『夢』
最近視覚的な夢をよく観ます。華やか艶やかであります。
今日はプロジェクターに映ったマイケル・ジャクソンのミュージックビデオ。
現実で観た事が全くないものなので、夢の創作。
夢の中でも「映像はここまで進化したのか、これはマイケルの死後にCGで作ったものだろう」
と思って見てました。
それとネズミが賢くなって、人形の服などを着出すという夢なども…漫画みたいです。
2足で立って、ぬいぐるみみたいで可愛かったけど、その夢の中ではネズミたちは
時々カラカラに乾燥して床で死んでたりもしてました。
人に近づき、知恵はついても肉体的なもろさは変わらない…
人間も同じなんだろうと、夢の中でもちょっと悲しく空しく思っていました。
『体操』
昨日と4日前と久しぶりに体操に行ったので大分身体が軽くなった気がします。
仕事での腕のだるさが良くなった感じ。
終わったあと、他の生徒さんとお話したところ、普段は他のクラスを取っているけど
こちらの先生がとてもいいので、時間がある時にはこのクラスにも来ているんだとのことでした。
教室や体操が良いだけじゃなくて私がついた先生も良かったんだと、嬉しい気持ちになりました。
月3回ほどは時間を作って行きたいですね。
『もっと自由に』
人から腹が立つことをされたり、或いは私が一方的に誰かに腹を立てたりして…
私はそういう時に相手が間違っていると思いやすく、
もっと行くといかに悪いかを主張証明したくなります。
そして本気であればあるほどちっとも気持ちがスッキリしない。
時にはまわりを巻き込んで相手の悪さを証明しようとしても感情が完全には収まらない。
でもずーっと考えていて、そんな私が間違っているんだと思いしみる今日この頃。
こんなこと、多分幼稚園の時のほうがよっぽど深く理解していましたが、
そういう素直な感覚を忘れてきちゃう。もう一度謙虚になって思い出したいです。
どうしても許す気持ちになれなかった人のことを考えてみると、
それは彼らがどうだというのじゃなくて、感情レベル、心の問題では単に私が好きになれなかった、
その時のその人を嫌になってしまった、それだけの事なのにね。
(そして強く憎んだ人のことこそ強く愛した、あるいはその人からの親切や好意や理解という愛情を
私が求めていた人でもあったのです)
そう思うことができたら、
「私はあの時嫌だと思った。怒った。あの時のあの人のあの言動がこれこれこういう理由で」という風に、
憎しみも限定的なより小さな軽いものに変わって行きます。
どんなことでも心が行き詰ってしまった時、
誰かが状況がどうのとかよりも、私がどうなのか?と自分を主人公にしてあげれば
それを解決するのも自分に出来ることになりますが、
相手がどうのじゃ、その人の心や行動が変わってくれない限り、
そんな都合の良い奇跡でもおきないかぎり、私の心は永遠に収まらないでしょうし、
それに対して何のアイデアも行動も沸いてこないでしょうね。
何よりも結果としては他人の行動で自分の感情が振り回される、
自由とは程遠い人間に自らなってしまう。
もしそれが一過性のその時だけのものとして収まらないのだとしたら、本当に問題だと思います。
私は生まれつき自由が大好きなのです。それを裏切りたくないのです。
だから自分の意思でどうにもならないものに悶々とするのは人生の無駄!やめる!
これからも悶々としてしまうこともあるでしょうが、やめるためにこそあえて言い切りたい。
人生なんかいつまであるのかすら判らないのですから。
他の無駄なことも、気づいたものからどんどんやーめる!
I Quit!←これ好きな英語の言葉だった…
画像は企画ラフ。中国風な話。
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