Ⅱ 人類史の新しい時代の中にイエスのみ顔を探す教会
ここでは、イエスのみ顔を探すためには、「目覚めていなければならない」、「注意深くなければならない」、ということの意味が説明される。
[1] 現代への教会の認識
教会は現代社会をどう認識しているのか。『現代世界憲章』がその答えだ。特に項目4が引用される。ここは、6項目ある「前置き 現代世界における人間の状況」の一部で、項目4は「希望と不安」と題されている。「人類史の新しい時代が始まっており、深刻で急激な変化が次第に全世界に広まりつつある・・・霊的成長はそれに追いつかない」(7頁)。実はこれは50年も前のバチカン第二公会議のときになされた時代認識だ。認識が変わっていないことに驚くよりも、半世紀前にすでに今日を見通していたことに驚く。
[2] この時代にイエスを探す教会
1)観想すべきみ顔
こういう時代だから、われわれは、キリストについて「語ってほしい」のではなく、キリストに「会いたい」と願っている。 キリストに顔を合わせて会いたいのなら、キリストのみ顔を観想せよ。これは聖ヨハネ・パウロ二世の言葉だという。
2)現代の「時の徴」としての霊性
つまり、世俗化が進んでいるにもかかわらず、同時に霊性を求める声が強まっている。「霊性神学」という新しい学問が誕生し、21世紀の「時のしるし」になっている。ここで中川師は、霊性神学を支える3人の教会博士(十字架の聖ヨハネ・アビラの聖テレジア・幼きイエスの聖テレジア)がカルメル会であることを強調された(注1)。
3)真実の霊性を求めて
古い霊性観は、内向きで個人主義的だった。それは神を排斥したり、偽りの自立として表現される「霊性消費主義」になってしまった(注2)。現代の「聖性」は真実の霊性でなければならない。では真実の霊性とは何か。それは、「目覚めて生きること」、「注意深くあること」、だという。
[3] 「目覚めて生きること」「注意深くあること」を提唱する教会
1) 注意深さの大切さ
ここで中川師は、突然、大江健三郎とシモーヌ・ヴエイユを紹介し始める。「ピンチの時は注意深く」と述べた大江健三郎、『重力と恩寵』のなかで祈りは注意によって成り立つと述べたシモーヌ・ヴエイユ。この二人への中川師の思い入れの背景はよく分からないが(注3)、教会は2000年間注意深くあろうとしてきた。メタノイアへの招きとしての四旬節がその現れだという(注4)。
2) 典礼に見える「目覚めていること」
目覚めていることの大切さは典礼の中で繰り返し出てくる。
(1)待降節第Ⅰ主日 A年はマタイ24:37-44,B年はマルコ13:32-37,C年はルカ21:25-28,34-36。ご自分で聖書にあたってほしい。
(2)年間最終週(第34週土曜日の福音) ルカ21:34-38
しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、
人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。
この箇所は典礼歴の結びの呼びかけだという。
(3)復活徹夜祭はなぜ「徹夜」なのか ルカ12:35-37 ⇒ 「目を覚ましていなさい」
「こうして、主の帰られる時、目を覚ましているのを見いだされ、主とともに食卓に着くように招かれるのです」。典礼書の解説にはこう書かれているという。
[4] マインドフルネス Mindfulness
次に師は、驚くべきことに、マインドフルネスを現代の新瞑想法として提唱する。マインドフルネスは、薬物依存などの治療法として精神医学や臨床心理学で使われているが、師はここで現代の新瞑想法として取り上げる(注5)。
1)マインドフルネスとは
師によると、マインドフルネスには二つの大きな特徴があるという。
ひとつは、それが、「<今>を意識し、<今>に注意を向ける」点だ。われわれは自分で思っている以上に「過去」や「未来」にとらわれている。だから、後悔したり、不安になったりする。「今」を生きていることを実感すれば、世の中との関わり方やものの感じ方が根本から変わるという。
第二の特徴はその「脱宗教性」だという。最初の唱道者ティク・ナット・ハンはインドの仏教者だったが、マインドフルネスは精神医学の影響下で宗教性を無くしていったという。
師によれば、「今」を意識することは、「注意深くあること」の現れだという。「今」に注意を向ける。「過去」や「未来」にとらわれないことが大事だという(注6)。
そして、マインドフルネスの試みとして師は皆と一緒に「沈黙」をおこなった。「ちゃんと背筋を伸ばして」と指導もあった。数分間と長かったが、はじめてのことなのでみなさん結構楽しんでいた様子だった。だがいろいろ考えさせる試みではあった(注7)。
2)マインドワンダリングとは
ストレスをため込む仕組みが分かりつつある。目の前の現実ではなく、過去や未来について考えを巡らせてしまう状態は マインドワンダリング(心の瞑想) Mindwondering と呼ばれるという。問題は、最近の研究によるとマインドワンダリングは一日の生活時間の中で半分近くを占めているというじじつだ。つまり、「心ここにあらず」で「ストレス」反応がずっと続いているのだという(注8)。現代人の病の話である。
[5] 「今、ここに生きる」
日常生活において「イエスに注意深くある」ことの意味が説かれた。
1)『ラウダート・シ』の勧め
注意深くあることについて、回勅はなんと言っているか(注9)。「話しているのは、心の在り方です。それは、落ち着いた注意深さを持って生活しようとする姿勢・・・です」(L.S.226)
