川中師の神学講座の続きである。11月の学びあいの会は出席者が少なかった。
今年もいよいよ最後の週に入った。神父様のお説教によれば、年の「終わり」が近づいたというよりは、「完成」が近づいたと考えるべき週だという(1)。
3・4 「貧しい者」とは誰か
今回は、イエスが貧しい者の側にたっていたことが強調される。では「貧しい者」とは誰のことかという話になる。
だがその前に、イエスその人は貧しかったのだろうか。貧しい家庭の出身だったのだろうか。福音書にはイエスの経済的階層や身分についての言及はないようだ。だが、かれは、生活のために働いている姿は描かれていない。畑で働いたり、ガリラヤ湖で漁をしたりはしていなかった。イエスは、文字や聖書を学び、考え、祈ったりする自由な時間を持っていたはずだ。もしかれが、マルコ6・3が言うように「大工」だったとすると、イエスは当時のユダヤ人社会では最下層ではなかったし、貧農(peasant)ではなかった。強いて言えば、小市民層とでも呼べる階層に属していたようだ。
イエスの家族、ヨゼフもマリアも貧しい者としては描かれていない。12人の弟子も貧農ではなかった。むしろ裕福な人がいた。マタイ、ペトロ、ユダ、ゼベダイの子らは裕福だったようだ。イエスを貧しい家庭の出身とすることはできない(2)。だがこれは、今回の講義の中心テーマではない。
1 貧しい者/罪人
1) 貧しい者 ptochoi プトコイ は、イザヤ61・1や、ルカ4・18にみられるように、ユダヤ社会における社会的弱者(被抑圧者・被差別者)をさす。寡婦・孤児・寄留者などだ。
2) 貧しい者とは罪人 hamartoloi をも指す。罪とは律法に違反する行為という意味にされていたから、罪人とは広義には律法違反者のことであった。だが、やがて卑賤な職業従事者を指すようになる。具体的には徴税人(ルカ18・9)や娼婦(ルカ7・36)などだ。
わたしの印象では、問題は、この「罪」の思想が、旧約の「汚れの思想」(浄/不浄)の延長線上に生まれてきていることだ。旧約では、浄/不浄思想はかなり強く、レビ記11-15章では、蹄のない動物など一定の種類の動物、出産・皮膚病・出血・月経・精の漏出・死体との接触などが汚れ(不浄)とされた。最大の不浄は他の神を奉ることだった。預言者はこれを罪と見做し、「清め」(浄め)として「贖い」を求めた(3)。ファリサイ派や律法学者はこういう不浄規定を偏重し、形式的に適用し始めた。イエスはこういう姿勢を批判することから教えを始められた。汚れの思想と罪の思想を連続線上で捉えないと「貧しい者」の姿が浮かんでこない。
2 「貧しい者」の側にたつイエス
イエスは貧しい者の側にたった。それはどういう意味なのか。
1)イエスの社会階層
イエスはどういう階層に属していたのか(4)。
マルコ6・3「この人は、大工ではないか」。
マタイ13・55「この人は大工の息子ではないか」。
イエスの職業に関しては「大工 テクトン」説が有力だが、この説はイエスの社会階層を「小市民階層」と位置づける。他方、「石工」(石材加工業者)説を唱える聖書学者や司祭も多い。石工は階層的には下層であり、イエスは社会的な下層出身であり、だから貧しい者の立場に立つのだ。だから教会は現代でも下層の者に寄り添わねばならないと主張する人々だ(5)。さらには「建設職人」と訳す学者もいるようだ。つまり何の技能も持ち合わせない最下層に属すると考える人々だ。
中川師の立場は明確ではないが、小市民層所属と考えておられるようだ。
2) イエスの罪人との会食
イエスが罪人と会食したことは律法学者たちを怒らせた。イエスを死に至らせた最大の理由と言っても良いかもしれない。
a) 「罪人の招き」はマルコ2・17だ。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
これには、律法の食物規定が背景にある。食物規定は、マルコ7・1~23とか、ルカ11・37~41にあるが、食事の前に手を洗えとか、身を清めよとか、杯や寝台を洗えなどだ。寝台を洗うとは驚きだが、要はファリサイ派や律法学者がイエスに言いがかりをつけているわけだ。イエスは形式的儀礼だけでは「神の言葉を無にしている」として、罪人を食卓に招くのだ。
