異教の地「日本」 ~二つの愛する”J”のために!

言論宗教の自由が保障され、ひとりひとりの人権が尊ばれ、共に生きることを喜ぶ、愛すべき日本の地であることを願う。

―日本会議報道における虚偽・誤解・偏見に関する反論―(日本会議広報部 2016.9.9)

2016-09-11 22:59:49 | 日本会議  神道政治連盟

日本会議報道における虚偽・誤解・偏見に関する反論 « 日本会議

http://www.nipponkaigi.org/opinion/archives/8397

日本会議に関する最近の一連の報道について
―日本会議報道における虚偽・誤解・偏見に関する反論―

日本会議広報部

最近、日本会議に関する新聞・週刊誌の報道や、書籍等の出版がにわかに活気づいている。
しかし、残念ながらこれらの報道や出版物には、日本会議の運動の歴史的な経緯や一次資料を踏まえることなく安易な陰謀論に陥ったり、一面的な批評に止まっていたりするものが少なくない。
私達の運動は、戦後見失われようとしてきた伝統文化を守り、日本を取り巻く厳しい国際環境の変化の中で、自立した対等な独立国家としての矜持を持った国づくりを目指した国民運動を推進してきた。
特に、近年の北朝鮮による拉致事件や工作船の活動、核・ミサイル開発、中国による南シナ海や尖閣諸島周辺での勢力拡張や威嚇、米国の内向きの姿勢は、国民の間の危機意識を高めていると考えられる。日本会議への共感や支持の拡大は、このような国民意識の変化に後押しされている点と無関係ではないだろう。
ここでは、私たちの活動を子細にご紹介する機会はないが、昨今の報道・出版の虚偽、誤解、偏見などにつき簡単に反論を加えておきたい。

 

■なぜこの時期に、これほど多くの報道や出版がなされたのか
今回の参院選は、当初から憲法改正の国会発議を可能とする3分の2の勢力が確保できるか否かが大きな注目を集めていた。7月の参院選に向けて報道が過熱した背景には、改憲勢力3分の2の確保を何としても阻止したいという勢力の意図が見て取れる。
特に安倍政権は、第二次政権の発足以降、高い支持率を維持している。
これらの出版物に通奏低音のように流れているのは、安倍政権を支えているのは日本会議であり、日本会議は「戦前回帰」「歴史修正主義」の「宗教右派(カルト)」とのレッテルである。このようなレッテルを貼ることにより、有権者への不安感を煽り、野党勢力の挽回拡大を狙ったものと考えられる。

 

■安倍首相と日本会議の関係
日本会議には、友好団体として日本会議国会議員懇談会(超党派の国会議員連盟)があり、活動している。
この超党派議連は、平沼赳夫衆議院議員を会長とし、自民党、民進党、おおさか維新の会、日本のこころを大切にする党などの所属議員約290名が加盟されている。国会議員懇談会は独自の活動を行うとともに、日本会議から民間の請願を受け取り、国政について広く意見交換を行う存在となっている。
第二次安倍政権発足以降、安倍総理始め閣僚の多くが懇談会に所属し影響力を及ぼしているといった報道があるが、果してそうであろうか。
民間団体の日本会議は、政府や政党に対して政策提言や要望書、国会請願署名を提出することがある。これは、憲法に保障された請願権の行使である。
私達は、確かに広報活動や各種行事開催などの国民運動を全国で繰り広げ、世論を盛り上げ、そして政府や国会を後押しし、法律や政策実現をめざしている。しかし一部報道に散見される、日本会議の方針に基づいて党や政府の政策が立案されているという指摘は、日本会議の影響力をあまりにも高く評価し過ぎており、現実にはそのようなことはありえない。

 

■日本会議は、「帝国憲法復元」を目指していない
昨今の報道・出版物の多くに共通しているのが、日本会議が「帝国憲法復活」を目指しているという言説である。これは日本会議が戦前回帰を目指しているとする悪質なプロパガンダに他ならない。
日本会議は、その前身の「日本を守る会」「日本を守る国民会議」結成以来、40年間一貫して「憲法改正、新憲法制定」を訴えてきた。「日本を守る国民会議」は平成3年(1991年)に「新憲法制定宣言」を公表し、新憲法制定運動を提唱、平成5年(1993年)に大枠をまとめた『日本国新憲法制定宣言』(徳間書店)を公刊した。以後、日本会議内部に「新憲法研究会」を設置して「新憲法の大綱」の研究活動を重ね、平成13年(2001年)には『新憲法のすすめ』(明成社)として公刊している。
これらの略史はホームページにすでに公開済みであるが、過去・現在において、帝国憲法復元を運動方針に掲げたことは一切ない。

 

■日本会議と宗教団体の関係
こうした「帝国憲法復活」といった分析が出てくる背景の一つが、「日本会議」の前身、「日本を守る会」の構成団体の一つ「宗教法人生長の家」との関係だ。
その前に、日本会議と宗教団体の関係について明らかにしなければならないだろう。
日本会議には、神道系、仏教系、キリスト教系などの沢山の宗教団体や社会教育団体、各種団体等が運動に参画している。
「日本を守る会」が昭和49年に設立に際して、次のような逸話が残されている。「日本を守る会」結成の発起人の一人である臨済宗円覚寺派の朝比奈宗源管長が伊勢神宮を訪れた折、「お前たちは世界だ人類だと、上ばかり見て騒いでいるが、足許を見よ、いま日本は、ざらざらと音を立てて崩れているではないか」との思いが脳裏をかすめ、「目が覚める思いだった。わしゃぁお伊勢さまから叱られたよ」と、同管長は述懐されている。
この思いが、神社界、仏教界、キリスト教界など、同憂の複数の宗教団体、有識者、文化人に広がり、当時、影響力を増していた唯物思想や共産主義思想から日本の伝統文化を守ろうと、信仰や思想信条の垣根を越えた大同団結が実現した。
このように、それぞれの団体の教えや国家観、歴史観と、「日本を守る会」の理念が一致し、それぞれの団体が活動に協力され今日に至っているのである。以上の経緯からしても、日本会議やそこに参画している教団がカルト集団だという指摘は、全く的外れな批判であることはいうまでもない。

