カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

イエスの復活 ー 使信に見る(1)

2019-03-26 12:55:38 | 神学


 いよいよ復活論である。イースターももうすぐだし、時宜にかなったテーマだった。季節の変わり目で体調を崩された方が多く、3月の学びあいの会の出席者は少なかった。昨年6月から続けてきた川中師のイエス論もこれで最終回となる。

 復活はキリスト教信仰の中核中の中核で、イエスの復活への信仰なしにキリスト教信仰は成り立たない。ところが、「復活」といわれてもなかなかイメージが定まらない。「からだの復活」とはなんのことか(1)。
 さすが現在では、「復活」を「蘇生」(生き返り)と同一視する人はいないだろうが、呪術信仰が強い人の中にはまだ残っているかもしれない。むしろ、現在では「復活」とは「死者の思い出」、「死者の記憶」だという理解が、誤解が、広がっているように思える(2)。だが、復活は記憶ではない。
 現在のキリスト教神学のなかで旧態依然の原罪論が急速に説得力を失い、復活論に信徒の関心が集まっていている今、すこし中川師の議論を下敷きに自分の考えを整理しておきたい

 イエスの復活を目撃した人はいない。目にした人はいないし、現場に立ち会った人の記録もない。イエス自身もなにか書き残しているわけではない。したがって、イエスの復活論は、①復活の「使信」そのものか、②復活の「証言」 を見ていくしかない。

Ⅰ 復活の使信

 実は、復活とは単純な事柄を指しているようだ。イエスが死刑にされると弟子たちは散りじりバラバラになる。ところが、この「弱き」弟子たちが、あるとき、町中で堂々と宣教活動を始める「強き」者たちに「変貌」していく。新約聖書はこの突然の「変貌」を「復活」と呼んだのだ。何かが起こったのだ。何かが起こらなければ、こんな突然の変化が起こるはずがない。
 マルコのイエスの否認(14:66-72)の話はよく知られている。ところが、このペテロが突然宣教活動を始めたのだ。

「すると、ペテロは11人とともに立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。私の言葉に耳を傾けてください」(使徒言行録2・14)。

 この突然の変化が復活の出来事なのだ。ここにキリスト教は誕生する。復活は体のよみがえりの前にこう言う形で現れるという。
 「教会」の誕生は「聖霊降臨」のあとだが、中川師はここに史的イエス論の限界を見ているようだ。イエスの復活は霊的次元の出来事としてしか把握できない。史的事実としての認識は難しい。史的エイス論は、イエスの誕生から死までしか論じない。だが、復活を霊的出来事と捉えれば、イエスの復活はイエス誕生以前にまで遡って、旧約の世界から、復活・再臨のイエスまでが射的距離に入ってくる。

ここまでは使信に見る復活の史的認識・霊的認識の話だ。ともに、復活をキリスト教信仰の核心とみなす。つぎは伝承に見る証言の話だ。


注1 「使徒信条」の最後の文言、「罪のゆるし、からだの復活、永遠のいのちを信じます」は唱えるたびに「あぁそうなんだ」と思う。罪のゆるしは贖罪論(原罪論)で旧約聖書の思想、、からだの復活はヘブライ思想が作り出した肉体の復活論だ、そして「永遠のいのち」は霊魂不滅論からなるギリシャ思想そのものだ。
注2 「記憶」「思い出」はかならずしも「個人」のものだけとは限らない。社会や集団が集合的記憶を保存することもある。博物館などもそうかもしれない。富士山にあるオーム真理教のサティアンの碑、東日本大震災の「震災遺構」。こういうものが個人の記憶から集団の記憶に転化していく契機を忘れないでいたい。

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