Ⅱ 教会の定義と本質
1 教会の定義
前稿で見た教会論では、教会は神学的にはキリスト教信仰を「仲介する」機能にその存在意義があるとされていた。キリスト教信仰が歴史において形を取るのは教会においてであるからだ。聖書、典礼、秘跡、教義、聖職者、公会議はすべて教会により仲介されるという。増田師はこれを教会の「シンボル機能」と呼んでいる。仲介とは信仰の世界内次元と超越的次元を媒介するという意味だ。教会は人間の集まりであり、かつ、秘跡でもある。この両者を媒介しているのが教会だということのようだ(1)。では教会の「定義」とはなんなのか。
教会は、「キリストの体」、「キリストの神秘体」、「救いのための普遍的秘跡」、「神の民」などと定義されることが多いが、あまりぴんとこない。これらは教会の超越的次元の特徴を表現しいているからだ。そこで増田師は、教会の構成員から教会の定義を試みる。教会を構成するメンバーは普通「洗礼」を受けた人々からなると考えられている。では洗礼を受けていない人は教会の構成員ではないのか。
そんなことはない。「教会憲章」は、ユダヤ教徒も、イスラム教徒も、神を求めている人も、善意の無神論者も、その救いの可能性を「肯定」している。つまり、洗礼は教会の構成員の要件ではあるが、絶対的・排他的条件ではないということになる。むしろ、「聖霊に息吹きかれたキリストの弟子たちの共同体」が教会だという説明だ。これは、肯定的な意味で、驚くべき説明ではないだろうか。この説明は教会の「本質」を考えないとわからない。
2 教会の本質 ー 教会は「神秘」である
教会を集団とか共同体とか人間の集まりとしてだけ捉えるのではなく、むしろその「神秘性」「秘跡性」でも捉える必要がある。「教会憲章」の第1章は「教会の神秘について」と題されており、「教会は三位一体の神による救いの神秘」と定義されている。
K・ラーナーは、「教会はキリストの受肉の機能の継承」と定義している。
増田師は、「教会の秘跡性は、世界内次元と超越的次元とを仲介するシンボル機能」のことだと定義している。
どれも教会を社会集団としてだけではなく、「神の自己譲与」にその本質を見ている点で共通している。「神の自己譲与」は「聖霊」というかたちと、「イエス」というかたちで姿を現す(2)。
だが、こういう神学的説明だけでは不十分で、教会の本質は歴史のなかにも見いださなければならない。教会がどのようにして生まれ、どのように発展したかは、歴史分析の課題である。
ここから、初代教会(ユダヤ教)、古代教会(職制の成立)、迫害の教会、公認後の教会、中世の教会(教皇権)、宗教改革、近代、現代の教会、と「個別論」が始まる。この歴史分析は教会論の中心テーマだが、歴史分析だけあって論者の「評価」の問題が常につきまとう(3)。そこで、ここではこの部分の要約を飛ばして次に進みたい。
Ⅲ 生前のイエスと教会
1 「神の国」と「教会」
教会は神の国だという「神の国の教会論」というものがあるようだ。「神の国」とは、神が歴史に介入し、人間に働きかける救いの出来事のことをいう(4)。イエスの福音、イエスの存在そのものが「神の国」の到来を意味していたようだ。
だが、岩島師は、神の国と教会はきちんと区別せよと言っているようだ。
①両者を同一視することは出来ない。神の国は神の働きかけだが、教会は人間集団だ
②神の国の福音から教会は生まれた
③とはいえ両者は無関係ではない。どちらかという極端な議論は避けるべきだ。
そして師は重要なことを言われる。イエスが生前、教会設立の意図を持っていたかどうかは、神の国の使信からは、つまり聖書からは、判断できない、という。イエスは使徒を集められた。だがこの使徒たちは自分たちの「集会」を「教会」に作り替えようとしたのだろうか。
2 弟子の召命 (マルコ3:13~14)
イエスはイスラエルの12部族から12人の弟子を召し出し、教育し、派遣した。だから、生前のイエスには「教会の意識」があったことは確実だ、というのが岩島師の判断だという。
3 ペテロの約束
