11月7日 (水曜日) 晴れ
昨日とは打って変わって、良い天気だ
少々午後から風が出たが、良く乾いてけっこうなこと。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
朝ごはんをゆったり食べていたら・・忙しく・・・
長男が休みで、急に映画を一緒に見に行くことになった。
熊谷のティアラで一番目の上映開始(8:40)に入った。
まだ、平日で朝も早いので空いている。
~~~~~~~~~~~~
TBS開局60周年記念作品である。のぼうの城だ。
今、盛んに宣伝・TVでは6chで番宣が行われている。
行田市にある忍城の物語、”のぼうの城”である。
地元の物語だ!見ておこう。と思っていたところに
突然の誘いだったが付きあった。
~~~~~~~~~~~
ロビーに衣装が飾ってある。
のぼう様と甲斐姫の役で使ったものらしい!。
11月10日の(土)11:30上映終了後に舞台挨拶が有るようだ!
登壇者は監督の犬童一心 樋口真嗣監督 脚本の和田竜氏らしい。
~~~~~~~~~~~~~~~~
小説の本は2年前に読んでいる。
映画は本の通りに映像化されている。なかなか面白い。
主人公の配役がピッタリだ。
==========
★これって本当のことか?と質問が多くあるらしいが・・・
史実をもとにした創作です。
人物は創作ですが、城をめぐる戦いは史実です。
埼玉県行田市の忍城です。とある。
★今、はやりの歴史好きの”歴女達が、最近は多くて忍城駐車場は停めずらい状況になっている。
月曜日は休館日で、周囲をめぐるには良いかも!
しかし、ここで戦が有ったようには、どうしても思えないでいる。
現在、周囲の湖が全部、埋め立てられているせいかな?
世が世であれば私も成田百姓で戦に参戦していたかも・・・弱かったかな!
来年度、孫君は”成田小学校”である。地名は延々と続いているのかな!
~~~~~~~~~~~~~
物語
周囲を湖に囲まれ、浮城とも呼ばれる忍城(おしじょう)。
領主・成田氏一門の成田長親は、領民から「でくのぼう」を略して
「のぼう様」と呼び親しまれる人物であった。
天下統一目前の豊臣秀吉は、関東最大の勢力北条氏の小田原城を落城させんとしていた
(小田原征伐)。
豊臣側に抵抗するべく、北条氏政は関東各地の支城の城主に篭城に参加するよう通達。
支城の一つであった忍城主の氏長は、北条氏に従うように見せかけ、
裏で豊臣側への降伏を内通し、篭城作戦に参加していた。
「武州・忍城を討ち、武功を立てよ」秀吉にそう命じられ、
石田三成は成田氏が既に降伏を決めているとは露知らず、
戦を仕掛けんとする。城はすぐに落ちるはずだった。
だが軍使長束正家の傲慢な振る舞いに怒った総大将
・長親は「戦」を選択。
当主氏長より降伏を知らされていた重臣たちは初め混乱するが覚悟を決め、
かくて忍城戦は幕を開けた。
三成率いる二万超の軍勢に、農民らを含めても二千強の成田勢。
総大将たる長親は、将に求められる智も仁も勇も持たない、
その名の通りでくのぼうのような男。
だがこの男にはただ一つの才能、異常なほどの民からの「人気」があった。
地の利と士気の高さから緒戦は忍城側の圧勝。
三成は、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うことを決定。
総延長28キロメートルに及ぶ石田堤を建設し、
忍城は本丸を除いては城下を含めて水に沈む。
この水攻めに対する長親の策は、
城を囲む湖に船を出して敵兵の前で田楽踊りを披露することであった。
三成の指示で雑賀衆が田楽踊りを踊る長親を狙撃する。
長親は一命を取り留めるが、城に入らず場外で堤作りに雇われていた百姓の中から、
長親が撃たれたことと耕していた水田を台無しにされた怒りから、
石田堤を壊す者が現れ水攻めは失敗する。
三成軍が総攻撃を行おうとする矢先、小田原城が落城したとの知らせがもたらされ、
忍城も開城する。小田原城落城時までもちこたえた支城は忍城だけだった。
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石田堤
この堤は、天正18年(1590年)6月、
忍城水攻めの際に石田三成によって築かれたことから、石田堤と呼ばれています。
