http://www.geocities.jp/hhhirofumi/paper101.htm より転載
関東学院大学経済学部総合学術論叢『自然・人間・社会』第52号、2012年1月
マニラ戦とベイビューホテル事件(後篇)
林 博史
Ⅳ 関連する日本軍・軍人
次にベイビューホテル事件に関わった日本軍について検討してみたい。このエルミタ地区あるいはその周辺地区に関わっていると思われる主な部隊と部隊長を見てみよう。
表3 マニラ海軍防衛隊 中部隊(司令部ならびに関連部隊)
司令部 (岩渕三次少将) |
本部 |
司令部は農務省ビル |
司令部指揮中隊 ほか |
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司令部大隊 (伊地知季久大尉) |
第1中隊(伊地知季久大尉) |
ルネタ公園から官庁街地区に配備 |
第2中隊(片岡達之助中尉) |
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混成中隊(高谷進大尉)ほか |
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橘地区隊 第1大隊 (清水常吉大尉) |
第1中隊(清水常吉大尉) |
市中心部の東側にあるパコ地区とパシグ河南側のパンダカン地区に配備。最後は農務省ビルなど。 |
第2中隊(後藤忠治中尉) |
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第3中隊(岡本健治中尉) |
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第1迫撃砲中隊(西林長治少尉) |
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防空隊(白井證進少尉)ほか |
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楠地区隊 第2大隊 (稲政博大尉) |
第4中隊(土井輝章中尉) |
エルミタ地区とその南側に配備。大隊本部はエルミタ地区のフィリピン大学リサールホール |
第5中隊(西村幸雄大尉) |
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第6中隊(水谷弘康大尉) |
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第2迫撃砲中隊(稲垣衛少尉) |
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防空隊(岡田政太少尉)ほか |
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第5大隊 (木下進大尉) |
防空中隊(木下進大尉) |
南郊外のキャビテ軍港から引揚げ、中部隊の予備隊に。最後はリサールホール |
特別根拠地中隊(原田恵光少尉)ほか |
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(出典)第2復員局『マニラ防衛部隊戦闘状況』より作成。 (注)各大隊の主な構成部隊のみを挙げた。括弧内は部隊長。ほかに海上部隊のいくつかが中部隊指揮下に入れられていたようである。周辺地区には、南港地区隊(陸軍第3船舶司令部・後藤清之進少佐、本部は財務省ビル、第4中隊はマニラホテルなど)がいた。またパシグ河北側と南側のイントラムロス地区を担当していた北部隊(野口勝三陸軍大佐)の本部が最後には財務省ビル、同配下の臨時歩兵第2大隊(野内彦司郎少佐)の本部も財務省ビルに後退してきた。 |
日本軍の配置を見ると、9日にエルミタ地区で住民を狩り出した兵士たちは第2大隊の兵士たちと見てよいだろう。
次にベイビューホテルに集められた住民の証言で出てくる名前の日本軍人について検討したい。
ウメムラは米軍の捕虜になりその尋問調書が残っているが、彼は台湾人であり、軍人ではなく会社員だったようである。彼の尋問調書を読むと、関連する日本軍将校らについてはほとんど知らないとして語っておらず、戦犯追及を意識して誤魔化している印象を受ける。彼はエルミタ地区に住んでおり、知り合いの家族をベイビューホテルから救出している。いずれにせよウメムラは戦犯には相当しないだろう。