b) 「悔い改め」 ルカは5・32で、「わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」という。つまり、「回心」による全人間的変革を強調する。
c)だが、マタイは違う。マタイは、ルカのように律法を否定しようとしない。少なくとも、イエスを律法を否定する者としては描かない。むしろ、律法を「完成させる者」として描いていく。マタイ5・17「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」。
マタイのこういう編集作業を律法原理の回復と評する聖書学者もいるようだが、マタイはユダヤ人に向かって語っているのだから、ユダヤ人を怒らすような言い方をしないのは当然と言えば当然だ。他方、ルカは異邦人に向かって語っている。「悔い改めよ、回心せよ」が主要なメッセージになるのはよく分かる話である。
3) 貧しい者と連帯するイエス
イエスは貧しい者の側にたつ。
ルカ7・34 「人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」。
また、マタイ21・31では、「イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」
中川師は、イエスのこの貧しい者との連帯は当時の社会秩序への挑戦であり、イエスを十字架の刑による死に至らしめたという。
では、貧しい者との連帯とはなんのことなのか。師は、「解放の神学」論争に言及されたようだ。解放の神学論に影響を与えたと言われる「従属理論」は社会科学の世界では現在ではほぼ決着のついた論争だが、解放の神学論争はカトリック教会ではまだ続いているのかもしれない(6)。
次は「幸いの説教」(真福八端)の話だが、長くなるので次稿にまわしたい。
注1 こういう暦の話は教会の中では当たり前でも、教会外では話が通じにくい。とはいえ、最近は教会でも七五三がお祝いできるようになったように、変わっていくことであろう。
注2 イエスは貧しい者の味方だったからイエスも貧しい家庭の出身だと主張する聖書学者も多いようだ。イエスの職業は「大工」ではなく、「石工」だという学者や司祭に多い考え方だ。
また、神学者クロッサンの『史的イエス』(1991)の影響のもとイエスは「貧農」出身だという聖書学者も多いようだ。だが現在はこの説は否定されているようだ。貧農(peasant)とは職業分類と言うよりは、本来は「田舎で働く者」という意味であり、「貧しくさせられた者」という含意を含むという(チャールズワース『史的イエス』270頁)。
注3 穢れと清めの思想は我々にもなじみ深い。汚れの思想は仏教系らしいが、神道にも入り込んでいるようだ。とはいえ、汚れの中でも「死」は神道では汚れだが、仏教では汚れとは見做されないようだ。葬式は寺で行われるが、神社で葬式は行われない。この汚れや清めの思想からキリスト教に近づく人もいるのかもしれない。だが仏教や神道にはキリスト教の贖いの思想はないように思える。
注4 「社会階層」とは中川師の表現。中川師がどういう意味で社会階層という言葉を選んだのかははっきりしないが、どうも「職業階層」という意味らしい。しかし「最下層」という言葉もよく使っておられるので、ユダヤ人社会を「上・中・下」と分けて考えておられるようだ。
注5 S氏は、今日、日本の教会で著名なK師やF師の名前を挙げて簡単に紹介されていた。評価の分かれる司祭たちである。
注6 ラッチンガー(前教皇ベネディクト16世)は教理省長官時代に、解放の神学は福音のメッセージを歪めるとして批判的姿勢を明確にしたが、現教皇フランシスコはもっと理解のある姿勢を示しているようだ。だがこれは、現教皇はリベラルすぎるとして現教皇を批判する保守主義者に格好の論点を与えてしまっているのかもしれない。いずれにせよ、聞くところによれば、フランシスコ教皇さまが来年日本を訪れる可能性は強まっているようだ。これほど楽しみなことはない。