今回からは、応神天皇から雄略天皇までの時代について、少し厳密に年代を推定し、漢字が輸入された時代背景を考察していきたいと思います。
そこで今回は、応神天皇の幼少期、すなわち母親の神功皇后が摂政だった時代について、『日本上代史の一研究 日鮮の交渉と日本書紀』(池内宏:著、近藤書店:1947年刊)という本を参考にしながら、年表を作成してみました。
この本の著者の池内宏氏は、『文禄慶長の役』、『東洋史論叢』、『元寇の新研究』、『満鮮史研究』などの本を書いている歴史学者で、虚偽の記述が多い古代の記録を精査して、歴史的事実と認められる事項を抽出しているので、その部分には★印をつけてあります。
なお、年代の決定方法ですが、神功紀には神功皇后の六十九年(没年)が己丑(つちのとうし)の年と書かれているので、この年を西暦389年と考えて年表を作成しました。
こうすると、己丑の翌年は庚寅(かのえとら)ですから、本ブログの「漢字の音訳時期」で、応神天皇が即位した庚寅の年を西暦390年と判断したことと整合がとれます。
また、年表に登場する三国史記は、この時代の朝鮮半島の記録で、平安時代末期(西暦1145年)に高麗で編集されたものです。
統治者
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干支
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西暦
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特記事項
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神功皇后 | 壬戌 | 362年 | 仲哀天皇の没年(古事記) |
癸亥 | 363年 | 応神天皇の誕生はこの前後か? | |
甲子 | 364年 | 新羅に倭人襲来(三国史記) | |
乙丑 | 365年 | ||
丙寅 | 366年 | ||
丁卯 | 367年 | ★百済朝貢(神功紀47年) | |
戊辰 | 368年 | ||
己巳 | 369年 | ★新羅征伐(神功紀49年) | |
庚午 | 370年 | ||
辛未 | 371年 | ||
壬申 | 372年 | 百済が七枝刀を献上(神功紀52年) | |
癸酉 | 373年 | ||
甲戌 | 374年 | ||
乙亥 | 375年 | ★百済の近肖古王の没年(三国史記、神功紀55年) | |
丙子 | 376年 | ||
丁丑 | 377年 | ||
戊寅 | 378年 | ||
己卯 | 379年 | ||
庚辰 | 380年 | ||
辛巳 | 381年 | ||
壬午 | 382年 | ★新羅征伐(神功紀62年) | |
癸未 | 383年 | ||
甲申 | 384年 | ★百済の近仇首王の没年(三国史記、神功紀64年) | |
乙酉 | 385年 | ★百済の枕流王の没年(三国史記、神功紀65年) | |
丙戌 | 386年 | ||
丁亥 | 387年 | ||
戊子 | 388年 | ||
己丑 | 389年 | 神功皇后の没年(神功紀69年) |
これを見ると、三国史記に書かれている百済王の没年が、神功紀の記述と一致しており、この年表はかなり信頼できるのではないかと思われます。
なお、この時代の日本を取り巻く情勢ですが、西暦313年に高句麗が楽浪郡を滅ぼし、朝鮮半島北部の高句麗、西南部の百済、東南部の新羅の三国が対立する時代となっています。
参考までに、『大日本読史地図』の「任那と三国」という地図の一部をご覧ください。
【任那と三国(一部)】(吉田東伍 :著『大日本読史地図』より)
この当時、朝鮮半島南部に任那を所有していた日本は、高句麗に圧迫されていた百済と友好関係を築く一方、新羅とは敵対し、何度も戦闘があったようです。
したがって、百済と友好関係を結んだことが、漢字が伝来するきっかけとなったようです。
次回も年代推定の続きです。
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