天正18年3月に始まる豊臣秀吉の関東平定に伴い、
北条氏に味方する成田氏の居城である忍城は、
同年6月、石田三成、大谷吉隆、長束正家らによって包囲されてしまいます。
石田三成らは、地形を見て忍城を水攻めすることにし、
全長28kmに及ぶ堤をわずか一週間で作り上げたと言われています。
実際には自然堤防や微高地を巧みにつなぎ合わせたものと思われ、
現在残っているこの堤も、自然堤防上に1~2m程盛土をしたものです。
こうして堤が完成し、利根川や荒川の水を引き入れましたが、
地形的に忍城や城下町よりも現在の下忍や堤根方面に水が溜まってしまい、
遂には堤が決壊し、水攻めは失敗に終わります。
しかし、北条氏の降伏により、忍城は開城することになりました。
現在は市内堤根に約250mの堤を残すのみですが、
江戸時代は堤に沿って日光裏街道が通じており、
堤に植えられた松並木に往時を偲ぶことができます。
なお、行田市堤根の堤に隣接する形で鴻巣市袋地内にも堤が残っており
鴻巣市(旧吹上町)によって史跡公園として整備されています。
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★秀吉にとって、天下統一の最後の北条攻めにあって歴史の勉強で
小田原城に、近隣に一泊して、でゆっくり見学し・学んだことが2度程あるが
北条氏の権力の凄さや、それを打ち破る豊臣の奇策が・・凄いと・・
~~~~~~~~~~~~~~~~
小田原城の背景
大森氏が小田原地方に進出した15世紀初めごろに築城したといわれ、
明応4年(1495)に戦国大名小田原北条氏の居城となる。
戦国時代には関東の拠点として日本最大規模の城郭に発展、
上杉、武田の侵攻をも防ぎ難攻不落を誇る。
しかし秀吉の小田原攻めでは決戦か籠城かで揉めた「小田原評定」の末、
時の城主・氏直が降伏して落城。
江戸時代を迎えると徳川家康家臣・大久保氏が城主となり
城の規模は三の丸以内に著しく縮小された。
明治3年に廃城となり、ほとんどの建物は解体され、
残っていた石垣も大正12年(1923)の関東大震災によりことごとく崩れ落ちてしまった。
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昨日とは打って変わって、良い天気だ
少々午後から風が出たが、良く乾いてけっこうなこと。
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朝ごはんをゆったり食べていたら・・忙しく・・・
長男が休みで、急に映画を一緒に見に行くことになった。
熊谷のティアラで一番目の上映開始(8:40)に入った。
まだ、平日で朝も早いので空いている。
~~~~~~~~~~~~
TBS開局60周年記念作品である。のぼうの城だ。
今、盛んに宣伝・TVでは6chで番宣が行われている。
行田市にある忍城の物語、”のぼうの城”である。
地元の物語だ!見ておこう。と思っていたところに
突然の誘いだったが付きあった。
~~~~~~~~~~~
ロビーに衣装が飾ってある。
のぼう様と甲斐姫の役で使ったものらしい!。
11月10日の(土)11:30上映終了後に舞台挨拶が有るようだ!
登壇者は監督の犬童一心 樋口真嗣監督 脚本の和田竜氏らしい。
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小説の本は2年前に読んでいる。
映画は本の通りに映像化されている。なかなか面白い。
主人公の配役がピッタリだ。
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★これって本当のことか?と質問が多くあるらしいが・・・
史実をもとにした創作です。
人物は創作ですが、城をめぐる戦いは史実です。
埼玉県行田市の忍城です。とある。
★今、はやりの歴史好きの”歴女達が、最近は多くて忍城駐車場は停めずらい状況になっている。
月曜日は休館日で、周囲をめぐるには良いかも!
しかし、ここで戦が有ったようには、どうしても思えないでいる。
現在、周囲の湖が全部、埋め立てられているせいかな?
世が世であれば私も成田百姓で戦に参戦していたかも・・・弱かったかな!
来年度、孫君は”成田小学校”である。地名は延々と続いているのかな!
