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ちまちました人にならないために 5

2022-06-15 21:25:20 | ひとりごと
4回生

最終学年から研究室に所属することになる。

6つくらいあったと思うが、有機化学の部屋を希望した。

5階にある部屋は、結構、深夜までやるらしい。希望者が多かった。女子の希望者も多かったので、遠慮しておいた。

3階の部屋の一方は、一番深夜まで研究してるらしいし、教授が優秀すぎるので、パス。別の方は、ここも人気なので、競争に入るのを止めにした。

4階の部屋は、なぜか一人も希望者いなかったので、悠々とそこを希望した。最初の時点では自分のみ。後に、別の部屋の希望から抽選で漏れた人たちと併せて、6人、男は私と、Kと、Wと、Kの4名。女子は、MさんとTさん。

4月の初日から希望に燃えていたが、あんまりそういうのは表に出さないようにしてた。

なぜか、研究室に向かうのに自転車をこいで学舎に向かっている光景を覚えている。

行く途中で、同じく自転車のKに抜かれたな。

初日から歓迎の花見に出かけたり、自分の実験のプラッテを整理したり。。

自分の場所は決められていた。当時助教授jの隣り。

今は違う呼び方してると思うが、当時の助教授は教授の次の地位。

仮の場所とは聞いていたが、結局、みな、同じ場所に固定されたので、ほぼ、決まっていたのだろう。

同部屋の男子は全員、院進学希望4名。余所の大学から研究生としてKさんがいる。後に就職に難を示した女子のTさんも進学希望になって、競争者6名。

定員4なので、予定外に激戦区になった。

自分は、成績悪いほうなので、上の人からすると、漏れる人員にカウントされていたのではないか。自分でも、厳しいんじゃないかと思ってた。

教授のT大先生に個別の教授室で面談した覚えがある。

皆聞かれること。ドクターにあがる気はあるか。

私は、力があるようなら上がってみたい、と答えた。

T先生には、鼻で笑われた。明らかに馬鹿にしている。

その時は、若かったので、見返してやろう、と気力もあった。

ただ、その日から、博士に進学する、とは、二度と言わなくなった。また、二度と聞かれなくなった。悔しい思いはそこから。

この日のことは一生忘れない。

研究室生活が始まったが、自分だけ待遇はひどいものだというのは、自ずと気づく。

自分はなにをしても習得速度は相当に遅いが、追いつくと、負けないので、それまで辛抱かな。。などと心に決めた。そう思わないと負けそうになるし。

なにかの啓蒙の雑誌かと思うが、毎朝、負けるな、とか頑張れとか、呪文のようにつぶやいてから行動するようになった。

負けん気というか、気性の強さは密かに誰にも負けてないと思う。

グループは結局予想の通り、助教授jの下になった。

グループの長の助教授のjと最悪レベルの相性の悪さ

3年間も我慢した自分の耐久力も褒めるべきだろう。

ある事ない事で、説教されるのならまだしも、言った覚えのまったくないことで説教される。プラスの意味で言ったことが、マイナスの意味で取られて、また、説教。最初のころは、多少の反論、反発もしたが、火に油を注ぐみたいに、怒りに拍車がかかる状況になるので、途中から諦めた。気持ちの上では、最悪。最悪。最悪。

修士試験は9月。負けるわけにはいかないな~とは思うものの、ファイトする材料が少し足りない。いずれ、ここに居る人を実力的に追い抜いてやろう、負け惜しみ的にそんなことと思ってはいたものの自分に負けそうだった。

ただ、こんなところ、さっさと出る、くらいの機転があったほうが、別の運が開けていたかもしれない。それはそれで、逃げた負い目はどこかに出てたかもしれない。

4月あたまには希望に燃えていたが、希望はすぐに消失してしまった。

院進学どころか、3月まで自分の気力が持つのかな。。のレベル。

院試験は意地でも通りたい。別の部屋ではなく、今ここに居る部屋。そこまで固執する理由はないのだが、、

他のメンバーと同じく、実験はやらされるのだが、その意図等の説明はまったくなかった。j、Gがひそひそ話しをしてる程度。こちらには何も言ってくれない。毎日これやれと、だけ。毎日つらかった。

