5月の学びあいの会は参加者が多かった。17名くらいいたのではないか。イスラム教を学びたいという信者さんが増えているのかもしれない。他教会からの参加者もおられたようだ。
イスラム教への関心の高まりの背景はいろいろあるだろうが、私が思いつくのは、イスラム教は平和の宗教だという従来の教科書的説明に対して、最近のイスラム過激派の行動についてのメディア報道が疑問を生み出しているからではないだろうか。キリスト教徒とイスラム教徒、ヒンズー教徒とイスラム教徒の対立抗争が伝えられ、カトリック新聞などを見る限りカトリック教会も以前のように「諸宗教間の対話」の重要性を強調しなくなってきている印象を受ける。
この学びあいの会の講義はイスラム教神学、特に教義が中心ではあるが、同時に極めてカレントなテーマでもあり、どのような「視点」から論じるかが重要になってくる。カトリックとしてイスラム教をきちんと理解して仲良くしましょう、というわけにはいかないことは参加者はみなわかっており、講義後の質問も厳しいものがあった。
「あなたがた信仰する者よ、ユダヤ人やキリスト教徒を仲間としてはならない」(コーラン 第5章51節)という教義を持つイスラム教を理解することは簡単ではない(1)。
Ⅲ 聖典 ー コーラン
Al-Qur'an アル・クルアーン (読誦されるもの)(2)。アルは定冠詞なのだという。アラビア語で書かれたイスラム教の根本聖典である。
ムハンマドは610年から632年まで22年間にわたって神から啓示を受けたといわれる。この啓示をムハンマドは口頭で弟子に伝え、人々はそれを記憶していた。いわば口伝えの啓示だ。これを651年に第3代カリフであるウスマーンが文字として収録させたものだという(3)。
聖典の大きさでいえば、旧約聖書(全39巻)よりは短く、新約聖書(全27巻)よりは長いという(4)。114章からなり、各章に名称がついているがそれは内容を表すのではなく単なる呼称にすぎないという。また、各章に一貫したストーリーはなく、各章の長さはまちまちで長短あるようだ。初期のものは短く、後期のものは長い傾向があるようだが、配列は時代順ではなく、長いものから順番に配列されているという。
文章は、「人間どもよ・・・」と、神が一人称で人間に直接語り掛けたままの言葉だという。人間による文学的作為はすべて排除されているため、コーランは読みずらいという。よく知られているように、翻訳は禁止されている。神の言葉を他の言語に翻訳することは不可能だからだという(5)。
コーランは「天の書板」(6)に書かれた神の言葉を天使ガブリエルがムハンマドに読み聞かせたものと言われる。朗々と詠唱するするもので、音楽的韻律美をもつという。
コーランは神の言葉そのもので、コーランに従うことが神に従うことである。コーランは人間の正邪、善悪の判断基準となる(7)。
また、内容としては、宗教上の教義だけではなく、実生活に関する規定を含んでいる。宗教的内容としては、神概念、神の唯一性、天地創造、アダムの創造と楽園追放、終末、死者の復活などがある。まるで旧約聖書の世界のようだ。
実生活上の規定としては、巡礼、タブー(ハラーム)、道徳的項目、礼儀作法、婚姻、離婚、扶養、相続、売買、刑罰、ジハード(聖戦)などを含むという。
(
これらのコーランの規範を「伝承」(ハディース)などで拡大解釈したものが「シャリーア」(イスラム法)と呼ばれるという。
(コーラン)
次回は、コーランの思想の特徴について整理してみよう。
注
1 S氏はイスラム教に対してそれほど厳しい視線を持っているわけではないようだ。中近東での生活体験もあり、イスラム教は穏健な宗教だという実感を持っているようだ。しかしそれは普通のイスラム教の信徒についての印象であり、教義や神学については異なった見解をお持ちかもしれない。今後の話の展開に期待したい。イスラム教を批判的に語ることは身の危険を覚悟しなければならない。仏教やキリスト教を批判しても身の危険を感じることはないがイスラム教を語るときは注意しなければならないというのは、1991年の『悪魔の詩』の訳者五十嵐筑波大助教授殺人事件が教えてくれたことである。
2 「読誦」をS氏は「どくしょう」と発音していた。「どくじゅ」という読みは経文を読む場合に使う仏教用語なのだろうか。
3 一気にはいかなかっただろうし、複数の文書があったのかもしれない。中田孝によれは「コーランに異本は存在しない」という。新約聖書の成立経過をいろいろと思い起こさせる。
4 聖書は全66巻から成るという普通の説に従う。
5 つまりアラビア語がわからないと読めないのであろう。実際にはさまざまな言語への翻訳があるが、それらは「参考資料」であり、「聖典」ではないという。日本語では、
井筒 俊彦 (訳)「コーラン」〈上中下〉 (ワイド版岩波文庫) 2004 が定番のようだ。
参考までに、井筒訳のコーランをみてみよう。文体(訳文)の雰囲気が伝わってくる。第4章で「女」と題されており、、メディナ啓示175節という(引用は文字通りではない)。
「慈悲深く慈愛あまねきアッラーの御名においておいて・・・
1 人間どもよ、汝らの主を畏れまつれ。汝らをただひとりのものから創り出し、その一部から配偶者を創り出し、この両人から無数の男と女とを地上に撒き散らし給うたお方にましますぞ。アッラーを畏れまつれ。汝らお互い同士で頼みごとをするときに、いつもその御名を引き合いに出し奉るお方ではないか。また、汝らを宿してくれた母の胎をも尊重せよ。アッラーは汝らを絶えず厳重に監視給う。」
6 S氏は「かきばん」と発音しておられたが、なんのことかは私にはわからない。
7 要は、我々が知っている、自由や人権を重視する「近代主義的価値観」を認めないということのようだ。また、近代法を持たないので、個別の事案の判断は法学者たち専門家たちがおこなうようだ。