「こうした姿勢の表れの一つは、食前食後に手を止めて神に感謝を捧げることです」(L.S.227)。
「リジューの聖テレジアは、愛の小さき道を実践すること、また、優しい言葉をかけ、ほほえみ、平和と友情を示すささやかな行いのあらゆる機会を逃さないようにと、わたしたちを招いています」(L.S.230)(注10)。
2) 十字架の聖ヨハネ・アヴィラの聖テレジアからの勧め(注11)
①十字架の聖ヨハネにならって、「イエス! あなたならどうなさるのですか」と問いかけながら生きることが注意深く生きることです。『愛の生ける炎』を読みなさいと言われた。
②念祷をもって生きる
「念祷とは、わたしの考えでは、私たちを愛していると私たちが知っているお方と、ひとりきりで交わりながら、しばしば一緒にいながら、友情の交わりをすることに他なりません」(アビラの聖テレジア『自叙伝』8・6)。これはよく使われる念祷の定義である(注12)。念祷が注意深く生きることとどうつながるのかは詳しくは説明されなかったが、師は、日常生活ではなく、霊的生活においては、念祷こそ注意深く生きることのあかしだと言われているのかもしれない。
さて、次は現在の教会が、イエスをどのように、どこに探しているのか、というカトリックの人間論に入る。長くなったので次稿にゆずりたい。
注1 教会博士は全部で35名いるようだが、一つの修道会から3人の教会博士を出しているのは珍しいという。
注2 『福音の喜び』項目89,90(85頁)。共同体を持たない「快適の霊性」とか、兄弟姉妹に対する責任を負わない「繁栄の神学」など、激しい言葉が並ぶ。
注3 『存在の根を探して』のエピローグ「人とは何ものかーメタノイアの道」でも少し触れられているが(228頁)、よくわからない。
注4 師は、「信仰に一生懸命励んで、毎日頑張って信じていても、もしそれが間違いだとわかったらったらどうするの。もっと力を抜いて、注意深く考え、行動なさい」と(関西弁で)言われた。あまり司祭らしくない表現に聞こえるが、こういう言い方の方がわかりやすい。
注5 一昔前なら、霊性神学は「禅」を導入した瞑想法を強調していた。いまやマインドフルネスが禅に取って代わったようである。カト研の指導司祭W・ジョンストン師はその実践者にひとりだった。ジョンストン師もマインドフルネスを知っていた。それが「観想」に「類似」していると述べている(『愛と英知の道』第18章 492頁)。だが、「マインドフルネスは結局仏教であり、キリスト教の観想とは同じではなく、自分としては混同したくない」と述べている(Mystical Journey、2006,p.156、拙訳)。
注6 なんとなく分かる気もするが、でもこういう「今」重視が、今現在楽しければいいや、という刹那主義や、死んだらお終いという現世主義と、どこで切り分けるのだろう。セラピーの手法としての議論と、瞑想法としての議論は異なるように思える。
注7 これは、公共の場でよくおこなわれる「黙祷」ではなかった。いわゆる黙祷では、目をつぶっているときに人は何を考えているのだろう。というか、何を考えることを求められているのだろう。たとえば、全国戦没者追悼式では1分間の「黙祷」が式次第の中に入っている。全国民が一斉に黙祷するように「勧奨」されている。だがなにかを祈るのだろうか。1分間でなにが祈れるのだろうか。それとも、弔意を表すだけでよいのか。宗教性を抜いた「黙祷」の意味を考えている。
注8 そうかもしれないが、「注意深くある」こととどうつながるのだろう。講演後の質疑応答の時間に、「注意深くあろうとしたら、寝る暇も無い。自分はすぐ眠くなってしまう。どうしたらよいのか」という、冗談かホンネか分からない質問があった。神父様も、「よく眠らないと注意もなにもありませんよ」と答えて皆さんを和ませていたが、わたしには考えさせる質問であった。
注9 『ラウダート・シ』とは、聖フランシスコの『太陽の賛歌』からとられた一節で、「わたしの主よ、あなたは称えられるように」という意味らしい。J・M・ベルゴリオ大司教が教皇に選出されたとき、フランシスコの教皇名を選んだ時皆驚いた。フランシスコを名乗る初めての教皇だったからだ。今にして思えば、フランシスコは環境などの守護聖人だし、教皇さまの今の活動や主張とぴったりの名前だ。ちなみに教皇さまが言われる Integral ecology は、教会は「全人的エコロジー」と訳しているが、なにか座り心地が悪い。
(注10) 師はここで、人間が一人一人変われば世界は変わる、と繰り返された。これはなにか小学生に言い聞かす道徳みたいで、大人は、社会は体制や制度や組織が変わらなければ変化しないと思っているものだと言われてきた。師はこの講演でも、社会の構造や文化に殆ど言及しなかった。でも『ラウダート・シ』にしたがえば、結局人間が変わらなければ世界は変わりません、というのが中川師のお考えのようだ。そしてそれはよく納得できるお話しだった。
(注11) 師はカルメル会だから、十字架の聖ヨハネとアビラの聖テレジアを取り上げるのは自然だ。注意深く生きることの模範をこの二人にみているのかもしれない。なお、師は、十字架の聖ヨハネを紹介しても、神秘主義神学には言及しなかった。霊性神学と神秘主義神学を区別しておられるのかもしれない。
(注12) 念祷とはなにか、観想とどう違うのか、などは神秘主義神学の課題だ。女子のカルメル会は観想修道会。