住民の証言でしばしば出てくるのが、テラモトである。ファーガソン広場で男女を分ける場面にも登場してきており、ベイビューホテルの日本軍の責任者らしき行動をしている。彼は、ウメムラとの関係で何人かの家族をベイビューホテルから救出することを認め、また12日の火事のときには住民たちが逃げることを許している。証言を総合すると米軍捜査報告書がまとめているところでは、「5フィート7インチ(170cm-注)くらいで、160ポンド(72.5kg-注)ほどあり、45歳くらい。めがねはかけておらず、人目を引く金歯があり、少し口ひげがある」という人物である。
ある母親が、18歳の娘が日本兵に連れ出されようとするのに抵抗し、テラモトが部屋に来たとき、娘を助けてくれと頼んだところ、テラモトは隣の部屋に連れて行ってくれて一晩そこで無事にすごすことができた。翌朝、テラモトが、米軍との戦いに行って死ぬ前に、娘と関係を持ちたい、そうすれば二人を釈放するとその母親に頼んだ。そのときに、テラモトは、ホテルにいる全員を殺せという命令が出ているとも語っている。母親はその要求を拒否し、そしてテラモトが部屋を出て行ったとき、母と娘は元の部屋に逃げもどったが、その後、テラモトが来たときには何も言わなかったという(1-4)。テラモトは兵士を連れて住民たちの部屋に来て、食糧、茶、砂糖、ビタミン剤などを住民に配ったという。また日本兵の行為をやめさせてほしいという母親たちの要望に対して、テラモトは「自分にできることは何もない」と答えたという(1-5)。
テラモトは日中もベイビューホテルにいたようなので、表3に挙げた中部隊の戦闘部隊の一員ではないと見られる。ベイビューホテルはアメリカ人が経営するホテルだったが、日本軍がマニラを占領すると1942年1月にホテルを接収した。当時の経営者はしばらくは運営のために残っていたが、まもなくサント・トーマスの民間抑留所へ入れられた。
ホテルはその後、軍が直接管理し、軍政監部(陸軍)が主に利用していたようであるが[12]、米軍の上陸を前にしてマニラにいたほとんどの部隊はルソン北部などの山中に移動してしまったので、この45年2月時点でどの部隊が管理していたのかわからない。住民たちは彼のことをキャプテンと呼んでいるが、キャプテンとは海軍では大佐、陸軍では大尉を示すが、マニラ海軍防衛隊の構成から見て海軍大佐とは考えられない。ホテルの警備兵たちを指揮しているので、その隊長という意味で住民たちはキャプテンと呼んでいただけではないかと思われる。
マニラ海軍防衛隊を構成する海軍部隊については、小隊長クラス以上の詳細な名簿があるがテラモトあるいはそれらしき名前は確認できない。マニラ海軍防衛隊の指揮下には陸軍部隊もあるが、エルミタ地区には配備されていないので、その可能性は少ないように思われる。
テラモトは比較的年齢も上のようであり、日本兵の行為を制御できなかったことを考えると、ホテルの管理を任されていた後方部隊の将校ではないかと思われるが、それ以上確認できない。
次にキト(あるいはキド)という将校らしき人物が出てくる。ホテルの夜担当の将校とも見られている。捜査報告書では、「異常に背が高く、約5フィート11インチ(180cm―注)あり、がっしりした体格で、32歳くらい、顔立ちはよく、色白である」とされている。流暢な英語を話し、ドイツ人と日本人の混血だと言っていた。左手には包帯をまいており親指以外の指はなくなっていたようである。
23歳のフィリピン女性の証言によると(2-13)、ベイビューホテルへ入ると、日本兵が彼女が抱いていた赤ん坊の息子を奪おうとした。拒むと日本兵が平手打ちをしたので、彼女は平手打ちを仕返したところ、日本兵が怒って銃剣を取り出し突きつけた。するとキトという将校がその日本兵を止めたという。キトから、アメリカ人ではないかときかれたので、ドイツ人とスペイン人の混血だと答えたところ、母親と3人は3階のキトの部屋に連れて行かれた。キトは少ししてマットレスを持ってきて、さらにソラノ夫人と子どもたちも連れてきた。何が必要かときくので水がほしいと要望した。キトに対して、日本兵を部屋に入れないように頼んだが、彼はどうしようもないと答えた。まもなく彼は水と缶詰を持ってきて、しばらく部屋で話をしたが、キトは英語がうまかったという。キトが話したことは、下士官や兵が少女たちに、いろいろやっているが、自分にはどうしようもない、兵士たちは戦っていて前線からもどってくると、やりたいことは何でもやれるので、将校は誰もやめさせることができない、やりたいことは何でもできる。かれらは翌日には戦いにもどり、何人かは戻って来れない。だからそれほど長くは生きられないというようなことを話したという。
