前回、孝昭天皇の晩年が卑弥呼の時代に相当する可能性があると申し上げたので、今回はその理由を説明させていただきます。
まず、本ブログの「邪馬台国の正体」という記事でご紹介したように、神武天皇が二世紀の初めに日本を統一した可能性は高いと思われます。
また、第二代綏靖(すゐぜい)天皇は、神武天皇が大和入りした後に生まれていて、古事記には、綏靖天皇は45歳で、第三代安寧天皇は49歳で、第四代懿徳(いとく)天皇は45歳で、それぞれ亡くなったと書かれているので、大和朝廷の王権の移動を次のような図で表わすことができそうです。
すなわち、西暦100年に神武天皇が日本を統一したと仮定しますが、日本統一といっても最初は近畿地方だけだったと思われますから、その完成は神武天皇の晩年と考えました。
また、西暦200年までは25年ごとに世代交代したと仮定し、神武天皇の死後75年、孝昭天皇が若くして即位するとともに倭国が乱れたと考えました。
その後、孝昭天皇は退位し、大和朝廷を陰で支えることになりますが、第六代孝安天皇、第七代孝霊天皇を擁立しても混乱を収拾することができなかったため、最後に卑弥呼を王に立てたのだと思われます。
古事記には、孝昭天皇は93歳で亡くなったと書かれているので、この図のように、彼が長老として卑弥呼に仕えることは十分可能だったはずです。
以上のことから、彌馬升を彌馬斗の誤りとし、「みまつ」と読んで孝昭天皇(和名:みまつひこかゑしね)に比定することが可能であることがご理解いただけたのではないでしょうか?
なお、「魏志倭人伝」には、卑弥呼のことが正始八年(西暦247年)まで記録されているので、その年か翌年あたりに卑弥呼が亡くなり、西暦250年には台与が立てられたと仮定しています。
次回は「魏志倭人伝」に戻ります。
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