カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

古代教会の組織化の始まり ー 教会論(9)

2020-02-24 22:46:08 | 教会

 2月の学びあいの会は新しい天皇誕生日の振替休日におこなわれた。春一番のあとの暖かい一日であった。コロナヴィルス騒ぎにもかかわらず参加の顔ぶれはいつもと変わりなかった。
 第11・12・13章に入る。タイトルは「古代教会の自己展開」であるが、教会の組織化はほとんど進まず、また、これといった明確な教会論は展開されなかった、ということが明らかにされる。
 前回までの新約聖書時代の教会論では、教会の本質が「神の民・キリストの体・霊の被造物」の三点に整理できることが説明された(1)。今回はこれらの本質がどのように具体化され、制度化されていくかと言うことが主要テーマとなる。

第11章 教会の本質の自己実現について

 前回まで述べてきた教会の本質(3項目)は、抽象的存在ではなく、歴史的存在である。「本質と形態」は同一ではなく、現実の教会にその本質が具現化しているわけでもない。しかし形態を通してしか本質に迫ることは出来ない。たとえば、今日の教会論の主要なテーマー教会の権威、教皇の首位権、不可謬権、ヒエラルヒー、女性の聖職、エキュメニズム、などなどーは聖書に展開された教会論ではない。歴史的に積み重ねられてできあがったものである(2)。
 教会の本質の自己実現の歴史は「神のわざ」と「人間の自由意志」との相互作用のなかで起こる。その特徴は以下の3点にある(3)。
①歴史的一回性
②構成員の自由な行為による展開
③哲学による予知不可能性

第12章 古代教会の自己展開ー指導形態

 教会は組織化とまではいかないが、ある「指導形態」を取り始めた。

Ⅰ 始まり・導入

 古代教会の古代とはいつまでの時代を指すのか。古代の終わりは大体500年頃というから、大体教会教父の時代と同じと考えて良さそうだ。(395年東西ローマ帝国の分裂、476年西ローマ帝国滅亡)。
 岩島師は、古代教会の一般的特徴として、①教会の急速な拡大 ②内部構造の形成 の2点をあげているが、基本的には霊的共同体としてみられていたという。その根拠は「使徒教父文書」である(4)。S氏は特に「ディダケー」(Didache)について詳しく紹介しておられた(5)。

Ⅱ 使徒継承論 ー ローマのクレメンス

 ローマのクレメンスは第4代教皇に列せられている。教会内部での主導権争いで使徒たちの任務の継承(使徒継承)が困難になっていた。クレメンスは教会組織を現在で言えば「位階制」としてみており、司祭職の継承(使徒継承)は伝えられた使徒の教え(使徒伝承)を守る保証だと考えたようだ。教会は既になにか組織または制度として考えられていたようだ。

Ⅲ 職制三段階(司教・司祭・助祭)の完成 ー アンティオキアのイグナティオス

 これも使徒教父文書だが、アンティオキアのクレメンスが各地の教会に送った手紙の中に既に「監督・長老・執事」という制度が見て取れるという。つまり、司教・司祭・助祭という制度だ。この制度が教会の一致を保証するという考えだという。イグナティオスは「仮現説」(受肉・受難・復活を認めない)や「ユダヤ主義」(ユダヤ教の律法遵守)を批判し、「監督」の重要性を述べているという。「カトリック」という言葉が用いられ(公同教会・カトリック教会)、監督のあるところにカトリック教会があるとした。カトリックが「普遍」という意味を帯びてきた契機だという。岩島師は150年頃にはこの制度が全教会で定着していたという。

Ⅳ 司教座・教会会議・公会議

①教区制度の確立

 当初は各州の首都に司教座ができ、やがて地方にも司教区が拡大する。そして首都大司教(のちの大司教)が生まれ、パロキアがディオツェージスに替わる(parish が diocese に替わる)。そして総大司教(パトリアルカ)が誕生する(6)。

②教会会議に見る教会観

 2世紀後半から特に異端との闘いのなかで教会会議が開かれ、新しい教会観が生まれてくる。テルトリアヌス(7)によれば、教会会議は司教中心で、司教区を超えた広い範囲の会議のことで、ローマ帝国の州議会がモデルだという。その特徴は以下の二点だという。
1 教会会議は信仰と教会に関する問題を取り扱う(規律、教え、異端問題など)
2 地方教会の決定は全教会に共通という意識(決定事項は書簡で他の地方に伝えられた)

③公会議

 やがて公会議が生まれてくる。これは全世界の司教会議。教会が世界的に発展した結果生まれた。「使徒会議」に源を持つとはいえ、「教会会議」から直接発展したわけではなく、皇帝主導という特徴があった。第1回はニケア公会議(325)。第二バチカン公会議(1962-65)が21回目とされている。

Ⅴ ローマ優位と「ペテロの教会」論

 ローマの司教はいつから教皇なのか。どんな権威を有していたのか。
大きく見て、ローマの司教は2世紀頃から指導力を発揮し始め、4世紀には確固としたものとなり、6世紀以降は教皇とはローマ司教のみを指すようになった。

 

1 ローマ優位の根拠

①ローマはペテロ、パウロの殉教の地である
②ローマはローマ帝国の首都である

2 ローマ司教が教会全体に介入した

①ローマのクレメンス(第3代ローマ司教)の「教職」観
②アンティオキアの司教イグナチオスのローマ教会への敬意(8)
③復活祭論争・パスカ論争(9)
④エイレナイオスが『異端反駁』でローマの首位権を認証した(10)