10日のお昼に、多くの少女が暴行をうけていることをキトに伝えたが、彼は「兵士たちにおとなしくするようにできるかぎりの努力はしたが、何もできなかった」と答えたという。
翌朝、彼女の義理の姉妹と出会ったが、その姉妹は昨晩、日本兵に強かんされていた。部屋にキトが来たとき、彼女たち、フィリピン人たちと一緒に行くか、白人とここに留まるか、たずねたので、残ることにしたが、キトは2階のダイニングルームが一番よいと言うので、ダイニングルームへ移ったという。
キトは中尉ではないかと米軍は推測しているが、海軍防衛隊の名簿で似た名前を探すと、連合通信隊の第1分遣隊長木戸平吉兵曹長(2月にマニラで戦死)がある。連合通信隊の本部はマニラ南郊外のマッキンレーにいたが、一部はマニラ市内にいたようなので、この人物の可能性がなくはないが、あまりありそうにない。
もう一人重要な人物としてキャプテン・アカシがいる。
52歳の歯医者だったフィリピン人男性モーリシオ・ババサ氏の証言によると(1-63)、9日の夕方6時か7時ごろ、家の周りで火事がおきたために家を出て、ファーガソン広場に行ったところ、そこでウメムラと出会い、妻とウメムラと一緒にベイビューホテルへ行った。ホテルのロビーで早朝までいて、その後、エルミタ地区にあったウメムラの家に行った(15、6日ごろまで滞在)。ウメムラは彼の患者だったので知っており、ウメムラは英語がうまかったという。アカシも彼の患者だったという。
彼はウメムラに家族をベイビューホテルから助けてくれるように頼んだ。ウメムラはアカシに依頼して、ババサの家族をホテルで探して連れ出して、10日午前10時ごろ自分の家に連れてきた。このときにベイビューホテルから助け出されたモ-リシオの義理の妹によると、アカシが自分たちの名前を書いたリストを持ってきて、彼女を含めて家族8人が連れ出されてウメムラの家に連れて行かれたという(1-48)。
モーリシオはさらに知り合いの別の家族も助け出してくれるようにウメムラに頼み、その家族は助け出されて翌11日にウメムラの家にやってきた。
ウメムラは、彼に対して「男たちを最初に連れてくる、なぜならかれらは危険な状態にあるので、その後で女性たちだ」と日本軍が男たちを射殺しようとしていると言ったという。その言葉を横で聞いていたババサ夫人によると、「ファーガソン広場の近くに監禁されている人々(男たちのこと―注)は銃殺される危険な状態にある。なぜなら日本軍の上級司令部から、日本軍がその地区から撤退する前に、すべての民間人を射殺すべしという明確で文書による命令が出されているからだ」とウメムラが話し、さらにウメムラは、キャプテン・アカシはウメムラに対して、それをなんとか避けられるならば、その命令を実行しないようにしたいが、そのためにアカシは上官から厳しく叱責されたと話していたと夫妻に語ったという(2-2、1-63)。
ウメムラの供述によると、彼がアカシに対して、なぜかれらを拘束して
いるのかたずねたところ、アカシは、かれらはみんなゲリラ活動の容疑者だ、「彼らは殺されるだろう」と答えたという(2-47)。
またあるフィリピン女性によると(2-13)、10日午後、アカシと別のある将校が議論をしており、別の将校は、われわれはかれら全員を殺すだろうと言っていた。その将校になぜフィリピン少女を他の者たちから分けたのか質問すると、「われわれはその少女たちを家に帰すのだ」と答えたので、「なぜ私たちは帰してもらえないのか」というと、「おまえたちはこのまま留めておく。われわれは白人を憎んでいる」、さらにその将校は笑いながら「おまえたち全員を殺せと言う命令が出ている。しかしわれわれは待っている。なぜならアメリカ軍がやってくるのを食い止めるために、白人の女たち全員を、わが軍の前線として使うことにするかもしれないからだ」と言ったという。
その女性はアカシに対して、昨晩は一晩中、少女たちが暴行を受けたと訴えたところ、彼はただ首をふり、「私はできるだけのことはしている。少女たちを守るためにできるかぎりのことはするつもりだ」と答えたという。