■生長の家は30年以上前に脱会

「生長の家」との関係についても一言しておきたい。
「日本を守る会」の結成以後、生長の家の創始者谷口雅春氏は、会の代表委員を務め、昭和天皇御在位50年祝賀行事や元号法制化などの国民運動に尽力し、その後、昭和56年の「日本を守る国民会議」結成以後、国民運動に協力されてきた。
しかし、同教団は昭和58(1983)年に政治活動や国民運動を停止し、日本会議の前身である「日本を守る会」「日本を守る国民会議」から脱会した。以後30年以上、本会とは交流が全くない。同教団からの指導、影響が及ぶことはありえない。
一部報道では、元信者が日本会議の運営を壟断しているという指摘がある。
しかし、日本会議の活動において、特定宗教の教義に影響され運動が展開されるということは全くあり得ない。日本会議は極めて民主的に運営されており、さまざまな運動方針や人事は、規約に則り政策委員会、常任理事会、全国理事会など役員会の審議を経て、決定・推進されているのである。

 

■日本会議は何を目指した団体なのか

それでは日本会議は、何を目指して活動しているのか。私たちは、「誇りある国づくり」を合言葉に、以下6点の基本運動方針を掲げている。
1、国民統合の象徴である皇室を尊び、国民同胞感を涵養する。
2、我が国本来の国柄に基づく「新憲法」の制定を推進する。
3、独立国家の主権と名誉を守り、国民の安寧をはかる責任ある政治の実現を期す。
4、教育に日本の伝統的感性を取り戻し、祖国への誇りと愛情を持った青少年を育成する。
5、国を守る気概を養い、国家の安全を保障するに足る防衛力を整備するとともに、世界の平和に貢献する。
6、広く国際理解を深め、共生共栄の実現をめざし、我が国の国際的地位の向上と友好親善に寄与する。
この方針に基づき、私たちは過去さまざまな国民運動に取り組んできた。
天皇陛下御即位20年など皇室のご慶事奉祝行事、元号法・国旗国歌法の制定運動、教育基本法の改正運動、戦歿者英霊への追悼感謝活動、自衛隊海外派遣支援活動、尖閣諸島等の領土領海警備強化の活動、そして、憲法改正運動である。
現在の日本社会には、サイレントマジョリティーという顕在しない良識派の多数意志が伏在している。実は日本の文化・伝統は、こうした良識派意志によって支えられ守られてきたのではないだろうか。しかし、これは顕在化しないかぎり力にならない。私たちの国民運動は、こうした世に現れていないサイレントマジョリティーを形に表し、民主的な手続に基づいて法律や行政などの政策を実現することを目標としている。
いよいよ、憲法改正の国民運動が本格化してきた。まさにサイレントマジョリティーの真価が問われる秋といえる。

 

■憲法審査会の論議の活性化を
今回の参議院選挙において、日本国憲法施行後初めて憲法改正に前向きな政党により3分の2が確保され、衆・参両院で憲法改正発議が可能となった。
各党はこの民意を厳粛に受け止め、速やかに国会の憲法審査会の審議を再開し、改正を前提とした具体的な論議を加速させるべきである。
与野党各党におかれては、国会の憲法審査会において、日本の将来を見据えた活発かつ真摯な憲法論議を繰り広げられることを期待する。
制定以来70年、現行憲法は国民の意志で選択する機会を失われてきた。国民投票の機会を得て、今こそ憲法を国民の手に取り戻す好機を迎えているといえよう。

 

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③島薗進×小林節が読み解く日本会議 「宗教や思想を押しつける世界では民主主義なんて絶対に成立しない」

2016-06-22 23:35:24 | 日本会議  神道政治連盟

http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=4051217&media_id=141より転載

宗教学者・島薗進×憲法学者・小林節が読み解く日本会議 「宗教や思想を押しつける世界では民主主義なんて絶対に成立しない」

2016年06月19日 11:21  週プレNEWS

週プレNEWS

写真立憲主義そのものを否定するような日本会議の動きは、この先も広がり続けるのか? 島薗進氏(右)と小林節氏が語る!
立憲主義そのものを否定するような日本会議の動きは、この先も広がり続けるのか? 島薗進氏(右)と小林節氏が語る!

安倍首相の悲願である「憲法改正」に大きな影響力を持つといわれる保守系市民団体「日本会議」。


彼らはなぜこれほどまでに改憲に熱心なのか? この国を誰から「取り戻し」、どのような「美しい国」を目指しているのか?

日本会議の背景にある「国家神道」や「新宗教」に詳しい宗教学者の島薗(しまぞの)進・東京大学名誉教授と、日本を代表する憲法学者で慶應義塾大学名誉教授の小林節(せつ)氏のふたりが「立憲主義の危機と宗教」について語る。

前編『自民党の改憲案は「個性を持った個人の尊重」という原則を捨て去ろうとしている』、中編『靖国参拝を“日本人なら当然の常識”と考える『日本会議』には歴史の反省がない」に引き続き、今回は日本会議をめぐる今後の動きに言及。参院選を前に、私たちが見極めるべきこととは?

■所属政治家が日本会議を脱会する動きも

―自民党の高村(こうむら)副総裁は憲法改正について「夏の参院選の主要な争点にはならない」との見方を示していますが、安倍首相は今年に入ってからも繰り返し「憲法改正」への強い意欲を示しています。


また、「美しい日本の憲法をつくる国民の会」は、全国にある神社本庁の組織などを活用して「憲法改正を求める1千万人の署名運動」を展開して、多くの氏子などがこうした草の根運動に動員されているようです。今の憲法を敵視し、立憲主義そのものを否定するかのような動きは、この先も広がり続けてゆくのでしょうか?


島薗 超党派の保守系議員が所属する「日本会議国会議員懇談会」に所属する国会議員が200人以上を数えるなど、日本会議は日本の政治に大きな影響力を持っていますが、ここで気をつけたいのは、この会に所属する政治家のすべてが日本会議的な思想の持ち主とは限らないということです。

現実には日本会議を選挙のための有効な票田としてしか考えていない人たちも多い。すでに民進党の原口一博氏や長島昭久氏のように会を脱退する動きもあります。今後、日本会議が世間の注目を集めるにつれて、そこから離れていく議員が続出する可能性も高い。

その一方で首相補佐官を務める衛藤晟一(えとう・せいいち)氏や自民党政調会長である稲田朋美氏のように、宗教ナショナリズム的な思想と深く結びついた有力な政治家がいるのも事実です。我々はそうした人たちの思想がどこから来ているのか? 彼らが日本をどこに連れていこうとしているのか? 戦前の日本がたどったこの国の歴史や、彼らの宗教ナショナリズムの核となっている国家神道の成り立ちも振り返りながら、しっかりと見極めることが必要だと感じます。


小林 僕の言いたいことは非常にシンプルです。つまり、彼らはやれ「自主憲法制定」だの「美しい日本の伝統に戻れ」だのと言うけれど、日本をあの不幸な戦争に追い込んだ大日本帝国憲法下末期の「狂った20年」こそが日本の伝統だという。誰がどう考えてもまったく筋が通らない。

だったら、そうやってバカな戦争に負けたという歴史や、戦後、日本が一度も戦争をすることなく平和な国際国家として70年を過ごしたという事実も同じく歴史として勘定に入れなきゃおかしい。それもまたこの国の「伝統」の一部じゃないですか?

