http://blog.goo.ne.jp/excite_hy/e/e9cbaa813b7b3c4e5eada7b9f01c31daをシェア
明日を夢見て~神様と筋ジストロフィーと共に生きる~
保田広輝(やすだひろき) 兵庫県在住 23歳
デュシェンヌ型筋ジストロフィーという難病を抱えていて、電動車椅子とNPPVの人工呼吸器を使って生きています。 プロテスタントのクリスチャン(日本キリスト改革派教会)です。
賜物がひとつもないと思っても
3年前まで、僕は賜物をひとつも持っていないと思っていました。
また、僕は難病という終わりなき苦痛の洪水に流され、時に死にたい気持ちにもなって、生きることに耐えるだけの日々を送っていました。
でも、気付かされたんです。
僕は神様の恵みによって地上に誕生して、ひとつの賜物である命が与えられている。
命を与えた神様の愛も心も理解しようとせず、勝手に命を地面に埋めようとしていた。。
悔い改めました。。
そして、命だけじゃない。
僕たちに与えられている最大の賜物は、主イエス・キリストの愛。
この最大の愛は、能力や性格に応じてではなく、イエス様を信じる全世界の誰にでも、無条件に与えられている。
神様に祈りました。
「僕には何もありません。神様にお献げできるものが何もありません。
この命しかありません。僕の命を神様にお献げします。」
これこそ無条件の献身。
賜物をひとつも持っていない難病の僕は、神様のために何もできないと思っていたし、生きている意味もないと思っていたけど、イエス様の愛が無条件に与えられているのだから、僕たちが神様のために生きるのも無条件なんだと思う。
たとえ、僕のように賜物がひとつもないと思っても、神様のために何もできないと思っても、神様は福音のために生きる信仰者の決心を喜んでくださる。
そして、神様に命を献げた人は豊かに用いられるのだと思う。
「福音を宣べ伝えるために、地上に神の国を建て上げるために、あなたはこのミニストリーをしていきなさい」と神様から使命を与えられて、そのミニストリーを為していくための賜物や必要なものは与えられていくんだ。
確かに、それは小さな働きにすぎないかもしれない。
でも、自分に与えられている神様のご計画は他の人々と比べるものじゃない。
社会は、小学校→中学校→高校→大学・専門学校→就職→結婚→子育て~や、10代→20代→30代→40代~、という暗黙の決まったレールがあるわけだけど、神様のご計画や人間の成長過程はひとりひとり違うだから、「10代はこうでなくちゃいけない」「40代はこうでなくちゃいけない」、と一括りにする必要はないのだと思う。
大切なことは、他の人と比べて、「この年齢なのに、あれもこれもできない、あれもこれもない」と思うのではなく、神様から与えられている命を大切に生きて、自分に与えられたものや自分が成し遂げたひとつひとつのことを喜んで、感謝していくこと。
何もできない、何もない人なんていない。
誰の生命も誰かの生命を輝かせるための光なのだから。
人間を罪と死から救うために、イエス様を遣わして下さった神様の愛を覚えて生き出す時に、世間体に支配される生き方から解放されて、平安や喜びを感じていける。
そう思うと、自分は罪人だと自覚して、「神様なしでは生きていくことはできません。私を憐れんでください」と祈り、神様を見上げること自体が、天に宝をたくわえることにつながっていくのだと思う。
生きていく一日一日を神様の憐れみの中に踏み込んでいくような歩みをすることで、平安や喜びを感じることができるんだ。
【新改訳聖書 使徒の働き 26章15~18節】
「私が『主よ。あなたはどなたですか』と言いますと、主がこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現れて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。
わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。
それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』」
【新共同訳聖書 ペトロの手紙第一 4章10~11節】
「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。
語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。」
また、僕は難病という終わりなき苦痛の洪水に流され、時に死にたい気持ちにもなって、生きることに耐えるだけの日々を送っていました。
でも、気付かされたんです。
僕は神様の恵みによって地上に誕生して、ひとつの賜物である命が与えられている。
命を与えた神様の愛も心も理解しようとせず、勝手に命を地面に埋めようとしていた。。
悔い改めました。。
そして、命だけじゃない。
僕たちに与えられている最大の賜物は、主イエス・キリストの愛。
この最大の愛は、能力や性格に応じてではなく、イエス様を信じる全世界の誰にでも、無条件に与えられている。
神様に祈りました。
「僕には何もありません。神様にお献げできるものが何もありません。
この命しかありません。僕の命を神様にお献げします。」
これこそ無条件の献身。
賜物をひとつも持っていない難病の僕は、神様のために何もできないと思っていたし、生きている意味もないと思っていたけど、イエス様の愛が無条件に与えられているのだから、僕たちが神様のために生きるのも無条件なんだと思う。
たとえ、僕のように賜物がひとつもないと思っても、神様のために何もできないと思っても、神様は福音のために生きる信仰者の決心を喜んでくださる。
そして、神様に命を献げた人は豊かに用いられるのだと思う。
「福音を宣べ伝えるために、地上に神の国を建て上げるために、あなたはこのミニストリーをしていきなさい」と神様から使命を与えられて、そのミニストリーを為していくための賜物や必要なものは与えられていくんだ。
確かに、それは小さな働きにすぎないかもしれない。
でも、自分に与えられている神様のご計画は他の人々と比べるものじゃない。
社会は、小学校→中学校→高校→大学・専門学校→就職→結婚→子育て~や、10代→20代→30代→40代~、という暗黙の決まったレールがあるわけだけど、神様のご計画や人間の成長過程はひとりひとり違うだから、「10代はこうでなくちゃいけない」「40代はこうでなくちゃいけない」、と一括りにする必要はないのだと思う。
大切なことは、他の人と比べて、「この年齢なのに、あれもこれもできない、あれもこれもない」と思うのではなく、神様から与えられている命を大切に生きて、自分に与えられたものや自分が成し遂げたひとつひとつのことを喜んで、感謝していくこと。
何もできない、何もない人なんていない。
誰の生命も誰かの生命を輝かせるための光なのだから。
人間を罪と死から救うために、イエス様を遣わして下さった神様の愛を覚えて生き出す時に、世間体に支配される生き方から解放されて、平安や喜びを感じていける。
そう思うと、自分は罪人だと自覚して、「神様なしでは生きていくことはできません。私を憐れんでください」と祈り、神様を見上げること自体が、天に宝をたくわえることにつながっていくのだと思う。
生きていく一日一日を神様の憐れみの中に踏み込んでいくような歩みをすることで、平安や喜びを感じることができるんだ。
【新改訳聖書 使徒の働き 26章15~18節】
「私が『主よ。あなたはどなたですか』と言いますと、主がこう言われました。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
起き上がって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたが見たこと、また、これから後わたしがあなたに現れて示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。
わたしは、この民と異邦人との中からあなたを救い出し、彼らのところに遣わす。
それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。』」
【新共同訳聖書 ペトロの手紙第一 4章10~11節】
「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。
語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。」