ウメムラによると(2-47)、アカシはタフトアベニューの方へ移動していったという。彼は機関銃部隊の一員ではないかという証言もあり、タフトアベニューは米軍が迫ってきていた方面なので、前線に送られたのではないかと見られる。ただキャプテンと呼ばれていたことについては疑問であり、またマニラ海軍防衛隊の名簿にもそれに似た名前はない。このアカシについても所属部隊はわからない。
ウメムラの家には、アカシとともにニシヤマという将校らしき人物がいたようだが、この人物についてもよくわからない。
ミョウジンという将校らしき人物は、18歳のフィリピン女性をベイビューホテルに集団で収容する前に、彼女を選んである部屋に連れて行き、拒否すればお前を殺すと脅して彼女を強かんしたという。ミラマーに移ってからミョウジンに連れ出されて同じようにされたという(2-45)。あらかじめ少女を選んで連れて行ったというのは将校か下士官と思われるが、ミョウジンに似た名前は名簿にはない。
先に紹介したように、2月7日または8日にフィリピン人を集めて殺害するようにとの命令が、中部隊の海軍第2大隊から出されていた[13]。エルミタ地区のドイツクラブや赤十字ビル、あるいはイントラムロスではこの命令が実行されていたことから考えて、ファーガソン広場の周辺の家々に監禁された男たちも、さらには女性子どもたちも、然るべきときが来れば殺害されることになっていたと思われる。したがって住民たちがこれらの日本軍将校(あるいは将校と思われる人物)から、自分たちが殺されることになっていると聞いた話は、おそらく事実と見てよいだろう。しかし幸いにもファーガソン広場に集められた住民たちは、集団虐殺にはあわなかった。このことは、テラモト、キト、アカシらの関係する日本軍将校(あるいはそれに準ずる地位の者)の、住民殺害への消極性がその一因ではなかったかと推測される。
Ⅴ 事件の組織性・計画性をめぐって
住民の集団虐殺は免れたとはいえ、ベイビューホテルとその周辺のアパートメントでくりかえされた強かんは、きわめて非人道的な犯罪というしかない。エルミタ地区で一斉に住民の狩り出しがなされたことから、第2大隊本部あるいはその上級司令部(マニラ海軍防衛隊)からの命令による狩り出しであったことは間違いないだろう。北部隊の担当地区であるイントラムロスでもその前日の8日に同じような住民の狩り出しがおこなわれたことを考えると、マニラ海軍防衛隊司令部からの命令に基づいて住民の狩り出しが実施されたと考えてよいだろう。その際に、抗日的と見なした住民を大量に処刑することも予定されていたことはすでに述べた通りである。
ただ若い女性たちだけ数十人を選別したこと、さらに毎晩、日本兵たちに女性襲撃をおこなわせたことは、どのレベルの司令部・本部が許可したのか、日本軍が意図的に若い女性たちを集めて最期が迫った将兵への性的「慰安」を提供する目的でベイビューホテルに集めたのか、各部隊に女性たちを自由にしてよいという指示ないし通達をおこなったのか、あるいは女性たちが集まっているという情報を聞きつけた将兵たちが自然に夜になると集まってきて襲撃をおこない、後方部隊の将校たちには止められなかったという非計画的な事態だったのだろうか。しかしながら、そうしたことを裏付けたり、示唆するような資料も伝聞情報もない。米軍の捜査報告書の分析は非計画性に傾斜した見方だった。
岩渕司令官が9日にマッキンレイに行き、11日に市内の司令部に戻るが、9日の時点では岩渕司令官はマニラからの撤退を考えていたと思われることを考慮すると、岩淵司令官が若い女性たちだけを選別して、このように扱うことを命令あるいは指示していたとは考えにくいように思われる(もちろん完全に否定はできないが)。むしろ女性と子どもたちだけをベイビューホテルに監禁するにあたって、ファーガソン広場での選別を指揮していた部隊によってなされた可能性が高いのではないかと思われる。そうするとその命令は第2大隊大隊長あるいは第2大隊の中で住民の狩り出しを担当した将校(少なくとも中隊長以上のクラス)の判断によるものではないかと思われる。マニラからの撤退は、岩渕司令官と上級司令部との間でのやりとりで議論されていただけで[14]、司令官以外の将兵たちには、マニラから撤退する可能性は知らされていなかったと考えられるので、もはや残された時間があまりないと考えた、現場の将校たちがベイビューホテルを一時的にこのような形で利用することを考え実行したのではないかと思われる。