僕は生まれつき手に障害があって、子供の頃はそれを理由に友達からイジメを受けていたから、ずっと悩み、考え続けてきた。だから、人生を支える要素として宗教が人間にとって大切なものだということは否定しません。

ただし、宗教は個々人それぞれの生き方を支えるという意味で大切で、誰かから、ましてや国家から特定の宗教や思想を押しつけられるような世界では民主主義なんて絶対に成立しない。

人間はみな平等で、かつ、それぞれ違っていていいんです。それを守ってくれる大切な砦(とりで)が憲法であり、立憲主義だということを、もっと多くの人たちが理解してほしいですね。


(構成/川喜田 研 撮影/岡倉禎志)

●島薗進(しまぞの・すすむ)
1948年生まれ。宗教学者。東京大学大学院人文社会系研究科名誉教授。上智大学神学部特任教授、グリーフケア研究所所長。専門は日本宗教史。日本宗教学会元会長。主な著書に『国家神道と日本人』(岩波新書)、『愛国と信仰の構造 全体主義はよみがえるのか』(中島岳志氏との共著・集英社新書)など

●小林節(こばやし・せつ)
1949年生まれ。憲法学者、弁護士。慶應義塾大学名誉教授。モンゴル・オトゥゴンテンゲル大学名誉博士。元ハーバード大学ケネディ行政大学院フェロー。著書に『「憲法改正」の真実』(樋口陽一氏との共著・集英社新書)など。政治団体「国民怒りの声」を設立、参院選比例代表に出馬する考えを表明


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「日本会議」と宗教ナショナリズム  対談 : 島薗 進×山崎雅弘

2016-06-07 01:02:29 | 日本会議  神道政治連盟

 

島薗 進さんのプロフィール写真 島薗 進      山崎雅弘


多様性を考える言論誌[集英社クォータリー]kotoba(コトバ)http://shinsho.shueisha.co.jp/kotoba/tachiyomi/160603.html#15より転載

「日本会議」と宗教ナショナリズム[対談] 島薗 進(宗教学者・東京大学名誉教授)×山崎雅弘(戦史・現代紛争史研究家)

 

七月に予定される参議院議員選挙を前に、日本最大級の右派政治団体「日本会議」の存在が今、注目を集めている。安倍政権の政策とその理念に符合が見られる、この組織の源流とはいったいなんなのか。

宗教学の泰斗と、気鋭の戦史研究家が、歴史的な文脈を踏まえつつ、宗教ナショナリズムと「日本会議」の結節点を探った。

「日本会議」は我々をどこに連れていくのか?

島薗 山崎さんの新刊『日本会議 戦前回帰への情念』(集英社新書)を拝読しました。現在の安倍政権と密接不可分な関係にある政治団体「日本会議」についての緻密な考察から教えられるところが多かった。戦史研究家としての今までの蓄積が存分に活かされていると感じました。
 一方、私のほうは、この春に『愛国と信仰の構造──全体主義はよみがえるのか』(集英社新書)を刊行しました。ナショナリズムなどの研究で知られる政治学者・中島岳志さんと宗教学、とりわけ近年は国家神道について関心を深めている私が、対談を重ねた新書です。
 この本のテーマは、宗教ナショナリズムです。現代の日本では、日本会議に代表されるような宗教ナショナリズムが静かに台頭してきています。そこで私たちが問うたのは、戦前のような宗教ナショナリズム、具体的に言えば「国体論」が、なぜ今、ふたたび、よみがえっているのか、という考察をしました。
 そして、今度、山崎さんは、宗教ナショナリズム運動の一番、有力な勢力である日本会議そのものに焦点を当てた本を出されるという。
 私は山崎さん独特の視点には以前から注目をしていました。今までの歴史家が気づかなかった視角を可能にする力を山崎さんはもっていらっしゃる。
 ですから、今日の対談をとても楽しみにしてきました。
山崎 ありがとうございます。よろしくお願いします。

島薗
 さっそく本題に入りましょう。日本会議という団体をどう見るか。山崎さんと私が一致する見解は、日本会議が、戦前日本のナショナリズムを支えた国家神道ときわめて近い思想構造で、政治勢力を支えている、という点でしょう。

山崎 はい、おっしゃるとおりです。読者に向けて順を追って説明しましょう。
 日本会議とは、わかりやすく言うと「神道・宗教勢力」と「保守・右派勢力」が融合した政治団体です。二〇一二年の総選挙によって自民党は与党に返り咲き、第二次安倍政権が発足しましたが、この大勝利に際し、日本会議の組織力が大きな力を発揮しました。
 この事実は、今に至るまであまり報道されてこなかったのですが、日本会議の三好達会長(当時)は、誇らしげにこう言っている。「再び安倍政権を誕生させたのは『私どもの運動の大きな成果』だ」(二〇一三年四月七日の日本会議平成二五年度総会での主催者挨拶、『日本の息吹』平成二五年五月号より)と。
 選挙への協力だけではありません。安倍内閣の閣僚のほとんどが「日本会議国会議員懇談会」のメンバーです。安倍首相はもちろん、菅義偉官房長官、麻生太郎財務大臣、中谷元防衛大臣……。
島薗 内閣府特命担当大臣(規制改革担当)の稲田朋美氏も、日本会議との関係が深い閣僚ですね。
山崎 これほど政権に大きな影響力をもつ政治団体にもかかわらず、大手メディアもほとんど踏み込んだ報道をしてこなかった。

