格差のない平和な社会をめざして   

社民党の理念は「平和・自由・民主主義・平等・共生・連帯」
「社民党の活動を知って下さい」を目的に作成してます。

義民遠藤兵平の遺跡

2013年05月23日 | くまじろうの一言コラム
 街宣活動で寄居町から美里町・本庄市へ行く途中に、交差点で一時停止した時に目にした『美里町指定文化財「義民遠藤兵内の遺跡」』の看板。
先日、遠藤兵内の遺跡に行ってきました。



 遠藤兵内 えんどう-ひょうない

 1721-1766 江戸時代中期の一揆(いっき)指導者。
 享保(きょうほう)6年生まれ。武蔵(むさし)児玉郡関村(埼玉県美里町)の名主。明和元年(1764)、幕府の助郷役増加計画に反対して武蔵を中心におきた百姓一揆、伝馬(天狗)騒動を指導。要求はみとめられたが、首謀者として明和3年2月13日獄門となる。46歳。
通称は関村兵内。名は「へいない」とも。
(朝日日本歴史人物事典より)



 江戸中期の伝馬騒動(武蔵国の百姓一揆。天狗騒動ともいう)の首謀者、義民。武蔵国児玉郡関村(埼玉県美里村)の名主。
江戸幕府は日光東照宮150回忌に下向する日光例幣使迎え入れと中山道筋の交通量増加への対策として、増助郷を計画した。
助郷に動員される農民らは過重な負担増を恐れて反対したが、明和1(1764)年閏12月武州児玉郡・大里郡内の各所に、幕府へ増助郷免除願いの強訴を呼びかける張紙が張られ、大一揆が起きた。一揆の結果、増助郷計画は撤回されたが、一揆後、廻状の張本人として兵内は捕らえられ、獄門に処せられた。死後、神に祭られて「関兵大明神」と崇められ、幕末には「兵内くどき」という踊りがつくられて顕彰された。
その墓は今でも香華が絶えない。( 朝日日本歴史人物事典より)


義民遠藤兵内記念碑の記念樹







 斬首が3日3晩さらされたと言われる志戸川の川辺にある「義民遠藤兵内の碑」


 遷座記念碑
 県道児玉熊谷線の道路改良工事により、義民遠藤兵内記念碑及び諸々の神々をこの地域の守護神としてこの地に遷座し、ここにこれを記し記念碑を建立す。美里町教育委員会撰文



 関観音堂



 関観音堂内にある慰霊塔


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「横柄な」改憲派に断じて3分... | トップ | 「9条を守る会」の皆さんとの... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

くまじろうの一言コラム」カテゴリの最新記事