また毎晩、将兵たちがベイビューホテルやミラマー、アルハンブラにやってきたことを考えると、米軍が迫ってきて激しい戦闘が行われている中、夜になったからとはいえ勝手に持ち場を離れるようなことが許されるはずはないので、中隊や大隊レベルの指揮官や将校たちが、将兵のそうした行動を許可していたと見るべきだろう。このように考えると、少なくとも第2大隊の組織的な行為と見るべきだろう。
コンノートンらの著作では、「日本軍がおこなったことは、戦闘地域の近くに“女郎”屋あるいは売春宿を設けることだった。そうすることによって戦闘任務をはずれてやってきた海軍陸戦隊が、戦闘で死ぬ前に楽しみ夢をかなえるようにするためだった」としている。まったく間違いとは言い切れないが、これを売春宿あるいは慰安所と言えるかどうかは難しい[15]。
わかっているかぎりの情報に基づいて言えることは、日本軍が組織的に女性と子どもたちだけを駆り集めてホテルに監禁したこと、特に20数人の若い女性だけを選別して一室に隔離したこと、これは明らかに組織的意図的な行為である。特に後者を選別したことは性的対象にする意図があったことを示すものといえるだろう。ただこれがあらかじめ計画されていたのか、あるいはその場で現場の将校たちの判断でおこなわれたのか、よくわからない。住民の狩り出しと選別は、第2大隊が中心におこなったと考えられる。ただそれを計画あるいは指揮したのが、第2大隊なのか、あるいはマニラ海軍防衛隊の本部が関わっているのか、はわからない。
9日より毎晩、多数の日本軍将兵がベイビューホテルとアルハンブラ、ミラマーのアパートメントにやってきて女性を連れ出して強かんを繰り返したが、将兵が夜間にベイビューホテルなどに来ることができたこと自体が、日本軍が組織的に許可あるいは容認したとしか考えられない。それだけでなく、ベイビューホテルなどに行けば、女性を自由に選んで性的行為をおこなえるという情報を将兵に伝えていたと考えられる。夜になるとやってきた日本軍将兵は海軍第2大隊の将兵が多かっただろうと推測できるが、第2大隊だけにとどまらず、司令部や司令部大隊、ほかの周辺地区にいた部隊からもやってきていた可能性は高い。そうしたことを考慮すると、ベイビューホテルへ女性たちを監禁したこと自体が、第2大隊の単独の判断というよりは上級の司令部(司令官ではなくても、参謀など司令部のスタッフ)の判断だと考えたほうがよいかもしれない。したがって、米軍の捜査報告書の結論のように非計画的な、ただ欲望にかられただけの行為であるかのような分析は妥当ではないように思える。
海軍第2大隊は兵員の約9割が戦死し、将校もほとんどが戦死している。それにしても住民の証言から出てくる日本軍将校と思われる人物の名前がこれらの部隊の名簿にはないことをどのように考えればよいのだろうか。マニラ海軍防衛隊を構成する兵員の多くが、寄せ集めの急造部隊なので、ベイビューホテルの監督にあたっていたのは、比較的年齢が高いテラモトや、負傷していたキトのような戦闘部隊には編入しなかった要員だったのかもしれない。そうした将校たちであれば、戦闘部隊の将兵の暴行を抑えられなかったのは説明がつく。
ここで旧ユーゴスラビアでおきた、「レイプ・キャンプ・ケース」と呼ばれているフォチャ事件に言及しておきたい。フォチャにおける集団強かん事件を扱った旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所による裁判は、国際人道法(戦時国際法)の歴史上、初めて“強かん”を人道に対する罪と認定し、加害者を裁いた裁判であるからである[16]。その判決は2001年2月22日に下され、ボスニアのセルビア軍の3名に12年から28年の禁固刑の有罪判決を下した。
1992年から93年にかけてボスニア・ヘルツェゴビナのスルプスカ共和国にあるフォチャでは、ムスリムの男たちが集められて拘禁されたのとは別に、女性と子どもたち数百人あるいはそれ以上がフォチャ高校に集められた。一部はそこから近くのスポーツホールなどに移された。そこでセルビア軍兵士によって順に連れ出されて強かんされていった。それが数週間から数か月続いた。ここでもベイビューホテル事件と同じように10代前半の少女も犠牲になった。