なぜ日本軍はかくも精神論に傾倒したのか

島薗 そのように注目されてこなかった日本会議に戦史研究をしていた山崎さんが興味をもつようになった。どのあたりがきっかけだったのですか。
山崎 太平洋戦争中の日本軍のことを調べていくなかで、彼らがなぜあそこまで人命を軽んじる、非合理的な決定を下せたのかということがずっと疑問でした。多くの論者の結論は、「兵站を軽視していた」「不利な情報を無視し、精神論への過剰な傾倒があった」などでした。
 しかし、なぜ情報や兵站を軽視し、合理性のない精神論に陥って人命を軽視するに至ったのか、という深層までは到達できていないように思いました。
 文献や史料を調べていくと、同じ大日本帝国憲法下であっても、日清・日露戦争の日本軍にはまだ合理性があり、情報も精査され、兵士の命を不当に軽んじるような無謀なことは行われていませんでした。しかし昭和以降に日本軍は突然変化していく。一方、諸外国の軍隊は以前に増して、近代的な合理主義を追求している。昭和の日本軍は、同じ時代の他国の軍隊と比べてきわめて異様でした。
 そのあたりを考えていると、戦前の国体論の影響の大きさをひしひしと感じざるをえなくなった。つまり、国体護持という絶対的価値の前に、人の命の価値がどんどん軽くなっていった。それが昭和の日本軍の姿だったと思うのです。
 そうした昭和の日本軍のありようと国体論に注目しているうちに、平成の現代に生きる自分の目の前で展開されている安倍政権や日本会議の動向が、その延長線上にあるのではないか、という仮説をもつようになったのです。
島薗 その問題意識は、よくわかります。

戦前の宗教ナショナリズムと日本会議

島薗 そして、ここにきて、ようやく日本会議に関する本の刊行が続くようになったわけですが、まだこの団体を仔細にどう見るかは視点が定まっていません。繰り返しになりますが、私と山崎さんの共通点は、戦前の宗教ナショナリズムとの繫がりで、日本会議を見ることが重要だと考えている点でしょう。
山崎 ここで私の仮説と、島薗さんと中島岳志さんとの対談『愛国と信仰の構造』の議論が重なっていくのだと思います。あの本では戦前の日本にも、現在の状況にきわめて近い構造があったことが指摘されていますね。
島薗 明治維新から敗戦までの七五年余と、敗戦から現代に至るまでの七〇余年がよく似たかたちで反復されているのではないかという構図で、日本の近代一五〇年を分析したのです。
 富国強兵に邁進した明治維新からの二五年と、戦後復興に力を注いだ一九七〇年あたりまでの戦後日本は興隆期。日清・日露戦争に勝利し「アジアの一等国」としての地位を確立した高揚期の二五年は、一九八〇年代のバブル経済で「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と呼ばれたころの日本に重なります。明治維新と敗戦からそれぞれ五〇年たったころから、戦前日本も戦後日本も停滞期に入ります。不景気が続き、生活基盤が破壊された人々は不安になり、政治そのものも劣化する。
 この最後の二五年の「停滞期」において、不安になった人々は、自分たちのアイデンティティを支えてくれる宗教とナショナリズムに過剰に依拠するようになる。戦前では、国体論、天皇崇敬、皇道と言われるものに集約される。
 そして、今、我々の経験している「停滞期」について言えば、先の見えない不安の中で、従来自民党の支持層だった地方の農村など、地域社会を基盤にした層は弱まり、票もどんどん減っていく。そんななかでまとまった動員、まとまった票をどこへ求めるか。そのひとつの答えとして日本会議があったように思います。
山崎 この停滞期には、ちょうどオウム真理教事件のあった一九九五年あたりで突入しているわけですが、日本会議の設立もちょうどそのころ、一九九七年。実に象徴的です。

「日本を取り戻す」の日本は、どの日本なのか?

山崎 ここで、視点を変えて、自民党が好きなフレーズ「日本を取り戻す」とは、いったいどの日本なのか、ということを考えてみたいのです。
 私から見ると、彼らの回帰したい日本は、開戦前の国体論に熱狂した日本ではないか、と思うのです。
 日本会議の提唱する政治思想において、あらゆる問題認識の核心部分を占めるのが「天皇」という超越的な存在と、天皇中心の「国体(日本会議の論客が好んで使う言葉では『国柄』)」をどう保持するかということです。
 ですから、自民党が「取り戻す」と言う日本はいつの日本なのかということを精査していくと、まさに昭和の戦争期の日本だったことがわかります。
 戦前に文部省が発行した『国体の本義』(一九三七年)や『臣民の道』(一九四一年)は、いわば当時の日本の精神教育における重要な指針となったものですが、これらを読んでいると、日本会議が今、何を目指そうとしているかがよくわかります。
島薗 山崎さんは、一九三〇年代半ば、あるいは昭和初期あたりから、急速に国体論への熱狂が進んだあの時代を、日本会議や自民党が理想化しているというお考えですね。おそらくそのとおりでしょう。
 ただ、国民が天皇を神聖なものと感じ、天皇のために死ぬことが崇高なことだという価値観そのものが、いつ国民にインストールされたのか、という問題については、もう少し時代をさかのぼって見る必要があるように思います。
 どこまでさかのぼるのか。それは、つまり幕末・明治維新です。
 幕末から明治維新にかけての尊皇攘夷思想の中にもすでに、天皇のために命を捧げ、その名のもとに人を殺すこと、つまりテロリズムを正当化するような考え方がありました。
 たとえば、一八六三年には、靖国神社の源流とされる下関の桜山に招魂社が創設されています。当時は招魂祭とともに、楠木正成を祀る楠公祭も盛んに行われていました。楠木正成は『太平記』において、多勢に無勢の中、南朝に忠誠を誓って戦った人物で、その後天皇を中心とした国体論の重要なシンボルになりました。
山崎 そうですね。太平洋戦争末期に行われた特攻作戦にも、楠木正成の家紋にちなんで「菊水」の名がつけられていましたし、過去の事例をシンボリックに使う例は多くあったと思います。
島薗 明治維新で近代国家日本が始まる際に、二つのOSがインストールされたのだと思います。明治のエリートたちは「近代国家を創っていくには合理的な立憲主義が必要だ」というOSをもとに動いていた。しかし、哲学者の久野収さんの比喩を借りれば、「密教」、つまりエリートのあいだだけの暗黙の了解だった。
 一方、庶民に対しては、「天皇は神である」という神権的国体思想をインストールした。
 明治維新からすぐにそれが完全に普及したわけではないのですが、国家神道が、列強諸国のキリスト教に準じるかたちで国民の団結力を強めるために、大衆に「顕教」として広まった。
 明治維新から二十数年たち、日清・日露戦争に勝ったあたりから、神権的国体思想が、インストールを施した明治の元勲たちの予想以上に、庶民のあいだに浸透してしまった。その結果、「下からのナショナリズム」が暴走する軍部を支えたというのが戦前の大きな流れです。
山崎 日清・日露戦争の日本軍にはまだ合理性があった、という私の分析とも一致する話ですね。
島薗 近代的な立憲主義と信仰としての神権的国体論の両輪でやっていたはずが、結果的には神権的国体論が優位になっていく。国家神道的なOSの導入で、国民が天皇を神聖なものと感じ、天皇のために死ぬことが崇高なことだという価値観が国民に身体化されていく過程で、合理的な考え方や、冷静に、世界における日本の国力や立ち位置を分析するというような思考法を失っていったのではないでしょうか。
 一つ大きなきっかけになったのが、明治天皇の崩御に伴う乃木希典大将の自決です。その後、明治神宮ができ、急速に天皇の神格化が進んでいった。
山崎 それが明らかなかたちで完成したのが、昭和初期の、国体明徴運動でしょう。
島薗 そうです。
山崎 天皇を統治機構の一機関と見なす天皇機関説は、先ほど指摘された近代の合理的な立憲主義と、天皇が神の子孫であるといういわば「信仰」の領域を、かろうじて結びつけていました。しかし国体明徴運動はそれを否定して除去し、天皇を統治の主体として、いくらでも神聖視してよいという方向にもち上げていった。その結果、合理的な思考はいつしか失われ、最終的に天皇に話を結びつけさえすれば、どんな犠牲でも許されるという図式が、形式的に完成してしまいました。
島薗 そのようにして、戦前の立憲主義は消え去り、戦争の時代に突入していったわけです。先ほど説明したように、戦前の七五年と酷似した道を、戦後日本もたどっているとしたら、私たちはよほど気を引き締めて、今の時代を考えなくてはなりません。