3 「ペテロの教会」論

 ローマの司教はペテロの後継者だという理解のこと。
ローマ司教シキキウス(402-417)はペテロの後継者である自分は全教会の責任者であると述べた。第3回公会議エフェゾ公会議(431)には教皇使節の手紙が送られた。レオ1世(440-461)によりペテロ教会論は完成したという(11)。

4 ローマ司教の呼称

Papa : 東方教会では総大司教、大司教、大修道院長にも使われる。西方教会では5世紀中頃から(グレゴリウス7世)という。
Pontefex Maximus : ポンティフェックス・マクシムス 橋を架ける人
Vicarius Christi :  キリストの代理者
Servus servorum : 下僕中の下僕

 ローマ司教の権威は、最初の300年間は地域の司教間でまとまらない問題に介入する程度にすぎなかった。コンスタンチノープル遷都後、コンスタンチノープル総大司教の権威が高まり、ローマと不調和となる。カルケドン公会議(451)のレオ1世によりローマ司教の権威が高まり、中世のグレゴリウス7世(1020-1085)(カノッサの屈辱で著名)で不動のものとなる(12)。

 長くなったので、第13章は次回にまわしたい。



1 教会の「本質」とは通常「一・聖・普遍・使徒継承」と定義されるようになるが、それは後の時代のことである。これは岩島師の整理と理解しておきたい。
2 これは当然の主張のように聞こえるが、立ち止まって考えてみると伝統的教会論からみるとかなりラディカルな主張のようにも聞こえる。
3 この特徴の整理はよく理解できなかった。私なりに理解すれば、誕生したばかりの教会には常に分裂の危機があった。主導権争い、正統・異端論争、教会への迫害への対応策をめぐる争いがあったと言うことであろう。教会は誕生したばかりで、組織らしい組織はできておらず、外からも変わった新興勢力としてしかみられていなかった。本拠地も、エルサレルム・アンティオキアの二つに分かれ、やがてローマが中心地になっていく。こういう激動の歴史的背景のことを指しているようだ。 
4 「使徒教父文書」とは90年代-150年代に成立した10(または7)の文書のこと。新約聖書と教父文書の中間の時代に書かれた。時代的には新約聖書の一部の文書と重なるか、それ以前のものらしいが、使徒の名前が冠せられていないので新約聖書のなかには含まれなかったという。教会の正統的信仰の線上にあり、教会では新約聖書に次ぐ重要な文書とされている。『ディダケー』(12使徒の教訓)が最も重要らしいが、そのほか「ローマのクレメンスの第一・第二の手紙」(97)「バルナバの手紙」「ポリュカルポスの手紙」「アンティオキアのイグナティオスの手紙」(110)「ヘルマスの牧者」の7文書と、さらに3文書を含むこともあるようだ。基本的に正統信仰だが、パウロの思想からは離れているという。
5 ディダケーとは「教え」という意味らしいが、日本語では「12使徒の教訓」と呼ばれるようだ。マタイ福音書との類似性が高いという。内容は二部構成で、一部は洗礼準備のための教え、二部は教会生活の諸規定(祈りや聖餐など)が書かれているという。
6 「5大総大司教」とは、ローマ・コンスタンチノープル・アレキサンドリア・アンティオキア・エルサレレム。現在はローマ以外はほぼイスラム化している。この変化の過程で「枢機卿」が生まれてくる。枢機卿とは「教皇の顧問」で、公会議での議決権を持つ。枢機卿の人数や資格は歴史的に変化するが、現在は司教であることが条件のようだ。
7 テルトリアヌス(160-220)は最初のラテン教父。教会の「聖性」はどこに由来するかという問題に関してモンタノス派の異端運動と対決し、教会の「聖性」は「構成員の聖性」に由来すると主張した。この主張はやがてアウグスチヌスによってさらに止揚され、教会の聖性は教会の構成員ではなく、教会そのものに由来するとされ、「聖なる教会」という考え方が定着していく。
8 アンティオキアはパウロやバルナバたちの拠点だった。ここがローマに屈服していくことになる。
9 パスカとは過越祭を意味するヘブライ語。復活祭をいつ祝うかについての論争。結局325年のニカイア公会議で、「春分後の最初の満月後の最初の日曜日」となったが、議論は今でも続いているようだ。
10 エイレナイオスは2世紀後半(130-202)の現在のフランスのリヨンの司教。『対異端駁論』とも。グノーシス主義を批判して、真の教会の保証を「使徒継承」に求めた。聖霊の賜物としての使徒伝承と使徒継承に、教会の唯一性・聖性・普遍性(カトリック性)・使徒性を見いだしたという。
11 レオ1世は「大教皇」と呼ばれる。ローマ司教の優位権を主張し、中世の教会の基礎を確立した。ちなみにふたりしかいないもうひとりの「大教皇」はグレゴリウス1世(540-604)だという。 
12 『教皇庁年鑑』によると、現在の教皇の「肩書き」は以下の計8コだという(カトリック中央協議会)。
ローマの司教、
イエス・キリストの代理者、
使徒たちのかしらの後継者、
普遍教会の最高司教、
イタリア首座司教、
ローマ管区首都大司教、
バチカン市国元首、
神のしもべたちのしもべ

 

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