ペテロの信仰告白、マルコ8:27-29がポイントだ。

そこでイエスがお尋ねになった
「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
ペトロが答えた。「あなたはメシア(キリスト)です。」

また、ヨハネ20・31には、ヨハネ福音書の執筆意図が述べられている。

これらのことが書かれたのは、
あなたがたが、
イエスは神の子メシア(キリスト)であると信じるためであり、
また、信じてイエスの名により命を受けるためである。

史的イエスと信仰キリストの区別・対比はM・ケーラーの著作(1892)に始まるというのが定説だが、ここからイエス論とキリスト論が区別されてくる。イエス論は、歴史的人物としてのナザレのイエスを明らかにしようとして、キリスト論はイエスに関する新約聖書の理解・主張を明らかにしようとする。信仰を持たなくともイエス論は可能だが、キリスト論はどうしても信仰が入ってくる。

0・2 キリスト教人間学としての「イエス・キリスト」

 イエス・キリストには二つのアプローチがある。イエス・キリストの生涯を客観的に対象化する「概念的認識」と、イエス・キリストの姿を自らの生き方に結びつける「実存的認識」の二つだ。前者は、歴史的・文献学的研究だし、後者は信徒に適合的といえるだろう。このキリスト論について川中師は主要な文献をいくつかあげているが、特に、W・カスパー『イエズスはキリストである』(邦訳1978)、百瀬文晃『イエス・キリストを学ぶー下からのキリスト論』(1986)を強調している。前者は現在でも読まれる名著のようだし、後者は「下からのキリスト論」として人気があるようだ。だが、否定的評価を下す信徒もいると聞くが、川中師は肯定的評価をしている。川中師の立ち位置がわかる。

1 「史的イエスの問題」

 ここからは史的イエスの研究史が整理される。実は史的イエスの研究史は、この講座の協力者でもある岩島忠彦師の講義があり、このブログでもかって紹介したことがある(2016年3月28日)。タイトルは「教義神学から見た史的イエスの研究史」というもので、研究史を三つの時代に区分していた。①イエス伝の時代 ②史的イエス再探究の時代 ③第三探究の時代。現代は第三探究の時代とされる。時代区分は論者により異なり、カトリックとプロテスタントでも違いがあるようだが、基本的にプロテスタント研究者の貢献が大きいようだ。日本で言えば、大貫隆氏や荒井献氏の名が思い浮かぶ。
 川中師の研究史の整理の仕方は興味深いので、次回にまわしてみたい。


注1 川中仁編『史的イエスと「ナザレのイエス」』  上智大学キリスト教文化研究所編 2010。川中師は、基礎神学、特にロヨラの『霊操』論がご専門らしい。まだ50歳代のようだが神学科を担うお一人という。
注2 議論上、「イエス」と「イエズス」の両方の表記が使われる。
注3 カトリック神学を構成する神学の諸部門をどのように整理できるのかは色々考え方があるのかもしれない。神学部の講義概要などからも推測できるが、基本的には「教義学」と「実践神学(応用神学)」の二部門からなるようだ。今回、S氏は、実践神学には、典礼神学・倫理神学・教会法学・霊性神学が含まれ、教義学には、啓示論・神論・キリスト論・三位一体論・教会論・秘跡論・神学的人間論(創造論・原罪論・恩恵論・終末論)が含まれるという説明をされた。比較的古い分類のように見えた。
 阿部仲麻呂師は『カトリック生活』(2014年10月号)で、異なった視角から整理している。つまり、「神学諸科目の相関図」を紹介している。そこでは、実践神学のなかにさらに「司牧宣教論」(司牧神学・宣教学・説教学・教理教育法・カウンセリング)を含めている。また、教義神学は秘跡論・教会論・キリスト論・神学的人間論からなるとし、エキュメニズム論は秘跡論に含まれ、教会論にはマリア論が含まれ、三位一体論や教父学はキリスト論に含まれるという。なお、実践神学・教義神学以外の神学の科目として、宗教哲学(諸宗教神学・基礎神学)、歴史神学(教会史・東方教会史)、聖書解釈学(聖書学・ヘブライ語・ギリシャ語)、哲学的解釈学(哲学的人間学など哲学史・宗教史・倫理学・形而上学など)があると説明している。神学の体系の整理の仕方も多様なようだ。両者に共通して言えることは、教義神学ではキリスト論が、つまり、「史的イエス・信仰のキリスト」論が中心的位置を占めているという理解である。

 

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