GHQによる「国家神道廃止」と神道勢力の反撃

島薗 さて、戦争が終わり、国体論は影をひそめた、というのが、つい最近までの世間の見方でしたが、私自身はそうではない、と以前から考えていました。
 実際、静かに脈々と生きてきた。たとえば、ジョン・ブリーンというイギリスの歴史学者が『神都物語 伊勢神宮の近現代史』(吉川弘文館、二〇一五年)という著書で指摘していることですが、GHQによる占領終了後の一九五六年ごろから、伊勢神宮の国家的地位を認めさせるべく「神宮の真姿顕現運動」が起こります。この「神宮の真姿」は戦争中に使われていた「国体の真姿」から来ている言葉だとブリーン氏は言っています。
 これは、戦後のGHQが、国家神道の廃止と政教分離を命じた「神道指令」をひっくり返すための最初の運動だったわけですが、その後も、紀元節復興運動や、元号法制化運動が続いた。
 そして、今、安倍首相がやろうとしていることは、まさにその路線の上に乗ったものです。彼は、二〇一三年の伊勢の式年遷宮の際に、遷御の儀という一番のクライマックスの式に参列しています。現職首相の式年遷宮行列参列というと、一九二九年の浜口雄幸首相以来の出来事です。
 国家と神道の問題で言うと、靖国神社のことばかりが大きく報道されますが、伊勢神宮こそ、国家神道における最高位の施設です。その文脈で、G7伊勢志摩サミットも捉える必要があります。
山崎 GHQの「神道指令」に対する神社界からの反撃の流れは、現在の日本会議の源流として非常に大きな影響をもっていると思います。
 神社本庁傘下の神社新報社が一九七一年に出版した『神道指令と戦後の神道』を読むと、「神道指令」という「強制」によって日本が「洗脳」され日本の伝統が破壊された、という表現が繰り返し出てきます。
「GHQにより洗脳された日本人」という言葉は、戦後の神道界やその流れを汲む日本会議などいわゆる「保守派」の政治家や論客、それに共感する一般市民が好んで使うキーワードです。これはGHQの「洗脳」の象徴としての「日本国憲法」への拒絶反応や、その被害者意識にもとづく「改憲」運動にも繫がっています。
 念のため、神社本庁についても説明しておきましょう。日本各地の神社を束ねる神社本庁は、庁とはつくけれども、公的な機関ではなく民間の宗教法人です。
 ただし、神社本庁は戦前の内務省の外局・神祇院の役割を限定的に引き継ぐかたちで、神祇院の廃止翌日(一九四六年二月三日)に誕生した。ここは大事なポイントです。
 神祇院は軍事組織ではないので、直接的な戦争責任は問われませんでした。しかし、彼らは「国民の戦意高揚と戦死者の顕彰(礼賛)」というかたちで戦争に加担し、精神面で重要な役割を果たしていました。ところが、神社本庁の出版物を見ても、戦前・戦中の歴史についての反省がないどころか、自分たちが負けたという認識が欠落している。神道指令によって一時的に邪魔をされているが、それを取り払い、神道指令の永続化を目論んだ日本国憲法を破棄さえすれば、戦前の国家神道の社会的地位を取り戻せるはずだ。そんな幻想を抱いているように見えるのです。
 そうした情念が、神社本庁の視点を通して見たときの日本会議の姿と思えるのです。

この続きは本誌でどうぞ!

