連休前から連休にかけて一人旅をしたので、暇つぶしにと、探偵小説と月刊文藝春秋5月号を購入しました。
文春には、「日本には田中角栄が必要だ」という副題がついていたからかもしれません。これを読むまで「角栄ブーム」になっていることも知りませんでした。
私は、庶民派と言われる角栄さんを個人的には好きでしたし、想いがはっきりしていた(日本海側の暮らしを良くする)からか、人をその気にさせるのが上手だったのか、官僚に協力させて、たくさんの法律を通したというのもすごい力だなぁと感心しています。ただ、金権政治的な風土が根付いてしまったことは、残念だと思っています。
小泉さんの「自民党をぶっ壊す」は、この金権政治的な風土を壊すことだったのだろうと思います。が、壊れただけで次が作られていないのが現状なのでしょう。
このため、失われた10年が20年、30年となり、日本の品格も失われて、「強い日本」を取り戻したい気持ちが皆のなかに燻っており、「田中角栄ブーム」につながっているのではないでしょうか。
ジャンヌダルク、ナポレオン、ヒットラー・・・トランプ、角栄・・・と、大衆が思考停止して、強いリーダーを求めるのは、なにやら怖い気がします。
それは、さておき、文春には、AI(人口知能)の記事が2つも掲載されていました。
1つは、巻頭にある著名人のエッセーを集めた辺り。サイエンスライター佐藤健太郎さんの「アルファ碁」との遭遇。
もう一つは、記事として書かれている東京大学特任准教授松尾豊さんの「人工知能が社会を大変革する日」です。
門外漢の私には、詳しいことは分からないのですが、グーグルが傘下に納めたディープ・マインド社の「アルファ碁」が、世界トップクラスの棋士に勝ち越したことが大きな衝撃として捉えられているようです。
これまでのコンピュータは、人間がさまざまなことを教え込んだのですが、アルファ碁は、「インターネットから10万の棋譜を入力し、自己対局を3000万回やって学習した」のだそうです。①プロ棋士の打ち手を学習する「教師あり学習」、さらに②自己対戦によって勝ったほうの手筋からどう打てばよいかを学ぶ「強化学習」を組み合わせたのだそうです。これをディープラーニングというのだそうですが、多層のニューラルネットワーク(人間の脳の神経回路の仕組みを模したモデル)を使う人工知能の一つの手法で、自ら「特徴量」を学習できるとことがポイントらしい。
「特徴量」というのは、物事を認識する際の判断要素になっているものとのこと。猫の画像を見て猫だと認識するために、これまでは、猫らしさという特徴量を人間が定義していたのに、アルファ碁は、自らたくさんの画像の中からそれを探り出すことができるのだという。つまり、赤ちゃんが触ったり、見たりしながら、いろいろなことを認識していくのと同じように学習できるということらしい。
松尾さんは、2014年にホーキング博士が「完全な人工知能を開発できたら、それは人類の終焉を意味するかもしれない」と語ったが、これは「生命と知能を混同した極論ではないかと言われています。「知能は、目的を与えられたときにそれを達成する問題解決の力であり、目的を与えるのは生命です。(中略)人工知能は知能の技術であり、それがあるレベルに達したときに生命的な目的を持つのはありえないと思います。したがって、危惧すべきは、人工知能が人間を脅かすという話ではなく、悪い目的を持った人間が人工知能を利用することです。それは犯罪や軍事利用であり、これについては国内だけでなく国際的に議論していく必要があると思います。」としています。
一方、佐藤さんは、「将来、人工知能が発展して人間の知能を超えると、これがさらに優れた人工知能を創り出す。その人工知能が・・・という具合で急速に進化が進み、人類が置き去りにされてしまうような状況」が起きるのではないかと懸念しています。「シンギュラリティ(Singularity)」というのは、特異点という意味で、近年話題になっているのは、コンピュータ技術や生命科学の進歩・発展によって2045年頃に技術的な特異点が生じ、これまでの世界とは全く異なる不連続な世界がやってくるというものだそうです(未来学者のレイ・カーツワイルの予測)。
SF映画にありそうですが、人間がAIを制御できない時代が来るような気がします。
科学者というのは、子供が大人になったようなところがあり、自分が追及している理論や技術が発展することに子供が遊ぶような感覚でともかく喜びを感じる傾向があります。ですから、それが社会的にどんな影響を及ぼすかというところまで考えをめぐらすことはなく、ただただ技術の発展に寄与することだけを進めがちです。
原子力爆弾を作った人々もそうだったはずです。クローン技術を研究している人もたぶんそうでしょう。
先日、福島県の帰還困難地域に行ってきましたという記事を書きましたが、震災で原子力発電の脆弱性が明らかになったわけではなく、もともと、廃棄物をどのように処分したらよいか分かっていない技術だったわけです。
チェルノブイリの事故が起こったときには、単に、ソ連は技術的に粗いところがあるからだと思っており、日本では、現場が優れているので、こんな事故は起きるはずがない・・・と対岸の火事のように思っていましたが、事故があるかないかの前に、そもそも人間がコントロールできない技術だったわけです。
チェルノブイリの教訓を自分のものにできなかっただけでなく、せっかくの福島の事故を自分たちの教訓にできないのは、どう考えても可笑しいです。何故、せっかくの教訓を新しい日本のエネルギー政策に活用できないのでしょうか?
かつて、オイルショックがあった折、家電製品や自動車が省エネに努め、日本製品は、世界一と呼ばれるようになりました。現在もLEDの普及などで省エネが進んでいるはずです。あるいは、夜12時過ぎたら、テレビの放映をやめ、コンビニも営業を辞めてもよいかもしれません。一世帯当たりの電力消費量は、年々増えて1ケ月当り300Kwhとなっていますが、2010年の302Kwhに比べると2013年には、271Kwhにまで減少しています。
LEDと蛍光灯では、45%も電力消費量が削減されるとされています。
原発が停止しているので、石油の輸入が増えて電力会社の経営が大変だ、電力が不安定では、産業界が困るといいますが、本当でしょうか。
危機をチャンスにしたいものです。
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