耳学問、耳学問とうるさかったj、都合のいい耳学問ではある。

自分にも何か希望的なものが必要だった時期

3年生も春から、同じ学舎に通うようになったので、下の学年の人とも顔を合わす頻度も増えた。

同じ教室の講義で会うと、なぜだか、Bさんがよく話しかけに来てくれる。

うれしかったし、救われたような気になる。4階に帰ると楽しくない時間を過ごさないといけない。

いつも笑顔で楽しそうな声で話しかけてくれる。

研究室では、つらかったけど、来年、Bさんがこの部屋を選んでくれて、自分も院の試験に成功したら、毎日、会えるかな~、などと頭によぎるようになった。

モチベーションとしてよくなかったのかもしれないが、Bさんと同じ研究室で過ごしている光景を頭に描くようにしてから、院試の勉強に励むようになった。

気合いの入り方は、だいぶ違うものになったと思う。

教室員のみんなで教室旅行のあと、院試休みをもらえる。7月過ぎから8月いっぱいまで。

なんとか頑張れたと思う。励みの材料に頭の中にいつもBさんがいるようになった。

9月頭に院試験 

試験の結果は、校舎前に名前貼り出されるが、前日に、一人ずつ教授室に呼ばれて、合否を告げられる。

最初に呼ばれた人ほど、教授にとって優先順位が高いんだと思う。

1~3番目まで、通ってたので、4番目に呼ばれなければ、別の部屋に行くんだろう、、と覚悟していた。

4番目に呼ばれたのは、自分ではなかった。

終わったな。と覚悟していたが、最後に呼ばれた自分は通っていた。

思い出すと、教授は複雑な苦い顔してたが。。

次の日の昼過ぎ、合格発表の貼り出しがあった。

結果は分かっていたが、みんなで見に行った。

あとの2人も別の部屋に進学ということで、そんなに気まずい、というものでもなかった、、とは思う。

まばらに眺めている数人の中に、Bさんと、その同じ高校出身で、これも同じくアメフトのマネージャーしていた、Kさんもいた。

これ以上ないような満面の笑みで、おめでとうございます、と言ってくれて、嬉しかった。救われたような気がした。

この日のことは忘れない。

ありがとう、と言いたいところだったが、何のことか分からないだろう、と思ったので、我慢しておいた。顔くらいは笑っていたと思うが、気持ち悪い顔してたかもしれない。

日々、報われなさを感じつつ、精一杯努力するほか道はないな、と観念しつつ、なんとか過ごしていた。

6分の1くらいの確率ではあるが、Bさんが来てくれるかもしれないし。しかし、アメフトのマネージャーをしつつ、となると、超多忙な有機系の部屋選択する可能性は低いかもしれない。

3月頭の卒業発表までなんとかこなした。

グループ内では一向に連携は取れてないし、定期的に、なんかよく分からない説教されてたと思う。

部屋内でボーリングに誘ってくれたり、ソフトボールやったり、カラオケとか行ったりで、気を紛らわすこともできた。

年度の終わりくらいに、次の学年のどの人がどの教室を希望しているのか、の情報が伝わってきた。

合成の部屋の希望者6名 男2名 女4名

女の子4人が入ってきそうなことに、皆、浮き足だっていたような気がする。

自分は、なにより、その中にBさんが入っていることに、非常に嬉しい気持ちになっていた。

そんなこんなで、3月の卒業発表も無事に終え、うまく発表できたとは思ってないが、とにかく終わった。

薬学生なので、4月頭に薬剤師の試験がある。

準備はまったくできていなかったが、せっかくなので受けてみることにした。阪大はいつも、合格率が最下位近辺なので、なるべく受けるな、との通達があったが、試験のために休みがもらえるので、受けた。

薬剤師の試験 電話帳なみ厚さの問題集。私学の人は、これを4年かけてやるんだが、国立は、なにもしてくれない。

問題集の最初の3分の1くらいは、なんとかなるが、最後のほうは勘のみ

最後の科目はさっぱり分からなかったので、30分もしない間に、試験場を退出した。

試験のあとは、いよいよ修士1年が始まる。自分の人生の中で、一番つらい1年になるが、この時点では、院試験のときに励みにしていたことが実現する、、はずのところなので、希望にあふれていたものではあった。


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