 

島薗 進(しまぞの すすむ)

宗教学者。東京大学名誉教授、上智大学大学院実践宗教学研究科教授、グリーフケア研究所所長。日本宗教学会元会長。1948年、東京都生まれ。専門は日本宗教史。主な著書に『国家神道と日本人』(岩波新書)、共著に『愛国と信仰の構造』(集英社新書)など。

 

山崎雅弘(やまざき まさひろ)

戦史・現代紛争史研究家。1967年、大阪府生まれ。雑誌『歴史群像』『歴史人』等に戦史の分析研究記事の寄稿多数。昨年刊行された著書『戦前回帰』(学研マーケティング)は高い評価を受け、膨大な史実のデータをもとに現代日本を分析する注目の書き手の一人である。

 

● 山崎雅弘著『日本会議 戦前回帰への情念』(760円+税)が集英社新書より7月15日に発売予定。 中島岳志、島薗 進著『愛国と信仰の構造──全体主義はよみがえるのか』(780円+税)が集英社新書より好評発売中。

 
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山本太郎、参院選への危機感を語る! 日本会議の“草の根”に対抗せよ、と呼びかけ〔リテラ〕

2016-05-22 00:57:13 | 日本会議  神道政治連盟

http://lite-ra.com/2016/05/post-2263.html

山本太郎、参院選への危機感を語る! 日本会議の“草の根”に対抗せよ、と呼びかけ

2016.05.21
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参議院議員山本太郎オフィシャルサイトより


 5月14日から順次全国ロードショーされているドキュメンタリー映画『わたしの自由について〜SEALDs2015〜』。安保法制に反対し、日本中に“路上から声をあげる”というムーブメントを生み出した学生団体SEALDsの昨年夏の活動にスポットを当てた映画だが、渋谷アップリンクで行われた先行上映に“あの男”があらわれた。政治家として安保国会で孤独な戦いを繰り広げた、参議院議員の山本太郎だ。

 山本氏が登場したのは今月8日のことで、本作の西原孝至監督、SEALDs・本間信和さんと映画上映後のアフタートークにゲストとして登場。SEALDsは国会の“外”で声をあげつづけたが、山本氏は国会という“内”において、喪服姿で数珠を手に焼香をあげるというパフォーマンスやひとり牛歩を展開したが、トークではそのときのことを問われ、「ひどい状況ですよ。2ちゃんねるとかの誹謗中傷みたいなのが生で聞ける、みたいな」と語り会場の爆笑を誘うなど、いつもの太郎節全開だった。

 しかも山本氏は、あの“因縁の議員”とニアミスしたことについても暴露。それは、参院特別委での強行採決の際、反対する野党議員にパンチを見舞うという醜態をさらしたくせに、山本氏の“焼香パフォーマンス”を「品がない」などと非難した“ヒゲの隊長”こと佐藤正久議員だ。

 ふたりが鉢合わせしたのは、先日行われた北海道での衆院補選後、エレベーターでのこと。ふたりきりの密室で「何を喋ったらいのか」と考えた山本氏は、北海道補選の結果について「強いですね、自民党〜」と話しかけたところ、ヒゲの隊長は意外にも(?)冷静に選挙結果を振り返り、「なかなか厳しい戦いです」と語ったという。

 このエピソードを山本氏が明かしたのは、もちろん7月に行われる参院選への危機感からだろう。

「勝ったほうがいちばん謙虚なんですよ。(中略)勝っても向こうは全然気は緩んでない。逆に、次をどう勝っていくかってことを非常に深めていっているという印象でしたね」(山本氏)

 現在、SEALDsは「安全保障関連法に反対する学者の会」や「安保関連法に反対するママの会」などとともに市民連合を結成、安保関連法の廃止や立憲主義の回復などを掲げ、野党共闘を呼びかけている。その成果もあり、参院選の1人区では野党候補の1本化が進んできている。

 一方、山本氏は「ほんとうは3人区くらいまで調整できる(のが理想)」としつつ、現在の政治状況ではそのハードルが高いことと「わたしたちみたいなミニチュアの政党も1人区以外は“仁義なき”っていう戦いになっていかないと比例で票が積み上げられない」と、現実の厳しさを吐露。その根にあるのは、「党がもっている組織票、企業とかと合わさった組織票がないと(選挙に)受かれない」という問題ではないかと述べた。

「市民がそれに変わるような横のつながりをつくって、『おれたちの票田でお前は勝負しろよ』『お前を政治の舞台に送っているのはわたしたちだぞ』『見ろ、これだけの人が支えているんだ、あなたを』という。(いまは、そういう)思いきり人びとのための政治をやってくれというような安心できるバックグラウンドがほぼない、と言ってもいいと思うんですね」(山本氏)

 そうした状況をふまえた上で、やはり山本氏は“草の根”の重要性を訴える

「草の根しかないですよね。テレビ、民放は企業のものだし、NHKは官邸のものでしょ?(会場笑)
 ぼくみたいな難しいこと知らない人間が政治のなかにいて、政治のこと喋ると、意外とみんな怒ってくれるんですよね。『そんなひどいんですか?』って言う。そういう人を増やしていくしか方法がなくて、『あなたひとりで何票まで拡げられますか?』『あなたがここに入れたほうがいいよ、という提案を誰かにした場合、何人の人の票を集められますか?』ってことを最大化していく以外なくて」

 そして、いまその運動をやっているのが「日本会議だったりとか、公明党だったりとか、経団連だったりとか」と、山本氏は具体名を挙げるのだ。

「命賭けてますよ。そりゃそうですよ、その自分たちが送り込んだ代理人が、ルールをつくるわけだから。結局、自分たちに利益が還元されるわけだから。それが約束されているんだから、超本気ですよ。お金もマンパワーも全力で出すっていう方向性だと思うんですよね」(山本氏)

 いまの状況を変えるためには、草の根運動が重要──。本サイトでは昨年9月、安保法が国会で可決・成立された直後に山本氏にインタビューを行い、そこでも山本氏は同じように草の根で戦うことの意味を語ってくれたが、当時よりも状況は悪化している。山本氏は「情報が統制されていって、余計なことを言う人たちに対して強烈なバッシングというか弾圧がはじまるような」と危機感を口にしたが、実際、「余計なことを言う」キャスターたちは次々に降板に追い込まれた。1年も経たないうちに、山本氏が危惧する“情報統制、言論弾圧”の国へと近づいていっているのだ。

 また、そうこうしているあいだにも、与党は今国会でもひどい法案を通そうとしている。そのひとつが、先日強行採決された「刑事訴訟法」だ。山本氏はこの刑事訴訟法の危険性にも目を向ける。

「盗聴し放題になるんですよ。それだけじゃなくて、たとえば取調室の録音・録画が一部だけやるっていう話なんですよね。(中略。録音・録画を)とるもとらないも、全部とるのか一部とるのかって、そこらへん決めるの誰なんだよ、って話です。(決めるのは)捜査するほうですよね。だとしたら、間違った情報が提供される可能性が高いわけだし。あと(この法案では)司法取引、『お前、助かりたいなら違う奴、売れよ』っていうことが実現する。この性格が違う3つがひとつの法案になって出てくるんですよね」
「参議院の最前列に座って、もう夏で3年になるんですけど、そこで感じることはほんとにとんでもない速度でこの国は破壊されていっているんだなってことなんですよね。金儲けにつながることはすぐ法案も通るし、逆にみなさんの命を守ることとかに関することはほとんど法案にさえ上がってこないっていう状況です。
 完全に方向は決まっている。新自由主義っていうものの最先頭に立つということははっきりしている。企業のための政治しか行われない。みなさんの税金は横流しされるために存在しているんだと。それ以外のことはすべてコストと見られる。生きること、生きている人びとがコストとして扱われていく。それがもっと加速していくというのが、いまだと思うんですね」(山本氏)