このフォチャ事件の場合は、ボスニアのセルビア軍がこの地域を制圧していた時期におこなわれたものであり、マニラ戦の状況とは異なるが、男たちと女性子どもを分離して監禁し、監禁した女性グループのなかから兵士たちが若い女性を選んで連れ出し、別室に連行して強かんを繰り広げるという点では共通するものがある。
ベイビューホテル事件において、もし加害者を逮捕することができていれば、集団強かんを戦争犯罪として、しかも単独の訴因で裁いた最初の戦犯裁判になったかもしれない。第二次世界大戦後の戦犯裁判では強かんを戦争犯罪として裁いたケースが少なくないが、いずれも虐殺、虐待など一連の残虐行為の一つとして強かんを訴因に含めているものであり、性暴力だけで訴追したケースはほとんど見られない。日本軍「慰安婦」への強制を「強制売春」として訴追したケースはあるが、集団強かんをそれだけで訴追したケースはないので、このベイビューホテルは加害者を特定、逮捕していれば、きわめて重要な裁判になったはずである。その場合、米軍が通例の戦争犯罪だけで裁いたか、あるいは人道に対する罪も含めて裁いたかどうかはわからないが、米軍は人道に対する罪をBC級戦犯裁判にも適用したケースがあるので、集団強かんを通例の戦争犯罪だけでなく、人道に対する罪として裁いた可能性もありえただろう。
日本軍関係の史料がほとんど残っていないので、なぜ日本軍がベイビューホテル事件のようなことをおこなったのか、その理由は状況から推定するしかないがいくつか考えられる理由を検討しておこう。
第1に日本軍が満州事変以来の十数年にわたる戦争のなかで、軍「慰安所」を設置し、将兵たちもその利用を当然のことと考えていたことが挙げられる。女性に対して性行為を強要することを何ら疑問に感じないようになっていたし、マニラはそうした慰安所や一般の売春宿、将校用料亭などが戦争終盤までたくさんあり、それに慣れていたこともあったかもしれない[17]。日本軍将兵の場合、一般的に、死ぬ前に女性を買いに行くことがごく当然のこととしておこなわれており、追い詰められて死を間近にした将兵たちが、担当地区にいた若い女性を監禁し性行為を強要したことは、彼らにとっては自然なことであったのかもしれない。性暴力を暴力と感じない軍隊であったことが最大の理由として挙げられるだろう。
第2にフィリピン人に対する敵視である。同時に白人すべてを-連合国・同盟国・中立国を問わず-敵視する傾向が強かった[18]。“敵の女”を性的に自由にすることはしばしば見られることである。マニラでは監禁した女性たちを殺すことが考えられていたこともあり、どうせ殺すならばその前に、と考えてもおかしくない。住民を虐殺する前に女性たちを強かんすることは、中国などの敵性地区(抗日勢力の強い地区)ではしばしば見られたことであり、日本軍の認識ではマニラ市内はそうした敵性地区と見なされていたと見てよい。
このように日本軍の長期にわたる侵略戦争の経験がこのベイビューホテル事件にも反映していると考えられるが、同時にフォチャ事件を見ると、もう少し普遍的な要因もあると言うべきだろう。この点については今後の課題としておきたい。
おわりに
数百人にのぼる女性たちをホテルに監禁し、3晩あるいは4晩にわたって、次々に日本兵がやってきて強かんを繰返したベイビューホテル事件は―被害女性の人数は数十人かあるいは百人以上になるかもしれない―、日本軍がおこなった性暴力の中でも、組織的なものであったと言えるだろう。軍紀の乱れによる個々の将兵の非行というものではまったくない。日本軍慰安婦制度そのものが組織的な性暴力のシステムであるが、それを別とすれば、このベイビューホテルほどの大規模で組織的な強かんは、日本軍であってもそれほど多くはないように思える[19]。
日本軍関係者の多くがマニラ戦の中で戦死し、生き延びた将兵もこの事件については一切口をつむって何も語ろうとしてこなかった。上級司令部の命令によるものだとしても、米軍との戦闘がおこなわれる中で、こうしたことのために文書が作られたとは考えられない。日本軍の意図を示すような手がかりが今後見つかるような可能性はほとんどないと言えるだろう。しかしながら、100人以上の貴重な証言によって、この事件の実態は詳細に明らかにすることができる。残念ながら日本において、この事件の事実を明らかにしようとする試みを誰一人としてやってこなかった。
