【序】
カトリック神学は第二バチカン公会議によって開かれた道を歩んできている(1)。だが、カトリック神学は保守的なものから急進的なものまで「ある種の断片化」がみられる。カトリック神学は「同一性の明確な感覚」を必要としている。
では、同一性とは何か。ここでは、「神学の唯一性と多様性」のことだという。「カトリック神学のうちに唯一性における多様性、多様性における唯一性」が同定されることが求められているという。「国際神学委員会」の主張を具体的に見てみよう(2)。
【第1章 神のことばに聞くこと】
神学とは、通常は、神の存在を証明する学問だといわれる(3)。本文書では、「神学は・・・神の啓示に関する知的な省察」と定義されている。「神の啓示」がキーワードだ。
第1節 神のことばの重要性
神のことばは、ヨハネ福音書の「プロローグ」で始まる。「始めにことばがあった。ことばは神とともあった。ことばは神であった」(ヨハネ1・1)。この賛歌は神の啓示の頂点を示している。だから教会は聖書に深い敬意を払っている。
だが、キリスト教は「書物の宗教」ではない。キリスト教は「神のことばの宗教」である。ものいわない、書かれたことばではなく、受肉した生きたみことばの宗教である。つまり、「聖伝」を含むものである(4)
。
すなわち、カトリック神学の基準は、神のことばの重要性を認識することにある。神のことばの重要性を認識しない言明はカトリック神学とはいえないということのようだ。
第2節 信仰ー神のことばへの応答
信仰は神のことばを聞くことから始まる。では、神のことばはどのようにして人間の耳に届くのか。人間の耳に届く方法とはなにか。それは、結局、「使徒」と「使徒継承」を通して届くという。そう言われてもよくわからない。何のことなのだろう。耳に届かない人もたくさんいる。耳が悪いわけではない。なぜ届かないのか。
信仰は、信じるという行為と共に信じる内容そのものをも含む。両者は別々のものではない。信心という行為だけ、聖書という内容だけでは信仰にならないと言うことなのであろう。この行為と内容を一緒に持つことがカトリック神学の第二の基準になるのだという。
第3節 神学 ー 信仰の理解
神を信じる者は信仰を理解しようとする。誰でも、自分が信じているものは一体何物なのか、と問う。なぜ、ではない。何を信じているのか、と問う。これを本文書は「信仰の理解」と呼んでいる。信仰の理解とはなんのことか、「の」とはなにか。信仰「を」理解するという意味なのか、信仰「という」理解のことを指しているのか。日本語の「の」はあまりに多義的なのでよく意味がわからない(5)。
原文は intellectus fidei だ。fideiは所有格なのだろうか。信仰と言うより「善意」とでも訳せるのだろうか。どちらにせよ、この信仰の理解という方法が信仰を成長させ、ひとを神学へと導いていく。神学は、神自身が持っている知識に人間が理性的に参与するという意味で、「神に関する学術」(scientia Dei)なのだという。
つまり、神学は「理解を求める信仰」であり、常に「理性的な次元」を持っている。神学は、感情でも、無知蒙昧な同意でもない。それは「理性的」であること、このことがカトリック神学の基準なのだという。神学は、教会が何を信じているのか、なぜ信じているのか、を合理的に・体系的に・理性的に理解することを目指している、という。
そう言われるとはいそうですかとしか言い様がないが、こういう理性的・合理的理解の強調が本文書の特徴のようだ(6)。
(トマス・アクィナス)
注
1 本文書で、特に断りがない限り、神学とはカトリック神学のことを指している。また、第二バチカン公会議を認めない人々が教会内にもいるようだが、この人々は別の道を歩んでいる、誤っている、と言っているように聞こえる。
2 国際神学委員会とは教皇庁の教理省の諮問委員会のことだという。教皇庁の組織は1988年に大幅に改組されている。たとえば、正邪省が教理省に名称変更されたりしている。組織形態は相変わらずわかりづらいが、一応予備知識として見ておこう。詳しくはカトリック中央協議会が説明してくれている。
https://www.cbcj.catholic.jp/catholic/vatican/
組織全体は Dicasteries とその他からなるが、Dicasteries は中央協議会は「部署」と訳している。Dicasteres(部署)には7つの下部組織があるようだ。
Dicasteries(部署)
1 事務局(国務省・経済事務局)
2 会衆(支持者:教理省・カトリック教育・など)
3 審判(法廷・恩赦院などの裁判所・使徒座署名院)
4 評議会(宗教間対話・正義と平和協議会など)
5 オフィス(教皇空位)
6 部門(平信徒・家庭・いのちの部門)
7 コミュニケション(バチカン情報サービス・バチカンメディアなど)
事務局以外に、研究所・委員会・アカデミー・その他機関・その他組織・ローマ司教区が教皇庁の聖座(Holy See)を構成するという(下部組織となる)。聖座 Holy See とは、一般には、教皇と教皇庁(行政組織)の両者を含むようだが、教会内では「使徒座」とも呼ばれ、ペトロ由来の使徒継承教会のヘッドという側面が強調される。
国際神学委員会の委員の構成は変化してきているようだ。K・ラーナーやJ・ラッチンガーなど思想性の異なる人々がいたこともあり、委員会の立場性は保守的とか革新的とか一概には言い切れないようだし、歴史的に一貫しているとも言い切れないようだ。従って本文書をあまりイデオロギー的にみることは生産的ではないように思う。
3 たとえば、「広辞苑」第7版は、「神学とは、啓示に基づき教義や歴史や信仰生活のありかたなどを組織的に研究する学問」と定義している。簡潔で要を得た素晴らしい説明だ。
4 聖伝 Holy Tradition とはよく使われる言葉だ。教会では「聖書と聖伝」と言い表し、聖伝の重要性は聖書と変わらない。意味は、使徒たちがイエスから受け、聖霊によって学んだ、使徒伝承のことをさす。具体的には、使徒伝承以外に、「諸伝承」(神学、おきて、典礼、さまざまな信心の伝統)を含むようだ。
5 どうも日本語の「の」の多義性は日本語の特徴の一つらしく、単なる所有格とか英語の of とかで説明できるものではないらしい。現在は国語学者とはいわず、日本語学者と呼ぶようなのでどうも国語の問題とは言い切れないようだ。大学文学部にある国語学科と日本語学科になにか違いがあるのだろうか。北原保雄編『明鏡国語辞典』(大修館書店)2002 など。
6 こういう神学の理性的性格の強調から、カトリックにおける神秘主義思想の発達をどう説明していくのか、後半の章に期待しよう。