カトリック社会学者のぼやき

カトリシズムと社会学という二つの思想背景から時の流れにそって愚痴をつぶやいていく

お彼岸に「お墓教」に思う

2019-03-20 13:53:16 | 教会


 平成最後の春のお彼岸。私どもも習慣で墓参りに行ってきた。暖かい春の小春日和というところか。桜もちらほらと咲いていた。
 今年はなぜか「お墓教」を強く思った。師匠の一人を最近亡くしたせいかもしれない。人出が多かったせいかもしれない。この人たちはほとんどが「お墓教徒」で、「仏教徒」ではない。仏様を信じているのではない。お墓を信じているのだ。信仰の対象はお釈迦様ではなく、お墓そのもなのだ。この人たちの今日の行動を想像してみる。

 朝、車に乗って(歩いて、バスで)お寺さんに向かう。途中お供えの花を購入する。お寺さんに着くと、そのまま自分の墓所に向かう。本堂には向かわない。お寺の和尚さんには挨拶しない。従って手土産も渡さないし、世間話もしない。もちろんお布施を包むこともない。つまり、かかわりと持とうとしない。線香やマッチは水屋に置いてあるお寺さんもあるだろうから、そのままお墓へ向かう。
 お墓をぞうきんで丁寧に拭いて、花を生け、線香をたいて祈り、片付けをして足早に去る。帰り際に本堂で手を合わせてご本尊さまに祈るかと言えばそういう人は皆無に近い。

 この人たちは、何に、誰に、何を祈ったのだろう。仏様か。仏様ではない。お墓に仏様はいない。仏様は本堂にいる。お墓にはお骨がある。お骨に祈っているのだ。お骨とは先祖のことだ。つまりこれは「祖先崇拝」の行為なのだ。
 祖先に祈ることで、現在の自分を守ってもらう。一種の厄除けだ。社寺には「幸福の三要素」と呼ばれるものがあるという。「家内安全・商売繁盛・無病息災」だ。誰もが持つ願いだろう。だが、ここに「仏様」の姿はない。

 こういう光景は見慣れてしまったために人はあまり違和感を抱かない。でもこれはせいぜい平成の時代に定着した新しい墓参りの姿ではないか。半世紀前、日本人はこんなことはしていなかったように思う。 むかし流行った方言がある。「ドコサイク(何処さ行く)」「テラサイク(寺さ行く)」。恐らく東北方言か。日常の挨拶用語で一番短い言葉なのだそうだ。この二言で用が足りる。
このとき、「寺さ行く」で、「墓さ行く」とは言わない。お寺さんに行って和尚さんとおしゃべりしてくることが言外に含まれているからだろう。現在の「お墓教」では、菩提寺と檀家の人間関係が「祈り」という基本のところで壊れているのだ(1)。

 私は自宅がお寺さんに近く、また、和尚さんともお付き合いが長いので、この辺の事情は、時代と共に変わり、また宗派の違いもあり、あまり一般化はできないのを十分承知している。とはいえ、この平成の時代は、平和の時代であったし、自然災害(人為災害)の時代であったが、同時に、「宗教の超世俗化」が急速に進んだ時代のようにも思える。世俗化の善し悪しが問題なのではない。世俗化の進む方向がなにか特定の方向に向かってしまった時代のように思える。これはこれで、日本社会が宗教と対峙していく一つの道なのであろう。フランスのライシテなんて、なんと遠い世界の話に聞こえることか。

 私どもはカトリックだ。お墓には十字架が刻んである。お墓に納めてある両親のお骨に何か特別の意味があるとは思っていない。でも先祖をずっと大事に思ってきたし、お墓参りを欠かしたことはない。親戚の付き合いもかかしたことはない。祈りは教会でする。

 師匠の葬儀はごく普通の仏式だった。真言宗。学者としては功を遂げ、学士院会員で文化功労者にもなったが、静かな葬儀であった。ご出身は長野だが、墓所は都内である。

注1 焼き場や納骨式に個人のお骨を「かじる」人が増えていると聞く。葬儀屋さんによれば愛情の表現の一つで、「骨噛み」というのだという。散骨や、お骨のペンダントは商業主義の話で最近のことだが、これは昔からある地域ではずっと行われてきた。ただ、地域限定的であまり知られていなかった。これがメディアで知られると広まっていったという。カニバリズム(cannnibalismu)の復活かと思わなくもないが、日本人の故人への愛情表現の多様性を思う。日本文化が持つ祖先崇拝信仰の一つの断面だろう。私の好みではないが、そういう形でしか愛情表現ができないことに悲しみを覚える。
 日本人が「遺骨」に対して持つ感覚はかなり特殊なようだ。まるでそこに霊魂が宿っているように考えているようだ。これは善し悪しと言うより、こういう遺骨観がごく新しいものであり、作られたものであることを忘れがちだ。仏教や神道は「遺体」を重視しない。遺体を拝むのは「儒教」の伝習だ。だが、現在そんな区別をしたろころで何の意味も無い。墓参りをする人は増えている。だがお寺さんの経済的困窮は進む。檀家との人間関係は切れる。一緒に祈る機会がない。
 ちなみに、ローマのキリスト教はヨーロッパ原住民が持っていた祖先崇拝信仰を徹底的に破壊していったとも言われる。日本のキリスト教は日本文化が持つ祖先崇拝信仰を時間をかけてでも組み込んでいかねばならない。しかも慎重に組み込まねばならない。いまさら教会が「家内安全・商売繁盛・無病息災」を看板に掲げるわけにはいかないだろう。といって、「現世ご利益お断り」一本槍では人は近づかない。ひとは弱いものだ。日本の司教団の課題は大きく果てしない。頑張ってほしい。

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