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物語
周囲を湖に囲まれ、浮城とも呼ばれる忍城(おしじょう)。
領主・成田氏一門の成田長親は、領民から「でくのぼう」を略して
「のぼう様」と呼び親しまれる人物であった。
天下統一目前の豊臣秀吉は、関東最大の勢力北条氏の小田原城を落城させんとしていた
(小田原征伐)。
豊臣側に抵抗するべく、北条氏政は関東各地の支城の城主に篭城に参加するよう通達。
支城の一つであった忍城主の氏長は、北条氏に従うように見せかけ、
裏で豊臣側への降伏を内通し、篭城作戦に参加していた。
「武州・忍城を討ち、武功を立てよ」秀吉にそう命じられ、
石田三成は成田氏が既に降伏を決めているとは露知らず、
戦を仕掛けんとする。城はすぐに落ちるはずだった。
だが軍使長束正家の傲慢な振る舞いに怒った総大将
・長親は「戦」を選択。
当主氏長より降伏を知らされていた重臣たちは初め混乱するが覚悟を決め、
かくて忍城戦は幕を開けた。
三成率いる二万超の軍勢に、農民らを含めても二千強の成田勢。
総大将たる長親は、将に求められる智も仁も勇も持たない、
その名の通りでくのぼうのような男。
だがこの男にはただ一つの才能、異常なほどの民からの「人気」があった。
地の利と士気の高さから緒戦は忍城側の圧勝。
三成は、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うことを決定。
総延長28キロメートルに及ぶ石田堤を建設し、
忍城は本丸を除いては城下を含めて水に沈む。
この水攻めに対する長親の策は、
城を囲む湖に船を出して敵兵の前で田楽踊りを披露することであった。
三成の指示で雑賀衆が田楽踊りを踊る長親を狙撃する。
長親は一命を取り留めるが、城に入らず場外で堤作りに雇われていた百姓の中から、
長親が撃たれたことと耕していた水田を台無しにされた怒りから、
石田堤を壊す者が現れ水攻めは失敗する。
三成軍が総攻撃を行おうとする矢先、小田原城が落城したとの知らせがもたらされ、
忍城も開城する。小田原城落城時までもちこたえた支城は忍城だけだった。
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石田堤
この堤は、天正18年(1590年)6月、
忍城水攻めの際に石田三成によって築かれたことから、石田堤と呼ばれています。
天正18年3月に始まる豊臣秀吉の関東平定に伴い、
北条氏に味方する成田氏の居城である忍城は、
同年6月、石田三成、大谷吉隆、長束正家らによって包囲されてしまいます。
石田三成らは、地形を見て忍城を水攻めすることにし、
全長28kmに及ぶ堤をわずか一週間で作り上げたと言われています。
実際には自然堤防や微高地を巧みにつなぎ合わせたものと思われ、
現在残っているこの堤も、自然堤防上に1~2m程盛土をしたものです。
こうして堤が完成し、利根川や荒川の水を引き入れましたが、
地形的に忍城や城下町よりも現在の下忍や堤根方面に水が溜まってしまい、
遂には堤が決壊し、水攻めは失敗に終わります。
しかし、北条氏の降伏により、忍城は開城することになりました。
現在は市内堤根に約250mの堤を残すのみですが、
江戸時代は堤に沿って日光裏街道が通じており、
堤に植えられた松並木に往時を偲ぶことができます。
なお、行田市堤根の堤に隣接する形で鴻巣市袋地内にも堤が残っており
鴻巣市(旧吹上町)によって史跡公園として整備されています。
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★秀吉にとって、天下統一の最後の北条攻めにあって歴史の勉強で
小田原城に、近隣に一泊して、でゆっくり見学し・学んだことが2度程あるが
北条氏の権力の凄さや、それを打ち破る豊臣の奇策が・・凄いと・・
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小田原城の背景
大森氏が小田原地方に進出した15世紀初めごろに築城したといわれ、
明応4年(1495)に戦国大名小田原北条氏の居城となる。
戦国時代には関東の拠点として日本最大規模の城郭に発展、
上杉、武田の侵攻をも防ぎ難攻不落を誇る。
しかし秀吉の小田原攻めでは決戦か籠城かで揉めた「小田原評定」の末、
時の城主・氏直が降伏して落城。
江戸時代を迎えると徳川家康家臣・大久保氏が城主となり
城の規模は三の丸以内に著しく縮小された。
明治3年に廃城となり、ほとんどの建物は解体され、
残っていた石垣も大正12年(1923)の関東大震災によりことごとく崩れ落ちてしまった。
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