近年、日本の侵略戦争とそのなかでの残虐行為に関わって、日本とアジア諸国・国民との「和解」がよく語られるようになった。しかし、南アフリカなどの「真実和解委員会」という名前に示されるように、「和解」が成立する前提には、真相究明が不可欠である。ベイビューホテル事件ほどの人道に反する大きな事件を闇に葬ったままの「和解」とは一体何であろうか。ほとんどの日本人がこれほどの事件の存在さえも知らないままの(無視しての)「和解」とは何だろうか。
マニラ戦の研究はまだ始まったばかりであり、本稿はそのための初歩的な研究にすぎない。
(注)
[1] マニラ戦に関する主な研究については、林博史「資料紹介 日本軍の命令・電報に見るマニラ戦」『関東学院大学経済学部総合学術論争 自然・人間・社会』第48号、2010年1月、参照。
[2] この捜査報告書は、連合国軍最高司令部GHQ/SCAPの法務部 Legal Sectionの 管理課Administrative Divisionの文書群のなかの「戦争犯罪ファイル 1946年-1950年 War Crimes File, 1946-50」Report No.61、「1945年2月9日から13日の間、フィリピン諸島マニラのエルミタにおける、さまざまな国籍の、40人の民間女性への強かんならびに36人の民間女性への強かん未遂についての捜査報告」 “Investigation of the Rape of Forty Civilian Women and the attempted Rape of Thirty-six Civilian Women, of Various Nationalities, in Ermita, Manila, Philippine Islands, During the Period 9-13 February 1945”である(米国立公文書館所蔵、RG331/GHQSCAP/Box1113)。なお強かん被害者が特定できる情報は記載せず、ここでは分析の必要上、年齢と国別のデータのみを使用する。なお国別というのは、尋問においてナショナリティは何かという質問に対する本人の回答として示されたものである。
[3] Jose Ma. Bonifacio M. Escoda, Warsaw of Asia: The Rape of Manila(Revised Edition), Quezon City : Giraffe Books, 2001, p.8.
[4] 注1の拙稿、71頁、参照。
[5] この命令の詳細については、前掲拙稿83-85頁。
なおそこでの叙述にはいくつかの間違いがあったので訂正させていただきたい。拙稿では「海軍第2大隊の指揮下には、木下進海軍大尉を中隊長とする防空中隊があった」とし、「木下中隊長は、2月15日に戦死している」としている。この記述は、第2復員局『マニラ防衛部隊戦闘状況』1947年5月5日、に基づいている。しかし戦後直後にまとめられたこの文書には間違いが散見され、また第5大隊の表記が欠落していたため、木下大尉の防空中隊が第5大隊指揮下であることを見落としていた。正確には、第5大隊(大隊長木下進海軍大尉)の下に木下大尉が中隊長を兼任する防空中隊があった。また木下大尉は15日に戦死しておらず、第2大隊長のそばに控え少なくとも21日までは生存していた。第5大隊は戦力的には第2大隊の3分の1程度の兵力しかなく、第2大隊の応援的な役割を果たしていた。第2大隊長の稲政博大尉についても拙稿で「2月11日にパコで戦死したとされている」と書いたがこれも同『戦闘状況』の記載間違いであり、稲政大尉は12日に重傷を負うが死亡したのは21日のことである(児島襄『マニラ海軍陸戦隊』新潮社、1969年、148-150頁)。以上が訂正点であるが、84-85頁の結論部分については訂正する必要はない。
[6] 捜査報告書に収録された宣誓供述書については、証言者の番号で出典を示す。報告書は2分冊にわかれており、供述書など文書にはそれぞれ番号が付けられている。2-20とは、第2分冊の文書番号20を指す。必要に応じて証言者の年齢、性別、国別を示すが、証言者の名前は記さずにこの番号で示す。
[7] Richard Connaughton, John Pimlott, & Duncan Anderson, The Battle for Manila, Novato : Presidio Press, 1995, pp.120-123.