 だが、そんななかにあっても、山本氏は「この状況はみんなで変えられる。非常に明るい未来じゃないですか、これ」と明るく語る。

「今年の夏の結果、その先の結果で、自分の思う通りにならなかったとしても、決して気を落とさないでください。何十年、何百年という支配体制を変えていくためには、デイステップ、ステップバイステップでいくしかないんだよな、ってね。意外とね、楽観的にね。これ、みんなが変えようと思えば変えられるじゃないか、っていうくらいに、ぼくは考えているんですよね。バカが国会議員になるとマズいですよね(笑)」(山本氏)

 みんなが変えようと思えば変えられる。もちろん、これを実現することが難しいということも、山本氏はわかっているはずだ。それでも、希望はある。それはたとえば、『わたしの自由について』というドキュメンタリーに刻みつけられている昨年夏のSEALDsの活動とその広がりを見れば、たったひとりでも第一歩を踏み出すことが大きなうねりになることを証明しているだろう。

 ちなみに、山本氏はこの映画を観て「2回ぐらい泣いてしまった」と語ったが、そのうちのひとつは、この日、ともに登壇した本間さんの演説だったという。本間さんのそのスピーチとは、日本国憲法の前文を読み上げたあと、「これは、おれの言葉なんだよ。これは、おれ自身の言葉なんだよ」と訴えるものだ。

 それは、これほど日本国憲法は胸に響くものなのかというほどに言葉が迫ってくる名スピーチだが、7月の参院選では、こうして主体性をもってこの国の政治と向き合う、そうした“草の根”を拡げる必要がある。そのためにも、この映画をひとりでも多くの人の目に焼き付けられることを願いたい。
編集部

 

 

 


安倍政権を支える右翼組織「日本会議」の行動原理(下)~「日本会議の研究」著者・菅野完氏インタビュー

2016-05-21 20:23:54 | 日本会議  神道政治連盟

ダイヤモンド・オンライン http://diamond.jp/articles/-/91605より転載

安倍政権を支える右翼組織「日本会議」の行動原理(下)

「日本会議の研究」著者・菅野完氏インタビュー

ダイヤモンド・オンライン編集部
2016年5月20日

>>(上)より続く

──ミソジニー(女性蔑視)ですか。とはいえ、彼らは堂々とそれを標榜しているわけではないですよね。

すがの・たもつ
著述家。1974年、奈良県生まれ。一般企業のサラリーマンとして勤務するかたわら執筆活動を開始。退職後の2015年より主に政治経済分野での執筆を本格化させる。

 でも、従軍慰安婦も歴史認識も、みんなミソジニーが根底にあると考えれば、全部納得いくんです。従軍慰安婦問題で、彼らはよく「もう済んだ話をほじくり返すな」と言いますが、あれは日常の居酒屋用語に直すと、「素人娘ならまだしも玄人女がなぜゴタゴタ言ってるんだ」というのと同じなんですよ。

 ところが、組織としては日本会議は実に男女平等なんです。組織形態を見ると性役割分業が極めて少ない。例えば、夫婦別姓反対の大集会などで前面に立つのは、櫻井よしことか、市田ひろみとか、大体女性ですよ。表看板だけでなく、運動の裏方も女性が目立つ。そういう人たちが「夫婦別姓は夫婦関係を壊す」とか言っているわけです。

 一方、左翼側の組織で目立つポジションにいるのは、男。運動の足腰も男。なんとも歪な感じがするんですね。また、「女のくせに黙ってろ」「若い奴は引っ込んでろ」といった言い方は、むしろ左翼の団体の方から聞くことが多いです。

──そういえば、左側の女性は「われわれ女性として」「女性の立場から」などの表現をよく使いますが、右側の人からはあまり聞かないですね。

 日本会議の主張する政策は、ジェンダーバイアスが掛かりまくりだし、性役割分業を前提とする社会を実現しようとしているのは間違いない。でもその運動を推進している団体は極めてジェンダーロールが少ない。左は「ジェンダーロールをなくそう」と言いながら、運動体はバリバリのジェンダーロールでやっている。その矛盾に本人たちは気づいてないんですね。

左翼の人たちは革命幻想を夢見過ぎ

──バランスをとっていくには、左翼がもっと頑張らないといけませんね。

 本当にそう思います。少なくとも、社会人として当然の実務能力や折り目正しさを持ち合わせていない人が多すぎる。たとえば、自己主張なのか何なのか知らないけど、公の場所に頭にバンダナを巻いて来たり、寝癖つけたままデモに参加したりね。サラリーマンならわかるでしょうが、どんなに仕事ができても、そうした折り目正しさがなければ評価されないじゃないですか。それがいいか悪いかは別として、日本の社会はそう動いているんだから。社会を変えるには、まずは乗っからないといけない。

 そういうところを見ると、左翼の人はどこかでやっぱり、革命幻想というか、ある日突然世の中が変わることを夢見過ぎていたんじゃないかと思います。

一方、日本会議周辺の人々は、そういうことはまったく思っていない。地方の愛国おじさん・愛国おばさんというのは、何らかの正業を持って、中の上くらいの生活をしてて、地域社会に溶け込み、運動となると手弁当で、一歩後退二歩前進が当然とばかりに、地道に市民運動をやっている。

 それでいて、運動手法は本当にピシッとしている。書類の作成、納期の守り方、定量目標の建て方、実に見事です。合意形成では、もめないよう、皆がちょっとずつガマンするように持っていき、気づいたら根回しをした者がおいしいところを全部持っていく…という感じで、とてもサラリーマンっぽいんです。