「あなたはペテロ。私はこの岩の上に私の教会を建てよう」(マタイ16:18~19 協会共同訳)
このイエスの言葉は、後にローマ教皇の首位権、不可謬権の根拠とされた。このため、教会論では、この文言には根本的な疑問が残るとして批判的に議論されることが多かった。これは本当にイエスのことばなのか。ペテロの後継者にも適用されるのか。そもそもこのことばはマタイ福音書にしか書かれていないではないか、などの批判が相次いだ。主な批判は次のようなものだ。
①これはペテロの権威を示すために後の教会が創作したのではないか
②イエスが教会という言葉を使ったはずがない
③マルコ、ルカには書かれていない
④エクレシア ということばはここだけで使われている
岩島師はこのような批判に対して次のように反論しているという。
①福音書が作られていた時代(60~80年代)、ペテロの権威は失墜していたにもかかわらずこの記載があるのは、むしろ信憑性を示しているのではないか。
②エクレーシア(ギリシャ語)はヘブライ語ではカハルで、「集会」の意味。旧約聖書にはよく出てくる普通名詞だ。
③カハルは旧約からの伝統的表現で、マルコやルカにも同様の表現がある。
つまり、岩島師は生前のイエスにはある種の教会観と呼べるようなものがあったと考える方が妥当だ、ただしこの文言から教皇の首位性を読み取るのは無理だ、という判断のようだ。この判断の妥当性を私は論じることはできないが、日本の教会内での岩島師の立場から見てこれが現在の日本の教会の教会論と考えて良さそうだ。
4 最後の晩餐
これについても色々問題点が指摘されてきたという。
①イエスは記念をおこなうことを委託したのか
②聖体の祭儀は歴史のイエスに端を発しているのか
③イエスは自分の宣教が引き継がれることを本当に望んでいたのか
岩島師はすべての問いに「そうだ」と答え得ると言う。最後の晩餐から聖体の祭儀へは連続性があり、教会の初めから聖体祭儀が存在したからだという。
5 教会の成立の前提としてのイエスの生涯
結論的には次のように言えるという。
①イエスの宣教のメインテーマは神の国。教会設立はメインテーマではない。だが、教会設立を意図していなかったとは言えない。
②エクレーシアは旧約の神の民カハルの延長上にある。
③イエスによる弟子の育成と派遣、洗礼、晩餐は、イエスが自分の死後の宣教の継続を意図していたものと考えられる。
④イエスの死後、教会はすぐに成立した。イエスの生涯は、教会成立の準備、前提だった。
注
1 増田祐志『カトリック教会論への招き』第1章第3節 27頁。もちろん、「信仰のみ」「聖書のみ」を主張する立場からは相容れない教義である。
2 こういう「神の自己譲与」という説明は「形式的教会論」と呼ばれるらしい。「神の自己譲与」論はキリスト論の重要なテーマだ。K・ラーナーにならえば、それは「聖霊の経験 Erfahrung des Heiligen Geistes 」として、また、「キリストの受肉 Fleischwerdung 」として、具体化されるという。聖霊の経験とは聖霊降臨のことを念頭に置いているらしく、また、キリストの受肉とは歴史のなかに現れたイエスのことを指している。
3 例えば、前稿では、「トマスには教会論はない」と述べられていた。スコラ神学そのもに教会を独立した対象とした議論はない、という意味なのだろうが、トマス・アクィナスに教会論が全くないとは言えないようだ。例えば増田師は、『神学大全』をとりあげてトマスの教会論(教会の4属性論)を説明している。増田祐志『カトリック教会論への招き』第4章第3節。なお、「大全」(スンマ)とは、スコラ学が聖書と伝統だけではなく、プラトンやアリストテレスなどのギリシャ哲学その他の思想も組み込んだ統合的な学問だということを意味する。
4 「神の国」とは別に「天の国」という概念がある。マタイ福音書が中心で(18:1~)、マルコ1:15とかルカ17:20などだ。イエスは「神の国」を終末論的な意味で使っていたようだが、「天の国」は「天国」とか「楽園」という意味が強いようだ。