[8] 吉見義明監修、内海愛子、宇田川幸大、高橋茂人、土野瑞穂編『東京裁判―性暴力関係資料』現代史料出版、2011年、146-152頁。これは東京裁判の弁護人・被告用に邦訳されたものである。
[9] 性暴力の被害者の集団のなかで、自分は免れたと証言している者が少なくないことは旧ユーゴスラビアでも見られる。1990年代以降の旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所の段階では、性暴力被害者に対するケアの必要性と方法がかなり配慮されるようになっていたが(ジョン・ヘーガン、本間さおり訳『戦争犯罪を裁く-ハーグ国際戦犯法廷の挑戦』NHK出版、2011年、第6章)、この1945年時点では、米軍の尋問者は男の将校だけであり、しかも尋問の仕方を見ていると、今日の基準ではセカンドレイプとしか思えないような乱暴な尋問をおこなっていると言わざるをえない。
[10] 331/SCAP/1723(米国立公文書館所蔵)。
[11] 1945年9月の捜査報告書では海軍第2大隊が関連する部隊としていたが、なぜこのように認識を変えたのかは、よくわからない。
[12] 日本のフィリピン占領期に関する史料調査フォーラム『日本のフィリピン占領』龍渓書房、1994年、51頁。
[13] この命令の分析は、前掲拙稿83-85頁。
[14] マニラを放棄して撤退することについては、マニラ戦をめぐる大きな問題であり、なぜ撤退しなかったのかについては多くの議論をよんでいるが、筆者としての整理は、前掲拙稿73-75頁、参照。
[15] Richard Connaughton, ibid,, p.114. このような短期的な集団強かんの場を慰安所と言えるかどうかは、議論がある。筆者としては、集団強かん事件と規定した方が妥当ではないかと思われる。
[16] 旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所のウェブサイトUnited Nations: International Criminal Tribunal for the former Yugoslavia(http://www.icty.org/)に掲載されているJudgement ListのKunarac et al., “Foca” の裁判記録より。ジョン・ヘーガン『戦争犯罪を裁く』第6章、Kelly Dawn Askin, War Crimes Against Women: Prosecution in International War Crimes Tribunals, Hague: Martinus Nijhoff Publishers, 1997, Chapter 7, 参照。なお人道に対する罪だけではなく、通例の戦争犯罪としても有罪を認定している。
[17] マニラにおける日本軍「慰安所」の状況については、上田敏明「フィリピンの『慰安婦』・性暴力の実態」西野瑠美子・林博史編『「慰安婦」・性暴力の実態Ⅱ 中国・東南アジア・太平洋編』緑風出版、2000年、参照。東南アジア全域の中でのフィリピンの慰安所の特徴については、同書所収の拙稿「東南アジアの日本軍慰安所」参照。なおこの上田氏の論文の中で、Alfonso J. Aluit, By Sword and Fire: The Destruction of Manila in World War 2, 3 February-3 March 1945, Makati: Makati Bookmark, 1994、に依拠して、ベイビューホテル事件についても紹介している。
[18] 林博史「資料紹介 日本軍の命令・電報に見るマニラ戦」において、日本軍のフィリピン人観をくわしく検討している。
[19] 強かんの被害の大きさから見ると、南京攻略時の南京虐殺のなかでの強かんの多さが際立っているが、それは軍紀の乱れとそれを軍上層が放任したことによるものが中心であり、ベイビューホテル事件とはかなり様相を異にするように思える。
<関連>
マニラ戦最中の惡名高き、ベイビューホテル・日本軍強かん事件(前編)~米軍の捜査報告書を基に検討