 もちろん、日本会議の幹部のように、一度も就職せず大学卒業以来政治活動だけしかしたことのない「プロ市民」も左翼以上に多いですけどね。

安倍晋三は21世紀の「そうせい候」

──ところで、歴代の自民党総裁にはずっと働きかけ、地道な右翼活動をしてきた日本会議が、なぜ安倍政権になってここまで深く食い込むことができたのでしょうか。

 いろんな説が成り立つか思いますが、僕が着目しているのは安倍晋三という政治家の、「あまりに主義主張に整合性が取れない」という特徴です。

 安倍首相はそれまでの総理経験者と比べると、とにかく党内基盤が弱すぎる。幹事長は経験したけれども、閣僚経験がろくにないまま、急に総理大臣になっています。あんな人は他にはいない。

 最近僕は、彼は21世紀の「そうせい候」なんじゃないかな、と考えています。

 幕末の長州藩のお殿様・毛利敬親って、長州藩で繰り広げられる政争で佐幕派が勝ったら「そうせい」、尊皇派が勝ったら「そうせい」と、下から上がってくる献策に、イエスしか言わなかった。安倍さんにもそれを感じるんです。すべての政策が総花的でしょう。その最たるものがアベノミクスだと思います。3本の矢と言いますが、財政出動で行くのか、緊縮路線なのか、増税なのか減税なのか、お金を刷るのか刷らないのか。結局、全部やる。総花的なんですよね。これは経済政策以外でも同じです。そんな、「なんでも採用しちゃう路線」のなかに、日本会議も入っているということなんじゃないかな、と。

 それを悪く言えば、「彼には主体性がない」となるけれど、僕はそれは彼一流の使命感なんだろうなと思っています。思想うんぬん関係なく、家系的に子供の頃から今の立場になると思って生きてきたでしょうし、「リーダーはどうあるべきか」と帝王学的なことを周りから教育もされたでしょう。彼はよく「自分は最高責任者だから」と言いますが、まさに最高責任者として、上がってきたものは全部拾うわけです。下からの献策を全部採用しちゃう。

 たとえば、朝、労働組合の幹部と会って、「非正規労働者を減らして、企業の内部留保を取り崩し、賃金を上げてもらわなきゃダメですよ」と言われれば、その日の午前の記者会見でそう言って、その日の夜に経団連の幹部に会って「雇用を流動化して賃金を下げなきゃ経営がきつい」と言われれば、次の日の記者会見ではそう言う、みたいな。

 彼のやっていることが、僕らから見ると矛盾だらけで整合性が全くとれないように見えるのは、そのせいなんだろうと思うんですよね。中身が「真空」だから、すべての勢力にとって、あれほど担ぎやすい神輿はない。

──消費増税の行方、伊勢志摩サミット、7月の参院選は衆参同時選挙になるのかなど、今後も何かと政治テーマが続きます。

 もう今は、あらゆる人々が安倍首相を押したり上げたり引っ張ったりで、五体分裂みたいになってるでしょうね。それらを全部咀嚼して出してくるのはなにか。もはや予測不能ですよ。

 そう思うと、政治部記者の仕事の仕方が、そろそろ時代に合わなくなっているんじゃないかと思いますね。

 三角大福中の派閥政治が華やかりし頃は、自民党本部と大物政治家が事務所を構える砂防会館のあいだを行ったり来たりすれば、政治部記者は記事を書けた。そこが権力の足元であり、かつまた、権力が行使される現場でしたから。

 でも、小選挙区制になって派閥政治は終わった。今度は派閥ではなく、世論そのものが権力を生むようになった。それをポピュリズムというのは簡単ですが、とにかく権力を生む場所はもう、砂防会館と自民党本部のあいだにはないんですよ。そうでなく、地元の愛国おじさんのようなところまで行かないと、世論の動きはわからない。官邸から半径2km圏内だけにいるだけの政治部の記者にとっては、ずっと予測不能で終わるでしょう。

メディアの流れをこの本から変えたい

──連載中、新聞やテレビといった大手メディアからの反応はありましたか

「日本会議の研究」(扶桑社新書) 800円(税抜)

 何もないです。だからすごく不安でした。

 政治部の記者はさっき言ったように官邸から2km圏内でしか生活していないので、日本会議のことなどご存じないのかもしれませんが、社会部の記者は知っているはずなんです。

 でも社会部があまりに日本会議のことを書かないので、もしかして僕が間違っているんじゃないかとずっと不安でしたね。マラソンで周りにランナーがいなくて、観客もいなくて、もしかしてコース間違えたのかなという感じ(笑)。

──政治部の記者が読んでいないというのは致命的ですね。

 もちろん、勘のいい人は読んでくださっています。応援もしていただきました。でも、大半の政治部の記者からすると僕の書いたことなんて馬鹿らしくて相手にしていられないのでしょう。彼らにとっては「政局」なるものが最重要だから。「政局」なるものを追いかけるには、「誰が誰といつ会った」「誰が誰と喧嘩した」という話が重要なのでしょう。でも、本来、メディアは言論機関として政治と対峙しなければなりません。そうしないと民主主義は成立しないはずなので。

 たとえばアメリカでは、メディアは政治家のセックススキャンダルもマネースキャンダルもやるけれど、政治家が変なことを言ったら、メディアがきちんと検証し、「ダメだ」と書く。「言説を言説として言説で批判する」習慣がまだ辛うじて残っている。ところが日本は、ロッキード事件以来、政治家のスキャンダルと言えばお金とセックスの問題ばかりになった。そして、逆にお金とセックス問題以外なら、よほどの失言でもない限り、政治家の言説を批判しなくなった。

 その点、日本会議は宗教的な人が多いから、皆さん、真面目で清潔なんですよ。お金とセックスの問題はあまり出てこない。だから批判の対象になりにくい。

 日本のメディアが真正面から政治家や政治勢力の言説と戦うことを、過去40年間やらな過ぎたことに問題があると思いますね。政治記事がスキャンダル中心に変わったのは、70年代に立花隆氏が「田中角栄研究」で所謂「田中金脈問題」を書いたのがきっかけだったのだと思います。あれは重要な仕事だっただろうけども、その後、メディアは政治家や政治勢力の言論を相手にしなくなった。単にスキャンダルを追いかけるだけの存在に成り下がり、民主主義の番人であることを、自ら辞めてしまった。

 その意味では、今回の僕の本がもし40年後に、「政治をスキャンダルだけでなく言論として批評し、政治運動は政治運動として直視するという風潮に変えたのはあの本だった」と評価を受けるなら、こんなうれしいことはありません。

(聞き手/「ダイヤモンド・オンライン」編集長 深澤 献)